今回の探検は、冬至の時に弟橘姫神社つまり朝日指峰から昇る朝日を見ていたと思われる花園神社です。(65.北茨城市弟橘神社探検記参照)
鎮座地は北茨城市(旧多賀郡華川村)華川町花園。
祭神は大物主、大山咋、大山祇。
弟橘姫神社のある磯原海岸から北西方向の阿武隈山地の中にあり、茨城県ではもっとも険しい地区の一つです。福島県いわき市と県境を接しています。
常陸国北部の神社によくみられるように、坂上田村麻呂の征奥に因む創建となっています。
由緒沿革には大同2年平城天皇より「山王大権現」勅額を賜るとあります。
慈覚大師円仁が奉仕したことにもなっています。その円仁が自作した木像が、光圀の隠居と同年に焼失しています。私は光圀の本地垂迹への嫌悪が表出されていると考えてしまうのですが、どんなものなのでしょうか。なんでも火事にあって燃えてしまったことにすれば大義名分が立ちますから。
花園山は茨城キリスト教大学学長を務めた志田諄一氏が論証した修験道の常陸五山の一つであり、470年の長きに渡り常陸国を支配していた佐竹氏にゆかりの深い神社です。
関東平氏とのしがらみによって源頼朝の挙兵に参加出来なかった佐竹四代秀義は、頼朝が東北勢力と佐竹勢力を恐れ、分断することを目的とした金砂山(西金砂神社)の戦い(1180年)に敗れ、常陸五山の神官、僧侶、山伏などの助けを受け、花園山の猿ケ城渓谷の洞窟に身を潜めています。秀義は日吉山王権現の使いと言われる山猿が木の実を運んでくれたので、飢えをしのぐことができたという言い伝えがあります。
秀義はこの後、平泉の奥州藤原氏の元に身を寄せ、頼朝の撤退するのを待って常陸国に戻ったようです。
楼門の扁額
この扁額は当然平城天皇から勅賜されたものではないでしょう。(笑)
力士像
東金砂神社も黒崎神社もそうでしたが、神社というよりお寺です。神仏混淆の名残が感じられます。
斉藤ひとりさんの千社札 スリムドカン! 楼門の化粧 鳥が居るようです。
麻の葉紋 四つ菱か?
門光紋(花菱紋)、開化天皇の神紋であり伊勢神宮の神紋でもあります。
亀甲紋は本来大幡主系の神紋です。 宝珠らしきものが見えます。中央のピンク色
屋根正面の猿面 蔦と花、なんという花でしょうか?
亀の彫刻 太陽の彫刻
右五つ巴の花びらバージョンか? 境内社 千勝神社(事勝国勝長狭命)
千勝神社は日本武尊を祀ることが多いのですが、ここでは事勝国勝長狭命(ことかつくにかつながさのみこと)、記紀では塩土老翁(しおつちのおじ)としていますから百嶋系図では大幡主となります。
似た名前で「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命」は天児屋根命を示しますが、「勝」はWINの意味ではなく、「すぐり」と読み月の祭祀権を持っている一族=姫氏を指すようです。(柴刺:馬場紀美史著による)月の祭祀権は月の引力で潮の干満の大元ですから、海(水)の支配権を示しているようです。
しかし月だけでは代表者にはなれません。日の祭祀権を獲得する必要があります。
巴紋で言えば、左回りがヒダリで日(火)の祭祀権、右回りがミギで水の祭祀権があることを示唆しています。右回りと左回り三つ巴の紋を紋としている神社には長野県上田市の生島足島神社があります。
49.生島足島神社探検記 を参照ください。
これは系図には隠された秘密です。神武系だけが必ずしも姫氏であることではないことの証左となりそうです。前稿の説の裏付けとなるかもしれない内容です。
また、近世で言う勝場(せりば:鉱石を粉砕精製するところ)の勝であるかもしれません。
境内社 金刀比羅神社(大物主命) 鷺森神社(大己貴命、保食命)
境内社はその他に東照宮と厳島神社愛宕神社がありました。
本殿に行く前に、鎮座地の地名、華川町花園(はなかわまちはなぞの)について考えてみます。
華はも花も木偏をつければ「樺」「椛」でカバと読みます。木花開耶姫につながります。どこかで、木花開耶姫は修験道に関係しているとの文章を目にしたことがありますが、それは修験道がもともと鉱物を探索する集団であることが原因となっていると考えます。修験は山奥の調査をするための集団でしょう。
「開」は削岩機の削であると百嶋先生は何度も言っておられます。
修験道が残っているところは、火山かもしくは火山であったところです。その周辺では必ずと言って良いほど鉱山があります。近隣では大子町の八溝山は金鉱山、日立市神峰山または御岩山は銅鉱山、真弓山は大理石。日光、足尾は銅鉱山、という具合です。
愛宕神社(祭神:カグツチ)があることも鉱山であったことの証左の一つとなりえます。
(町なかにある愛宕神社は火伏の目的で作られていると考えと良いと思われます)
木花開耶姫については53.都々古別神社探検記(3)木花開耶姫とはだれか 参照ください。
拝殿裏の石段を上ると本殿があります。祭神は三柱ですが、鈴は4個。誰かが追加されている?
