関東土木保安協会

関東土木保安協会

Kanto Civil Engineering Safety Inspection Association

~ 土木の迫力 機械の技術 礎となった名も無き戦士達の魂 ~
関東土木保安協会は、鉄とコンクリートの美学と保全活動を追求します。


関東土木保安協会です。
マクドナルドといえば、ロードサイド店舗ではドライブスルーの車列が道路まで続いてしまって渋滞の引き金となっている店舗もちらほら見ます。
そんな中、最近のトレンドは店舗建替と合わせて、敷地を拡大してレーンの増設など、ドライブスルーの販売力を強化する店舗も多いように感じます。
新しい店舗を数店舗見るだけでそのようなトレンドが垣間見えます。
ちょうど道路を隔てて新旧店舗が存在する光景がありましたので、懐かしさもあり記録してきました。


こちら「マクドナルド白岡西店」は、2024年8月末に開店したばかりの新しい店舗です。
最近のロードサイド店舗は平屋が多いなと感じましたが、ここも例に漏れず平屋です。
グレー系基調の落ち着いた配色に、合理的な箱形の店舗。
現代のチェーン店舗的な佇まいです。
派手なキッズスペース「プレイランド」はないように見えますが、よく見ると入口脇に看板があり、内部に設置されています。
モバイルオーダーの「パークアンドゴー」にも対応しており、該当駐車区画には看板も設けられています。


ドライブスルーレーンは2つあります。
車列が道路にまではみ出したりすることも、敷地からはみ出しそうな車列を見て入店を諦めていた利用者の取りこぼしも、これなら大きく減ることでしょう。


道路を挟んだセブンイレブンの隣にあるのが旧店舗のマクドナルド白岡店です。
2階建の店舗は洋風で、どことなくアメリカンな雰囲気です。
昔はこんなオールドマックが当たり前でしたが、ここ最近は建て替えも多く見られ、コンビニでよくある敷地拡大や店舗面積拡大の流れを受けているように思えます。


白岡店も、白岡西店に移転する形で閉店し、ロゴもないさみしい脱け殻が残るのみです。
コンビニの敷地と繋がっていることや、仮囲いで覆われてる事から、解体工事も間もないと思われます。


マクドナルドのロゴ。
90年代のデフレ時代。
1個65円のハンバーガーを掲げていたあの時代を生きた、90'sマックの店舗です。


ドライブスルーのレーンが残ります。
最新の店舗は面積も広く、ドライブスルーレーンの広さと、並んだ車列を捌ける能力を持ちますが、昔は店舗周囲をぐるりと回る、窮屈なこんなレーンが多かったですね。


手狭感のあるドライブスルーレーンの受渡口。
リニューアルしているので塗装などは現行デザインに近いですが、建物の細かいところを見ていくと、経年感あるオールドマックです。


電柱と区分開閉器を見たところ、1990年の文字が。
1990年頃に開業した店舗だったようです。
電柱の需要家プレートには「日本マクドナルド」の文字がありました。


消え行く、現代に適合しない古いチェーン店舗。
平成レトロを記録するのも、追い付きませんね。





関東土木保安協会です。
1950年代後半に宇都宮線電化のために国鉄が建設した桶川から宇都宮の1回線送電線。
この大半が東電受電化に伴い撤去、もしくは東電送電線に置き換わるなどして残っていませんが、送電線の起点寄りとなる埼玉県桶川市、上尾市、伊奈町方面では、鉄塔自体は無いものの、それらの遺産がまだまだしっかりと残っています。
その様子を記録していきます。


国道17号から東電PG桶川変電所に至る道路へ入り、そのまま住宅地をひ北東へ進んでいくと、上尾市上の辺りに着きます。
ここで、道路上に唐突に例のフェンスが現れます。
桶川-蓮田線5号の鉄塔跡になります。
JRでは鉄塔番号は「号」呼びのようなので、○号と呼びます。

▲道路脇に突如として現れる鉄塔用地

桶川-蓮田線は、工事記録によると桶川寄りの1.6kmまでが地中線で、3号鉄塔から地上に現れる送電線だったようです。
現存している痕跡で一番若番となるのがこの5号になります。

▲桶川-蓮田5号跡

コンクリートのがっちりとした基礎で容易に撤去工事に至らないのか、住宅の前に堂々と鎮座する鉄塔跡です。
境界杭がしっかりと国鉄の敷地であったことを示しています。
敷地内には枝や落ち葉などが置かれ、長い管理期間に伴う生活臭が漂っていました。

▲しっかりと残る国鉄境界杭

鉄塔は道路沿いに建設されていたようで、この後も道路沿いを東に進んでいきます。
すぐに同じ道路の南側に6号鉄塔の跡が見えてきました。
こちらも民家の脇にありました。

▲桶川-蓮田6号跡

フェンスの中には中央にしっかりと看板が掲げられており、JRの鉄塔跡地だと明記してあるのでよく分かります。
ちなみに、5号の方はこのプレートが鋼材ごと撤去されており、性格には何号鉄塔跡かは明記されていないですが、状況の記録から5号で間違いないかと思われます。

