98.陽夫多神社探検記(三重県伊賀市) | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
神社探検の動画はこちら
→ https://youtu.be/8gVu8qGihD8

栃木県西側山岳部の神社探検をとりあえず一段落させ、いきなり三重県に、飛びます、飛びます。

真実を追い求める「常陸国ふしぎ探検隊」に距離は存在しません。ほんの8時間です。(笑)

とはいうもののトンネルが恐いんです。中央高速中津川の8kmに及ぶ老朽化した恵那山トンネルは最悪です。新東名を使えばよいのですがスピードも恐いのです。三半規管の衰えによる平衡感覚の低下が原因ではないかと考えています。


それに九州の大分県日田市から関東東北へ調査旅行にこられた白髪の研究者に比べればまだまだ

です。(笑)


さて、伊賀や甲賀は忍者で有名ですが、前回の調査でナビに導かれるまま迷い込んでしまった甲賀の田んぼの中の集落に、物部氏の代表的家紋「日負い鶴」を掲げる民家を見つけてからというもの、その周辺を調査したいと考えていたのでした。

まずは伊賀の陽夫多(やぶた)神社。主祭神は建速須佐之男命

玄松子さんのHPより由緒を引用します。


鎮座地;三重県阿山郡阿山町大字馬場九五一番地

ご祭神:健速須佐之男命 配祀 五男三女神

     合祀
     天之火明命 火之迦具土神 香香背男神 大物主神 大山祇神 大日孁貴命 宇迦之御魂命 伊

     邪那伎命伊邪那美命 速玉之男命 事解之男命 天兒屋根命 蛭子命 菊理比賣命


由緒:当社は延長風土記に「押盾天皇戌午国造多賀速祭之也」とあり。和名抄、伊賀風土記によ

ると、伊賀河合郷の総社にして人皇第二十八代 宣化天皇三年(西暦五三八年)に国中に疫病

が流行したので屏息祈願 のため伊賀国造多賀連が創建したとある。世に高松神、河合天王の称あり。

御神徳当社の主祭神健速須佐之男命は自から祓い清めることを実践された神様で 古来より「厄病難

守護」の信仰が篤く、産業、文学(歌道)の神として 崇敬されている。


伊賀は伊と賀であり、伊は伊の大神=山幸彦を、賀は鹿から変化したもので鹿島大神=海幸彦を思い浮かべる文字です。また、大神と書いて「おおが」と読むか「おおみわ」と読むかの違いを解析する突破口になるかも知れません。いずれにしても祭神のスサノヲとは関係が深い文字ではあります。


なぜスサノヲと関係が深いと考えるのかは、「伊」の場合は新羅本紀の三国史記から推定した系図などから導き出した、スサノヲの弟、「買」をニギハヤヒ=山幸彦と仮定したからであり、(「番外9.ニギハヤヒとはだれか」参照)賀(が)は鹿(か)から変換されたもので、元は神(が)であり、鹿島大神(海幸彦)を五瀬命(スサノヲ兄)の子と推定し阿蘇氏=大神(おおが)一族の中心人物としているからにほかなりません。


大神を「おおが」と読めば海幸彦=鹿島大神を、「おおみわ」と読めば山幸彦=ニギハヤヒ、つまりなりきり大物主=大国主を示しているとわれわれは考えています。(百嶋説ではおおがはウガヤフキアエズ=アジスキタカヒコネ)「なりきり」とはニギハヤヒを大物主=大国主と呼んでしまったという意味です。


話しは飛びますが、私の住む常陸国最北西部、当時は陸奥国と那須国との境は、三輪郷と呼ばれて

いたと比定されていたようです。

これをもって旧美和村付近をを三輪郷と比定していた研究者の文章を目にしたことがありますが、旧美和村は昭和の大合併時に嶐郷村と桧沢村が合併して成立したものですから、的を射ない分析であったと感じてしまいます。


とはいうものの現在のようなネット環境が整っていない時代の研究は、現地調査をしなければなかなか地方の事までは判断できなかったのでしょう。これを机上の空論とあえて呼びます。(笑)