本殿の狛犬 大子の近津神社上の宮のものに似ている。
本殿縁台で守護するひょうきんな像。猿の化身か?
本殿の彫刻群と猿の屋根飾り 見ざる、言わざる、聞かざるが見えますか。
近隣の神社では千木は内削ぎ(女千木)でも鰹木は奇数のところがほとんどでしたがここは逆でした。
女神が祀られている可能性はあります。
フルール・ド・リスの変形バージョン
女神様が祀られている証拠です。
境内社には厳島神社が祀られていましたから、女神がいることは確かなのですが、本殿にこの紋章があるということは、主なる祭神の一柱として女神が祀られていると考えられます。
鎮座地の華川町花園から考えれば、木花開耶姫であると推察します。
本殿裏にあった祠と猿の石像 アンコールワットの彫刻に似ている
猿は日吉山王権現の使いと言うだけあっていたるところで見られました。西金砂神社本殿でもたくさんありました。
百嶋系図では、大物主は基本的に大山咋を指しますが、義理の大物主として大国主、代理大物主として事代主であるともしています。
花園神社の場合、祭神に大物主と大山咋が祀られているようなので、この場合の大物主は大国主か事代主である可能性もあります。
また、大物主と大山咋が同神だと考えていない(あるいは理解していない)ためであるかもしれません。
大山咋と大山祇は無関係に見えますが、命名法から考えれば深い関係があるはずなのです。
理系の実験では「仮説」なるものがないとスタートできません。文系の研究ではそんなことはないのでしょうか。
現在の知見をもとに、仮説を立て、それを資料や現地調査で確認していき、仮説の正しさを証明する、あるいは仮説を立てなおすことが基本でしょう。だから仮説は研究者の知見の違いによって立てられるレベルが異なります。
文献から得られる事柄は研究者によって解釈の違いがあります。だから、同じ文献から異なる歴史が導きされてしまうのでしょう。漢文一つ採っても一つの文字を「名詞」ととるか「動詞」ととるかで解釈が変わってしまいます。好太王の碑はその典型的な例でしょう。
したがって他の研究者から見れば妄想と思えることも、それを真剣に研究している人もいると理解して戴きまして、拙ブログをご覧いただければ幸いです(笑)
ということで、大国主は個体としてはいなかったという仮説を立てています(笑)
(実は市杵島もですが・・・)
大国主は役職名であり、大山咋もその継承者の一人だったのではないか。
現時点での大山祇と大山咋との名称の類似性の理由はこの辺が突破口になるかもしれません。
福島県いわき市に愛宕花園神社があり、その中の花園神社の祭神はコノハナサクヤ姫とニニギです。
ニニギはどうでも、とりあえず花園神社の祭神にコノハナサクヤ姫が含まれていることの確認は取れました。(2016.1207追記)愛宕花園神社のHP参照。
花園神社の動画はこちら→
百嶋神社考古学にご興味の方は、常陸国ふしぎ探検隊河野まで。携帯090-3479‐3438