▲綺麗に残る鉄塔管理用地のプレート

同じ道路を進むと、変則十字路の突き当たりに鎮座するのが7号跡になります。
こちらは駐車場の一角にあり、建物が隣接しない環境なので全体をよく見ることができます。

▲桶川-蓮田7号跡

看板も綺麗に残っています。
残置物等も少なく、綺麗な鉄塔跡です。

▲アングル材にボルトで固定されている

送電線跡では、配電線などからも送電線敷設跡の痕跡を見てとれることが多いですが、この桶川-蓮田線の遺構区間では、元々郊外であったためかあまり残っているものがありません。
そんななか、7号跡の直下の配電線には線下配慮の痕跡が残っていました。

▲配電線側の配慮も痕跡のひとつだ

一方通行の細い道の先に、8号跡があります。
こちらはゴミステーションが隣接していました。
ここでも鉄塔直下のゴミステーションという光景が見られました。

▲桶川-蓮田8号跡

今残っている鉄塔跡地は、全て主柱が基礎のところでばっさりと切られた状態になっています。
何故この状態で除却もせず残しているのか、よくわかりません。
大きい建物が建ったところは綺麗になっているようなので、更地化して売りに出したところで、土地の買い手がつかないからという理由なのでしょうか。


▲どこも主柱の各脚の基礎が残っている

杭もあり、看板の記載のとおり、未だにこれら点在する土地はJR東日本(グループ)の不動産管理配下にあることでしょう。

▲境界杭もはっきりと残る

この後は9号となるのですが、どうやら無くなってしまったようです。
位置を調べると、今は出版社の物流倉庫の敷地内になるようで、
倉庫ができた際に鉄塔跡も綺麗に撤去されたものと思われます。
2009年に竣工したらしいので、そのくらいまでは残っていたと思われます。

▲桶川-蓮田10号跡

この区間で残っている最老番が10号です。
こちらは畑の中に残っていました。
畔もなく近寄れないですが、草の繁殖も凄くジャングルの様相です。

草にまみれた中にうっすらと見える10号の文字

今、これら5基の鉄塔跡が残るのみとなった桶川-蓮田線の鉄塔跡。
10号のすぐ東側からは、現東電PG蓮田線が国鉄線の鉄塔と置き換わった形で建っており、それ以降は栗橋まで東電PGの送電線としてそのルートを残しています。

▲東電PG蓮田線/大針線。右奥にJR蓮田線分岐がある

伊奈町の長閑な田畑の先に連なる、東電蓮田線の鉄塔達。
直線的に進む綺麗なルートと整然とした鉄塔らの並びが、旧国鉄のそれを受け継いでいるようで、何ともロマンを感じさせてくれます。
今後も暫くは残り続けるであろうこれら遺構たち。
知らないでこれを見たとき、「何故ここでJRの土地?」という謎しか出ないでしょうが、国内送電網の黎明期に鉄道電化の責を担った重要なインフラの痕跡だと知られてもいいのかなと思います。








国道122号線の蓮田岩槻バイパスの平林寺橋まで来ました。
この交差点から以南がバイパスが片側しか完成していない区間になります。


前回の続きで、加倉(北)から平林寺橋にバイパス現道を北へ向かいます。
街路樹もある綺麗な通りを数キロ進むと、再度のクランクを示す標識が現れます。
平林寺橋に到着です。


ここでまた東北道の西側にバイパスが現れ始めるので、橋を渡ることになります。


今回のバイパス工事の終点となる、平林寺橋交差点です。
ここで国道122号線の上り下りの対面通行が終了します。
写真右側が同上り線で、ここまでは二車線分設けられ既に完成しています。


写真中央が平林寺橋です。
国道122号の旧道から下ってくるとこの交差点のアングルになります。
左折と直進ができますが、当然上り線の一方通行となる右折方向へは進めません。


一車線分を潰して大量の進入禁止標識が置かれています。
過去に逆走車が正面衝突をする事故もあったようで、このように厳重に注意を促しているようです。
今後の計画では以南の上り線の二車線化を行う際に、この標識類が無くなり完全二車線化すると発表されており、今後はスッキリとした交差点の姿が見られそうです。


交差点の周辺にはいつのものだか分かりませんが、ガラスの破片があったりと、事故が数回起きているような痕跡がありました。
紛らわしい交差点ですから、初見のドライバーは戸惑う人もいたことでしょう。


平林寺橋は幅員8mはありそうな広い橋ですが、一方通行の運用で、歩道もないためブロックが置かれ歩行者との動線が区切られています。
歩行者はすれ違い時に少し狭いですね。


橋を渡った高速道路西側の側道部分です。
中央二車線部分が元々用地があり、今回の開通に合わせて整備された箇所で、左側のカーブは平林寺橋を通過してきた車両向けに作られたこの先のバイパスへの導入路です。
新設される信号があること、今後は橋を通過するのが旧道通過車両と上り線から下り線への転回車両が主になるため、このカーブは塞がれ、普通の丁字路になるようです。


