新年にしゃれこうべをかかげて、「正月は冥途の道への一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と歌って練り歩いたという伝説をもつ一休さん。テレビアニメや絵本などで、一休さんの痛快なとんちぶりを知る人は多いと思います。
そんな一休さんの生涯を描いた坂口 尚氏による漫画『あっかんべェ一休』は、折に触れて読み返したくなる味わい深い作品です。
悟りを得たいと修行にはげみ、苦しみつつ座禅を組み続けた一休さんは、ある夜明け、カァと鳴くカラスの一声でついに迷いから解放されます。それは作品の中でこんなふうに表現されています。
そんな一休さんの生涯を描いた坂口 尚氏による漫画『あっかんべェ一休』は、折に触れて読み返したくなる味わい深い作品です。
悟りを得たいと修行にはげみ、苦しみつつ座禅を組み続けた一休さんは、ある夜明け、カァと鳴くカラスの一声でついに迷いから解放されます。それは作品の中でこんなふうに表現されています。
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応仁二十七年(一四百二十)初夏――
陽が沈み、星もなく、すべての道は闇夜に消えて行った
小舟がゆれていた
やがて天も地も湖面も消えた
静寂がおおった
どのくらい時が流れたのだろう
「ふうぅ、疲れた」
ただ ゆれていた―――
**********
一休宗純・・・明徳5年1月1日(1394年2月1日) - 文明13年11月21日
生涯
出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されている。
6歳で京都の安国寺の像外集鑑に入門・受戒し、周建と名付けられる。
早くから詩才に優れ、応永13年(1406年)13歳の時に作った漢詩『長門春草』、応永15年(1408年)15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となった。
応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為の弟子となり戒名を宗純と改める。
ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、この頃に一休も自殺未遂を起こしている
応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子となる。
「洞山三頓の棒」という公案に対し、
「有漏路うろぢより無漏路むろぢへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」
と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。
なお「有漏路(うろじ)」とは迷い(煩悩)の世界、
「無漏路(むろじ)」とは悟り(仏)の世界を指す。
応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。
華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。
華叟はばか者と笑いながら送り出したという。
以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った。
文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)においてマラリアにより死去。
享年88。
臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わる。
墓は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれるが、宮内庁が御廟所として管理している陵墓であるため、
一般の立ち入りや参拝はできない。
応仁二十七年(一四百二十)初夏――
陽が沈み、星もなく、すべての道は闇夜に消えて行った
小舟がゆれていた
やがて天も地も湖面も消えた
静寂がおおった
どのくらい時が流れたのだろう
「ふうぅ、疲れた」
ただ ゆれていた―――
鳴かぬ鴉は何とでも鳴く――
・・・・一休さんは、老師に語ります。
私は母の悲しみを知り、悲しみ・・・父を憎み、自分の生い立ちを知り、父をうらみ、
仏門に入ってからはその苦痛をはらいのけたい一心で、悟りを得たい、悟りを得たいと
次から次へと私は鳴いていたのです。それが“私”でした。
その“私”の鳴き声が闇夜に満ちていた時、突然、鴉の一声が・・・
それが“私”の鳴き声を、木っ端みじんに吹き飛ばしたのです。
鴉の鳴き声とともに“私”の鳴き声も虚空に吸い込まれていくようでした。
その瞬間“私”が消えたのです。あの無言(しじま)の中に・・・・
・・・・一休さんは、老師に語ります。
私は母の悲しみを知り、悲しみ・・・父を憎み、自分の生い立ちを知り、父をうらみ、
仏門に入ってからはその苦痛をはらいのけたい一心で、悟りを得たい、悟りを得たいと
次から次へと私は鳴いていたのです。それが“私”でした。
その“私”の鳴き声が闇夜に満ちていた時、突然、鴉の一声が・・・
それが“私”の鳴き声を、木っ端みじんに吹き飛ばしたのです。
鴉の鳴き声とともに“私”の鳴き声も虚空に吸い込まれていくようでした。
その瞬間“私”が消えたのです。あの無言(しじま)の中に・・・・
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一休宗純・・・明徳5年1月1日(1394年2月1日) - 文明13年11月21日
生涯
出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されている。
6歳で京都の安国寺の像外集鑑に入門・受戒し、周建と名付けられる。
早くから詩才に優れ、応永13年(1406年)13歳の時に作った漢詩『長門春草』、応永15年(1408年)15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となった。
応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為の弟子となり戒名を宗純と改める。
ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、この頃に一休も自殺未遂を起こしている
応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子となる。
「洞山三頓の棒」という公案に対し、
「有漏路うろぢより無漏路むろぢへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」
と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。
なお「有漏路(うろじ)」とは迷い(煩悩)の世界、
「無漏路(むろじ)」とは悟り(仏)の世界を指す。
応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。
華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。
華叟はばか者と笑いながら送り出したという。
以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った。
文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)においてマラリアにより死去。
享年88。
臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わる。
墓は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれるが、宮内庁が御廟所として管理している陵墓であるため、
一般の立ち入りや参拝はできない。