アンドリュー・ワイエス | Talking with Angels 天使像と石棺仏と古典文献: 写真家、作家 岩谷薫

アンドリュー・ワイエス

 アンドリュー・ワイエスは高校生の頃から知っている大好きな画家です。
 当時から彼の大きな洋書の画集も持っています。
 (今、Wikiを調べると、2009年に亡くなっているのね。2009年といえば、私も人生で最も不快な年だった…)

 大学生になると、アンドリュー・ワイエスの展覧会があると、よく見に行っていたものです。
 大概の画家は、画面に目を近づけると、その筆痕から、どうやって描いたのか想像が付き「鍛えればオレだって出来るさ」と安心したものですが、アンドリュー・ワイエスだけは、いくら目を近づけても、全く、どうやって描いたのか解らず、不安と謎で、展覧会会場をあとにしたものでした。

 ほどなく、その技法がドライブラッシュであると知りました。
 大学生の私は、早速その技法を使って自画像を描いて、なかなか良い出来でした。このブログにその絵をUPしようと思ったのですが、スケッチブックが数ある引越の段ボール箱の中に入ったままで、今現在は見付け出す気力がないのが残念。
 当時は、大学を止めて、美大に編入しようと真剣に思っていた。
 結局、美大の受験に落ちたので、とりあえず大学に残り卒業したのです。

 最近、図書館で、久々、アンドリュー・ワイエスの小さな自伝を発見したので読んでみました。

 父のNCワイエスは、列車事故で死んでるなんて知らなかった!びっくり。
 あんな見通しの良い田舎で、NCの乗った車と列車の衝突なんて…どういう状況だったんだろ。 (NCワイエスの絵もいいけどね。ワイエスの息子、ジェイムスの絵もいいよ。彼らの絵を過小評価する人がいるけど、そんなことはない。)

アンドリュー この絵は、その事故直後にアンドリュー・ワイエスが描いた絵だそうです。
 草原の中で舞うような不安な魂。父の魂だろうか、アンドリューの魂だろうか。
 さすがに、アンドリューも父そのものは描けなかったそうです。
 ちなみに、中国古典怪談にも、このように魂が荒野をさまよう描写は何度か出て来るよ。

 その自伝書から、アンドリューの興味を魅く言葉の抜粋。

●「人を殺すかもしれない。それほど緊張している。たとえ子供であっても批判されるのはいやだね。とにかく腹が立つんだ。恐ろしいことだろ?」

 アンドリューの製作中の心境を語っているものだけど、この心境、すごくよく解ります。
 ものを創るような人は、これぐらいの確信と激しさがないと、出来ないのではないでしょうか…。製作中は批判等、意味も必要もなく、ものすごい「確信」です。

●「本当の感情というのはめったに生じるものではないので、手にいれるのは難しい。つくった感情ではなく、心の中を引き裂いて溢れ出るような感情はね。そのための心の準備はしておきたい。ときどき自分が歩いていること、そこにいることがわからなくなるときがある。無になることが好きだ。ここのすべてのものの上を漂うことができたらどんなにいいだろう。そんな印象を与える絵を描きたいと思っている。」

 これも、すごくよく解る。心の中を引き裂いて溢れ出るような感情。正に、私が『Talking with Angels』を創っていた時の感情。ものすごく突き動かされるような感情、あるいは高貴な義務感のようなもの。日本の出版界はダメで、3冊目の『Talking with Angels』の真の意味が解らんのよね……
 といって、『笑とる仏』や『新釈 中国古典怪談』が引き裂いて溢れ出るような感情で創られたものではないという意味では決してないが…。制作動機の根本の奥の奥が、『Talking with Angels』は少々別種な気がする。
『Talking with Angels』のロケ中は、正に「ときどき自分が歩いていること、そこにいることがわからなくなるときがある。」という心境でした。
 先日、テレビで犯罪捜査に協力する超能力者が、「一人じゃないと降りてこない」との意味の言葉を呟いていましたが、この心境、意味もすごくよく解る。この「集中力」なのです。

 キルケゴールは言っている
『真実は主観である』と
 これは禅も教えているところです。
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