カーブを進むとすぐ先で二車線区間となります。
手前の区間だけ舗装と標示が新たにされました。


上写真から反対を見るとこんな感じです。
綺麗な新道が続いています。
二車線とも直進の標示しかなく、今後も平林寺橋は一方通行のままとなります。


高速道路と並走してくる新道。
通過車はいない、いまだけの綺麗な光景が広がっています。
開通が待ち遠しいですね。


ところで、平林寺橋に向かう途中で「左折禁止」という掲示がされている箇所があります。
2023年の秋にこの箇所で前原橋という跨道橋が撤去されました。


前原橋は1972年の東北道開通時点から設けられていた橋です。
50年経つ橋ですが、今回のバイパス開通に際して支障になるため撤去されています。


バイパス工事他の橋が必要な橋として残るなか、通過量も少なく、耐震性も不足した古い橋であるため、残すには費用がかかるため撤去されたようです。
両サイドはトマソン案件として今後も暫くは残りそうです。


さて、どうでもいいですが、前原橋の東側に旧山田うどんの店舗跡が存在しますが、ストリートビューで覗いてみるとすぐ近くに肉の万世の倉庫があるためか「焼肉万世岩槻店」として営業していた時期があるようです。
山田うどん建築に万世の提灯。
何ともマニアックな店舗が過去にはあったのですね。
面白いです。


<参考>
・さいたま市 :
一般国道122号蓮田岩槻バイパスの通行方法が変更します







関東土木保安協会です。
国道122号線の蓮田岩槻バイパスの未開通箇所が開通するということで、開通前の埼玉県さいたま市岩槻区加倉(北)交差点の様子を記録しにやって来ました。
2024/9/30から通行可能とあり、既に道路はほぼ完成しています。


交差点を県道2号線の西側から見たところです。
高架下の交差点が加倉(北)交差点です。
高架部が東北自動車道で、左が蓮田方、右が川口方になります。
この左の部分が反対側しか完成していなかった部分で、今回の新規開通部分です。


切替の看板も設置されていました。
当日は23時に切替予定とのことで、影響が小さい深夜帯での実施となります。


交差点の南側から新規開通部方を見てみます。
開通に際しては歩道が広くなり、既設の道路にも少し手が加わっています。
右にチラッと映る右折車が、既存の122号バイパスへの通過車両で、クランク状に進路をとり東北道脇の対面通行部分へと進みます。


今回開通するのが二車線の下り線です。
これによりバイパスの交通量が一気に増えますね。


この先で野田線をオーバーパスするのですが、当初からオーバーパスするつもりで橋脚を準備したものの、近隣住民との折衝によりアンダーパス案の要望が出され、結果橋脚を作り直しこの桁がかかった経緯があります。
住む人と使う人の双方が長い道のりを走ってきました。


こちらは加倉(北)交差点の下り線川口方を見たところです。
歩道部分が広くなっているのがわかるかと思います。
これを見ると、今まで高架下部分は北側にしか歩道がありませんでしたが、今後の改良で設置されそうな気がします。


同じく川口方です。
今までは右左折の2レーンで、捌ききれない交通量ながら贅沢な使い方をしていましたが、今後はもう1レーンくらい引かれそうな感じです。


私もここの渋滞が酷くて、くたびれた記憶があります。
圧倒的にバイパス通過車両が多いので、信号分だけちょこちょこと動くというのを何回も繰り返し、、という具合です。
だいぶ改善されると思うので、ドライバーは嬉しいですね。


加倉(北)交差点を上写真の対角線となる北側から見たところです。
写真奥から右手前方向にクランク状に進む車が非常に多いため、路面が摩耗してしまっているのが分かると思います。


この部分は歩道が狭くなる工事もされていました。
反対側にも歩道を設けるためでしょうか。


国道122号線蓮田岩槻バイパスの現道を南側から見てみます。
何台か左折している車列がありますが、これが加倉の渋滞のネックとなっている、クランク状に進む様子です。


開通後はこのクランクに進む車達は直進となり、今年度末にはこの現道部分も二車線が上り線となる予定です。


ひっきりなしに往来する車。
このバイパスがなかった時代は、岩槻市街を進む旧道を走っていたと思うと、今と同量では無いにせよ凄い混雑だったのだろうと思います。


このまま走り納めとして現道を北へ向かい、平林寺橋方へ進もうと思います。


<参考>



関東土木保安協会です。
埼玉県は所沢市、西武池袋線の小手指駅の北東に、美化鉄塔が並んでいるので、行ってきました。
東電PGの並木線といいます。
この鉄塔、イチョウの絵が描かれているんです。

▲並木線No.1(1979/1,28m)

No.1から見ていきましょう。
多数を占める円形の鋼管ではなくボックス鋼を用いた鉄塔になります。
デッキの下側にカラフルなイチョウが描かれています。
ルーツは分かりませんが、並木線の由来となる並木町には航空公園があり、立派なイチョウ並木があるので、そこら辺をイメージされているのでしょうか。