となりの旧緒川村大岩に三輪神社が鎮座しており、あながち頓珍漢ではないと思ってしまいますが、ここは江戸時代に光圀(黄門様)が国神神社を三輪神社に変えてしまい、奈良の三輪山に家来(助さんか格さんか?)を派遣し杉の実を採ってこさせ、境内に種を播かせるという念の入れようです。つまり光圀はこの地域が史書に三輪郷とあるのを読んで証拠をねつ造してしまったと考えられます。光圀は大子町の近津神社を久慈郡式内社の稲村神社に比定するために、その付近の地名を稲村にしてしまった前歴(とわれわれは考える)があります。他にも疑わしいのは、静神社の銅印、栃木県大田原市笠石神社の国宝「那須国造碑」などがあげられます。

 

  

 拝殿 幅の広さに圧倒されます。


 拝殿の神紋 右三つ巴 水を祭祀していることを表す。


本殿内部 左三つ巴と五瓜に唐花(織田木瓜、鳥の巣紋、桔梗ではありません)この紋は博多の櫛田神社の3つの神紋の一つでもあります。祭神がスサノヲであることを考えれば理解できます。


五男三女神は記紀由来なのでどうでもいいが、香々背男を祀っているところに注意。


五男三女神は八王子とも呼ぶ場合がありますが、百嶋神社考古学では、スサノヲと天照の間に子は

儲けたとはしていないので、われわれは不比等神道(≒似非藤原神道≒吉田神道≒大日本史≒国家神道)に傾倒した神社だと判断しています。


似非(えせ)と書いたのは、藤原氏について新たな謎が浮上したからです。藤原氏といえば中臣鎌足を祖とする一族と解されていますが、正統皇統(あえてスサノヲ系とします。)の流れを組む藤原氏が出現しそうなのです。例えば、多氏(おおし)の扱いは今後の課題でもあります。


われわれは伊勢神宮を通説のように女神の天照を祭る神社などと考えているわけではありません。


われわれの考える伊勢神宮の祭神としての天照は「五瀬」あるいは「スサノヲ」です。


開化天皇が藤大臣(ふじのおとど)と呼ばれていたことに関係するかもしれません。

陽夫多神社も右左巴紋が混在しています。つまり「本物」である可能性が高いということになります。

これは元々は正統派だったということですが、五男三女神を祀ることを鑑みれば現在は(少なくとも明治以降は)違うということになります。

祭神額にある神は百嶋系図における初期の神々の名前をほとんど網羅しています。

例外は五男三女神、蛭子命、香々背男です。香々背男はわれわれは長髄彦だとしているので、どうでよい五男三女神を除けば蛭子命に注目がいきます。

蛭子命は百嶋系図では事代主であり少彦名、大田田根子(意富多多泥古)にしています。

崇神時代に三輪山の大物主のお告げによって神主に抜擢された逸話を思い起こします。

大田と書けば山幸を意富多と書けば海幸を彷彿とさせますから、蛭子は非常に怪しい存在と感じます。

さらに事代主や少彦名は大国主との関係を思い出します。本当に怪しい存在ですね。

蛭子を蝦夷と書く場合もあります。すると東北地方との関係も出てきます。

イザナギ・イザナミ神話ではイザナミが先に声をかけたことが原因となり、不具の子に生まれたため葦の舟に入れられオノゴロ島から流されています。この神話からは、モーゼの逸話を思い出します。

つまり蛭子とは、金山彦、海幸、山幸、大国主を想像させる名前であることが判ります。

こういう名前の付け方は見事としか言いようがありません。やっぱり記紀には人麻呂が絡んでいるのでしょうか?






 





   

 本殿への石段                上野市は役小角に関係しているようです。 

境内の前にあったお旅所古墳


右左三つ巴が見られたので本物の祭祀をしている神社ではあったろうと考えられます。


しかし蛭子や五男三女神が祀られていることからは記紀をベースにしたという胡散臭さがにじみ出ています。


伊賀の国はまだまだ探検が必要ですね。



百嶋神社考古学にご興味の方は、常陸国ふしぎ探検隊河野まで。携帯090-3479‐3438



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