▲正面から見たところ。スクエアな形状だ

前に黎明期の美化鉄塔として大宮線を取り上げました。
だ円形中心の大宮線に対して、こちらは菱形です。
これも柄みたいで素敵ですね。

▲途中のデッキの手摺がお洒落

側面からみると、特徴的な姿がよく分かります。
アルファベットのAのような外観で、中央部の水平材が良いアクセントになっています。
実はこの鉄塔のほか1基以外はモノポールなのですが、このNo.1は耐張型のためか、前後方向の応力にいかにも強そうな主柱を持っています。
この当時の美化鉄塔にあるような、近未来的な雰囲気もありますね。

▲サイドシルエットはA型でこれも珍しい

並木線は東大和線から分岐し、直線的に進んでいきます。
始めは道路の脇の遊歩道部分を進むんですね。

▲少し昭和感ある街中に溶け込む並木線

どことなく昭和50年代にできたような街並みの中、並木線らは道路脇の緑地帯を駆け抜けます。
木々の中に生えている鋼管も、あまり違和感がなく、周囲に溶け込んでいますね。

▲鉄塔達は道路沿いを進む

並木線No.2です。
この鉄塔と次のNo.3はほぼ同じ双子の造りで、お洒落なイチョウカラーは勿論、高さやV吊懸垂碍子も同じです。

▲並木線No.2(1979/1,38m)

美化鉄塔と言えばV吊感があります。
この顔はどこでもみられますが、この子もデッキのお洒落さだけは特徴的なポイントですね。

▲V吊の懸垂鉄塔も同じような意匠だ

少し進むとNo.4が見えてきました。
ここで角度を少し変え、耐張型で集合住宅の間を抜けていきます。
耐張型なのにモノポールなのは、前後方向のかかるテンションがほぼ同じくらいだからでしょうか。

▲並木線No.4(1979/1,31m)

こちらも背の高めのマンションの脇のNo.5です。
この鉄塔なんかは、鋼管柱でないと建てられないような、建てられても視界の邪魔になりそうな場所にあり、美化鉄塔の能力を余すこと無く放っている感がありますね。

▲並木線No.5(1979/1,36m)

No.6です。
こちらもV吊で似たような造りです。
実はNo.4からイチョウのペイントがありません。
コストの関係か、遊歩道部分の鉄塔以外は省略されてしまったようです。

▲並木線No.6(1979/1,36m)

No.6の鉄塔も足元は狭く、今でこそ敷地には狭小根開きのアングル鉄塔が建ちそうですが、美化鉄塔でコンパクトに収めており住宅地にマッチしています。
なおゴミステーションになっていました。
美化鉄塔の足元にゴミステーションというのも、ちらほら見る気がします。

▲No.6基礎部分

最終鉄塔のNo.7に来ました。
この鉄塔もNo.1と同じくボックス鋼の鉄塔でした。
引き下ろし設備の有無は違いますね。

▲並木線No.7(1979/1,28m)

このまま美化鉄塔の並びを見たいところですが、残念ながらここから地中化してしまいます。
ケーブルヘッドの部分で、並木線と別需要家の分岐を行い、地中に潜ります。

▲腕金が伸びてもスタイリッシュ

分岐箇所はジャンパのところで、支持物が鋼管ベースのスッキリしたものなので、ごちゃごちゃしておらず綺麗な見た目です。 

▲鋼管を用いたスマートなケーブルヘッド支持物だ

イラストが描いてある鉄塔はあまり数が多くないので、見つけたら貴重です。
周辺との調和や、無機質感の払拭など様々な目的があるのですが、個人的には見た者にもなにか特別感を与えてくれるように感じます。
次の塗装でもこのまま残ってくれることを願って、さよならとしましょう。





息してますよ。
関東土木保安協会です。

#710で話したJR間々田変電所の話の続きになります。
野木駅東側に南北に連なっていた旧国鉄送電線の栗橋-間々田線。
このルート跡を追っていると気になる遺構が見つかったので、行ってみました。


場所は下のGoogle Mapの上から3つ目のチェックマークのところです。
このチェックマークは、同送電線の鉄塔跡とおぼしきところをプロットしたものです。
マークを結ぶように区割りを無視したような斜めの道路がうっすらと浮かび上がります。
鉄塔線下の痕跡ですね。
ではこの臭いところとやらに行ってみます。


こちらがその場所です。
さつき公園という都市公園になります。
例に倣って送電線直下の公園です。


こちらが鉄塔の設置跡とおぼしき空間です。
国鉄送電線、いやJR送電線、、でしょうか?
なんか違和感ありますよね。


そう、フェンスがいつもの様式じゃないんです。
この時代のJRと言えば縦スリットのあれじゃないですか?
ここは銀色の菱形メッシュなんですよ。どちらかと言えば東電様式ですよね。
何か違う?と。
ちなみにまともに遺構が残っているのは周辺でここだけでした。


フェンスは今も南京錠で厳重にロックされています。
東電臭さから、この鍵の所有者はどなたですか?と疑問になります。


この何か違う光景を一番に表しているのが、この「あふない!!」のオウム君プレートです。
さっきからチラチラ写っていて気になられたと思います。
改めて、「ここJR送電線じゃなかったの?」というところです。
思いっきり東電様式なんです。
JR仕様なら新幹線に感電坊やですもんね。
(シャレ言ってる場合じゃないですが、あの男の子は名前あるんでしょうか、、)


退色してしまったので見えないですが、画像を加工してみると紛れもない東電様式プレートだとわかります。
「オウム君」のイラストと、「この中にはいったり物をなげたりしないでください。」の文字がはっきりと確認できます。


四隅を彩るのは勿論国鉄境界杭です。
ここがルート的にも旧国鉄送電線の遺構であるのは間違いないので、そこまでは理解できます。
間々田線No.3始め、他と同じですもんね。


謎なのがこのフェンスとオウム君プレートなのです。
手持ちの資料など分かるものを見た限り、この区間が国鉄(JR)→東電化された経緯が見えません。
JR間々田変電所は、東電JR間々田線から供給され、そのルートは過去の国鉄送電線だという話は#710で話した通りです。
そこの鉄塔のプレートは1996年で、JR送電線が平成初期に東電化された件とも合致がいくので、竣工(東電化切替)もその頃かと思います。
そしてこの時点のJR栗橋変電所は、まだ僅かに残っていた自社線を用いていたようなので、東電化されていません。

その南方にあるJR間々田変以南の区間で、何故東電化の痕跡が見つかるのか、という謎です。
栗橋~間々田の区間は廃止してしまっていいわけで、東電化する理由もないですし、であればJR間々田線竣工以前から東電化されていたのでは?ということでしょうか。


このさつき公園に隣接し、送電線路の線下になる野木町図書館が竣工したのは、1988年です。周囲の電柱にも1988年の記載がありました。
公園も1983年に決定されたもので、一帯は1988年頃に整備された区域と考えられ、鉄塔の建替もそのころ行われたはずです。
当時の航空写真を見ると、建て替えられた真新しい鉄塔が、上でプロットした図の部分に建っているのが確認できます。
となるとこの鉄塔用地で建て替えたのはJRなのではないかと思います。
ではなぜこの様式か。


もしかしたら、間々田変電所がJR受電化した1996年以前、はては1988年以前から、間々田変電所以南の区間が所謂乗っ取りの形で東電化されていて、今のJR間々田線が完成した際に切り替えて、南側区間は廃止したのかもしれません。
しかし、それでは東電化する区間もその方が長いため、わざわざそんなことをするでしょうか。
途中に需要家のような痕跡も見られません。


ここまで語って、実はフェンスも偶然意匠が違っただけで、プレートは単なる同型の流用で全てJRのものでした、なんてオチもあるのかなとも思いますが、、

謎で頭がいっぱいの訪問者に、コンクリートの4つの主柱の跡が、鉄塔が建っていた事実だけを淡々と語っているのでした。



 
関東土木保安協会です。

兵庫県神戸市兵庫区。
片側4車線の立派な県道21号線大開通沿いに、紅白の鉄塔を有するビルが建っています。
NTTコミュニケーションズの神戸大開ビルです。
震災から30年弱が経ち、当時も今も屈強に立ち続けるその姿を拝んできました。

▲建物外観

少し市街地から離れた場所にある巨大通信ビル。
電電公社の長距離通信系ビルのお約束です。
交差点の角に建ち、地上9階建とその上に鉄塔という立派な姿を見せつけるかのようです。

▲堂々とした姿で交差点に立地

通信機器を収容したビルらしく、片側の道路面には窓が数多く有りますが、その対面や側面には窓はほとんどありません。
ここには日光は要らない、そう語りかけるかのような姿。
屈強な電電公社通信ビルそのものです。

▲無機質な整然たる姿こそ電話局

このビルも1970年代前期頃に建設されたようです。
スマートな鉄塔意匠となる「パイプシリンダー型」の電波塔を有します。
紅白等分塗装でないデザインも当初はあったこの鉄塔。
大開ビルの今の姿は外野鉄塔と同じ7等分の紅白です。

▲パイプシリンダー型の電波塔

大きな鋼管が核となる鉄塔デザイン。
その周りには、小さなトラスが組まれています。
携帯電話のアンテナが設置されていました。

▲例に漏れず基地局のアンテナが設置されている

上を見上げれば穴を塞いだグレイチングが目立つ大きなプラットフォーム。
文末にあるリンクで、神戸市のサイトにより阪神・淡路大震災の記録写真が公開されています。
この中に、ぐしゃぐしゃに倒壊したビルが写る街の写真があるなかで、後ろにびっしりと並んだマイクロ波アンテナを従え、そのままの姿で屈強に立ち続ける神戸大開ビルの姿を収めた写真がありました。
昔はあんなにアンテナが載っていたんだという懐かしさと、周囲のビルからは明らかに一線を画す、その鉄人のような光景が目に焼き付きました。

▲プラットホームにはお馴染みの穴を塞いだ跡が

窓の一切無い外壁。
ここの中は、オフィスではなく電話交換設備や現代では光通信のサーバー等が収容されています。
阪神・淡路大震災の際に、神戸市内の電話交換機停止により、285,000回線が不通になり、5日間も輻輳で繋がりにくい状態であったといいます。
この建物自体が大きく損傷や倒壊などしていれば、もっと通信被害が拡大していたことでしょう。

▲窓がない無骨さは電気通信ビルたるや

電話交換機の停止は、神戸市内8局の電話局で発生しました。
商用電源の停電と、停電時に動くべき予備電源の喪失によるもので、非常用発電機の一部が地震により損傷などし、稼働できなくなってしまったものでした。
これに対し当時のNTTは、全国にある移動電源車を緊急配備し、発災の翌18日午前中には全ての電話局で電源車による給電に切替を行い、交換機は全て復旧したとのことです。
これでも相当迅速な対応に見えますが、実際は道路の寸断等で到着していたものの電話局に辿り着けない復旧班もいたとのことで、携帯電話も主流でない当時、迂回路を経由して市内に入るのは相当な苦労だったかと想像できます。

▲タイルと窓が均等に並ぶ姿も美しい

そんな甚大な被害があった被災当時の神戸市と神戸大開ビルの周辺ですが、被災から約30年経ち、今ではその悲惨な光景が想像できないくらいに復興が進みました。

▲人気が殆どないエントランス

基幹の電話局である神戸大開ビル、営業窓口らしきものは見当たりませんでしたが、掲示物を飾るショーケースだけは残っていました。
スポットライトもあり、昔は新サービスの普及ポスターでも張ってあったことでしょう。

▲昔は掲示で賑やかであったろう

社員向けと思わしき出入口。
半世紀前の昭和の建築物なのですが、鉄板で後付けのスロープが追加されていました。

▲入口段差はしっかりとスロープを増設している

敷地内の車路の上には、空調機の室外機置き場が設けられていました。
見たところ、恐らく後付けなのでしょう。
昭和の基幹局の厳つさを持ちつつ、様々な所で時代に沿ったトレンドにより手が加えられていっている、そんな姿でした。

▲室外機置き場を増設

建物には「近畿電気通信局管内の自動式電話交換創始ゆかりの地」と記念レリーフがありました。
昭和一桁台から電話交換の自動式を採用してこの1978年当時で50年経っていたようです。

▲レリーフ

大開通に立ち続けるNTTコミュニケーションズ神戸大開ビル。
その前身の電電公社時代に、兵庫県の基幹電話局として建設された後に、壮絶な震災を経験し、現在に至ります。
今もこうして変わらず立ち続ける姿に、通信インフラとしての矜持を覚えます。


建設から半世紀近く。
これからも、紅白のタワーは市内のランドマークとして立ち続けることでしょう。
インフラの鑑の生き証人よ、いつまでも。



〈参考〉












埼玉県は杉戸町。
大柄な鉄塔が続くなか、遠目で形が違う鉄塔が一基あったので行ってきました。


場所は前に載せた鷲宮線のすぐ北になります。
こちらの送電線は、東電PGの河北線3,4L/猪苗代新幹線になり、275kV河北線の3,4番線2回線の下段に154kV猪苗代新幹線2回線が併架しています。
写真右奥に上の河北線側が消えていって、猪苗代新幹線はまっすぐ続いている様子が見えるかと思いますが、元々が猪苗代新幹線の区間で、河北線側が建設されるに当たって相乗りした区間になるようです。

▲河北線/猪苗代新幹線併架区間

この区間にある河北3・4L線No.13が、ベンド点無しの単一テーパーの寸胴な鉄塔で目立っていました。
1973年の半世紀以上前の鉄塔ですが、超高圧送電線でこの周辺に写る宅地を貫いたルート設計ができなかったのでしょう。
この僅かな区間を既存送電線かつ線下支障がないことに目を付け併架としてルート設計されたのが伺えます。
この区間だけ河北線はくの字に進路を変えてるんです。

▲河北3・4L線No.13(1973/5,67m)

この謎の寸胴ボディの原因は敷地制約にあったようです。
この通り、住宅地を通過する送電線の線下が道路と中央分離帯に値する緑地帯になっていますが、この敷地内に何とか収まるように建てられた結果、根開きを抑えた寸胴鉄塔ができたようです。

▲鉄塔直下。中央分離帯内に建設

鉄塔建設当時は、猪苗代新幹線が既にあった筈ですが、住宅地の造成がされ、当時電線高も低かったであろう猪苗代新幹線の線下は道路と緑地帯となったようです。
その後に河北線を併架として建替が計画されたものの、鉄塔は既存敷地内に収めないと道路幅を侵してしまうため、この狭い敷地に収まるように設計されたのでしょう。

▲既存鉄塔を背景とした根開きの制約を感じる

このNo.13の北に謎の膨らみを持った緑地帯があります。
下写真がそれで、道路が不自然に湾曲しています。
左奥の鉄塔がNo.13です。
 
▲No.13の北側には少し道路側に膨らんだ緑地帯が

当時猪苗代新幹線は建替前なので、この区間も低い当時の鉄塔が建っていたとみられ、鉄塔間距離も短かったことでしょう。
そしてNo.13は併架で電圧階級も大きいことから格段に大柄な鉄塔になりました。
隣接する鉄塔が不要になったなら撤去されてしまいますので、この膨らんだ箇所は猪苗代新幹線の鉄塔跡なのでしょう。
鉄塔跡、見つけるとワクワクしますね。

▲無駄に湾曲した道路が鉄塔跡を匂わせる

それにしても、この近くの電柱を見たところ1972年頃の記載があり、少なくともその頃までは造成工事がされていたような痕跡が窺えました。
それより遥か前にされたかと言うと、1960年代前半の航空写真では確認できず、60年代後半の造成とみられます。
No.13鉄塔の建設は1973年ですから、この敷地の鉄塔も解体されたのであればそのタイミングでしょう。
恐らく、宅地造成と道路建設後から僅か数年で鉄塔が解体され新鉄塔が建設されたと考えられます。

僅か数年がずれれば、この鉄塔跡も根開き制限の寸胴鉄塔も誕生しなかったはずです。

そんな時の差が半世紀後に未だにこうして明確な構造物や痕跡として残っているのを考えると、とても面白いなと思います。

▲鉄塔跡地とみられる場所

鉄塔跡地と言えば碍子や境界杭があったり何かしら痕跡はあるものですが、今回はどうでしょうか。
なにやら石が埋まっています。

▲敷地には杭が残っていた

東電杭でした。
やはり謎の膨らんだ敷地は鉄塔跡だったようです。

▲東電杭だ!

またもや何でこっちの鉄塔は変な形なんだろう?という箇所で面白いもの見ることができました。
僅か数年で鉄塔のために湾曲した道路の意味もなくなったのがとても切ないですが、緑地帯があったからこそ河北線はここを通過できた訳で、さらになんとしてでも既存鉄塔用地に収めなければということになったのでしょう。
制約が制約を生みその制約がさらに制約となって…
土木設備は面白いですね。



前記事で野木駅の北にあるJR東日本の間々田変電所に触れましたが、この野木駅も1963年開業ということで、その後広がった駅前の風景ということもあり、周辺もレトロな情景が広がっていて楽しいところでした。

野木町は1963年に町制施行となり、駅開業と共に街並みも発展してきたようです。
駅前も東西ともに旧市街地と反対側というような区別は無く、同時期に整備されたような綺麗に区割りされた街並みが整然と並びます。
駅前東西にあるモニュメントは1988年に完成したようです。
郊外の駅前モニュメントはガイドラインに沿ったかのようにバブリーな香り高い物が多く、毎度見るたびに面白いです。


通勤客のベッドタウンとして発展してきた経緯からか、駅前に居酒屋の並びや繁華街などは無く、よくある旧市街地側の駅前のような様相です。
駐車場なのか駅の設備があった跡なのか、後から居酒屋が建ったようで、この1軒だけがやけに目立っていました。


駅は東西自由通路を兼ねたもので、エンジ色のレトロな配色の屋根を持ち、昭和な古い構えが素敵です。
後ろにある白色角張った建屋は同じく自由連絡通路のエスカレーターとエレベーターです。
下にはトイレも設置されており、東西で同じ様式です。
バリアフリー対応で後から増設されたようです。


自由通路の風除板的に設置されたこのパネルもまたレトロでいいですね。
レンガ調のタイルが貼られ、上にはようこそ野木町へと書かれています。
昔の役場の匂いがします。


こちらは隣を送電線が通っているのでは?と話した駅北東にある丸山公園です。
1970年にできた公園とのことで、表札のブロックといい70年代テイストに溢れています。
新しい遊具などないものの、いるだけで昭和を感じられる、短パンやおかっぱの子らが似合いそうな情景の、そんな公園です。


遊具関係はどれも古いものばかりで懐かしいです。
その昔では木材、今ではプラスチックなどを多用する遊具も多い中、金属素材ばかりの遊具は、半世紀前の時代へとタイムスリップさせてくれます。


金属製の遊具は、塗装されているため、色褪せて退色が目立つのもポイントです。
今の遊具はプラスチックで素材自体に色を持たされているため、この辺も違うなと思います。
こういう古い遊具は地域の手で再塗装されているのをちらほら見たりします。


公園外周のフェンスもレトロで、今ではないようなコンクリートブロックに鋼管を合わせたものです。
この青色も時代を感じさせる青でなかなかいいです。


そういえば近くにある野木町役場も町制施行10周年で完成した1973年の竣工です。
同じくエンジ色のアクセントが入るコテコテの役所建築で実にかっこいい姿です。


街並みは一回り二回りしてしまうと家も建て変わり別の風景になってしまいますが、野木町は家こそ建て変わっているものの、駅前にはまだまだ昭和なベッドタウンな世界が広がっている、楽しいところでした。



<参考>
・野木町ホームページ : 町のあゆみ 





関東土木保安協会です。
栃木県野木町。
栃木県最南端、ひまわりと煉瓦窯で有名なこの街も、旧国鉄の送電線の香りを感じられる地の一つです。

野木駅の北にJR東日本間々田変電所があります。
この供給元の送電線が東電PGJR間々田線になります。
この送電線は、国鉄送電線の区間を継承して東電化した送電線のようです。

▲JR間々田線No.3(1996/8) 高さ解読不能

宇都宮線電化の際に自前の送電線を敷設した国鉄。
埼玉県区間を終え利根川を越えた送電線は、古河に渡り栗橋変電所に繋がり、次にその北には間々田変電所が設けられました。
建設が1958年頃ですが、当時は宅地化もそれほど進展していなかったと思われ、送電線は線路脇を堂々と並走するように建設されました。
今では宇都宮変電所以南の区間が全て東電受電化されましたが、うち小山以南の区間は1990年代の早いうちに東電受電に切替がされてしまっていたようです。
栗橋以北の区間について、撤去された送電線区間も多いなか、間々田変電所から北の僅かな区間は東電化に際して国鉄線の鉄塔とルートを流用して移行したようです。

▲綺麗な茶色の碍子のNo.3鉄塔

JR間々田線は変電所以北の僅か4基で終わる短い鉄塔です。
ルートを調べてみると、分岐元の総和線の3基と合わせて7基ほどが国鉄送電線の鉄塔とルートを流用しているようです。
全ての鉄塔は建て替えられて当時の面影はないですが、1つ変わった鉄塔があり、このNo.3だけはフェンスの意匠が違うなと思って目に留まりました。

▲ひまわりの描かれたフェンスは東電らしくない

東電というと緑のネットフェンスで鉄塔周囲を囲う施工が多い印象ですが、ここは国鉄のシルバーの格子フェンスを思わせる丸パイプ素材のフェンスで色も白色と、他とは毛色の違いを感じられます。
鉄塔用地の隅を見ると、これまたあまり見ない反射材と共に国鉄境界杭が確認できました。
これは紛れもなく鉄塔敷地が国鉄のものであったことを示すものです。

▲境界杭

この周囲のフェンスも、恐らくですが国鉄時代からの継承ではないでしょうか。
基礎周辺の施工を見ても、なんとなくそうではないかなぁ?と感じるところです。
いずれにせよ、境界杭は紛れもない国鉄のもので、国鉄送電線の東電化の変遷を辿ることができる面白い鉄塔です。

鉄塔脇には野木町の体育センターがあり、名物の太陽が大きく描かれ、宇都宮線車窓からも目立ちます。
鉄塔のフェンスにもひまわりが描かれていますが、これも社風的に(失礼!)東電ではなく国鉄(JR)が描いたのかなぁ?などとも想像してしまいます。

▲体育センター壁面にもひまわりが

駅に戻りつつ、JR東日本間々田変電所にも立ち寄ってみます。
昔は今より家々も無かったでしょうが、現在ではベッドタウンとなった野木駅周辺の宅地化に伴い、ぎっしりと周囲を人家に囲まれています。

▲JR東日本間々田変電所外観

間々田変電所もJR間々田線のプレートからすると、1996年頃に東電受電化されたようです。
小山以北の切替より四半世紀も前に切り替わっていたんですね。

▲変電所入口

変電所東側に受電用の鉄構があります。
東電化に際して建て替えもしたのでしょうか、外観は古くないものでした。
鉄構のすぐ脇の構外が有休地的になってるのが気になります。
昔はこっち側(写真手前側)に栗橋-間々田線が出ていたはずなので、それもあって当時から建築制限などで建屋ができてこなかったのでしょうか。

▲変電所受電端。隣は空地だ

ところで、その栗橋-間々田線があったという目線で野木駅まで戻ってみると、不自然に配電線が地中化されてしまっている箇所がいくつか目立ち、見たことはないものの往年の送電線があった時代の情景が浮かんできます。
例えばこの下写真にある丸山公園の脇などは、2回線ある配電線がここで地中化されています。
写真の手前側でこの先50mで踏み切りです。
踏切で地中化するのはわかりますが、それにしては早すぎないかな?と思うんです。
この公園の際辺りを送電線が左から右に南北に走っていたのかな?と考えるのです。

▲駅近くの丸山公園

昔の送電線直下は線下高が低いため、建築物が建てられず公園になっているような場所が結構あります。
ここもそれだったのかなと思います。
野木駅の南側でも、同じように配電線が低くなっている箇所や鉄塔や送電線ルートの跡など痕跡が目立つ箇所もあり、そことルートとしては繋がって見えます。

▲公園中央左奥から右にかけて送電線があったのだろうか

鉄道や道路は、廃線廃道跡が明確に残りますが、架空送電線では空中の設置物なので撤去してしまうとどこに何があったかわからないことも多いですが、こうしてあちこちにその痕跡となるポイントが残っているのは、とても追跡者としてはとても楽しいですね。