2009-12-05 18:21:07

神道ってなに? 

テーマ:拝見 よそ様のブログ

 gegengaさんの06年2月のエントリーにコメントがつきました。そこでわたしもコメントをつけて、東南アジアの精霊観念と日本の「カミ」観念を並べてみました。


 神道は、日本の国教か


 天皇云々はともかく、わたしなんかは、こういう記述を、そうなのかなあ、どうなのかなあ、と思うんですよ。


 (引用)

、「神道」ってのはあなたが意識していないだけで、ほとんどの日本人の心に存在するもんだと思いますよ。あなたも、初詣に行って一年の健康を神様にお祈りしたり、受験前に学問の神様に合格を祈願してお守りを身につけたりしたことがあるでしょう?神社でもらった御札をためらいなく足で踏みつけたりできませんよね?宗教としての「神道」というと少し身構えてしまいますが、そういう神様への祈りや畏れという感覚さえあれば、神道の信仰があるということになるんです。神道というのは異国の宗教と違って、作法を守らなくとも神に祈り畏れる「心」さえあればそれでいいのです。おそらくあなたにもそういう心があるでしょう。
正月ともなれば、誰から言われることなしに全国の神社は人でごった返します。彼らはほとんど「自分は神道の信者だ」とは思っていないでしょうが、無意識のうちに神道を実践しているのです。心外かもしれませんが、神に健康を祈る心さえあれば、立派な神道の信者です。ほとんどの日本人には無意識のうちに神道が根付いています。

 (まで)


 どうなんだろうなあ。ありがちな日本人論なんだけど、こういう光景をどう見るのかとも思う。


 お寺なんかに体に触れさせると悪いところが治るよっていわれている煙もくもくなやつ、あるでしょ。常香炉というんですが、浅草寺なんかで外国人観光客が、日本人と同じように、煙を頭や肩やらにつけていたりします。あの人たち、仏教徒ということはないんじゃないかな。

 中国や韓国からきた観光団の人なんかが、日本のお寺や神社で、拝んだりすることもあるんじゃない?

 おみくじ引いたりしている。まあレジャーなんでしょうけど。

 厳格な一神教の熱心な信者じゃない外国人、さりとてそんなに無神論の信念も持っていない人って多いんじゃないかしら。ヨーロッパやアメリカにもアジアにも。

 そうした人が日本にきて、神社やお寺にいって、そんなに強く信じていなくても、まあ皆がしてるし、お祈りしたって、よそ者だとかえって罰が当たる、なんてこともないよね、ぐらいの感じで、お参りすると、神道の心があるってことかな。なんか世界中に神道の心を持った人は多そうな気がするよ。


 わたし、海外旅行に行ったことないんですけど、東南アジアなんかの寺院などがあったら、拝礼して健康や開運を祈る日本人っていそうだよね。それも神道の素地があるから他の宗教施設でも抵抗なく祈れるのかもしれない。でも、他の国の人でも、東南アジアの寺院や日本の神社・仏閣でで、若い女の子なら、「恋人、見つかりますように、なむなむ」とか、年配の人なら「関節の痛いのが治りますように」なんて願掛けしてないものでもないんじゃないかな。そういう人、みんな神道の心があるのかな。


 gegengaさんが、


 >仏教徒とかキリスト教徒とかイスラム教徒とかヒンズー教徒とか、その他もろもろの原始宗教を信じる人たちとかは、神に健康を祈らないわけですね?


 とコメントを返したら、その「通りすがり」HNの人、「こちらこそ、つたないコメントにお返事をくださり、ありがとうございます。」と礼儀正しく挨拶するんだけど、それには答えないで、

 >おそらく、神道を他の信仰と一緒くたにして「宗教」というカテゴリーに押し込んでしまっていることが、混乱を招いているのかもしれません。


 と自分の議論を進めていく。

 ヨーロッパ由来の概念で、いろいろなものを割り切っても分析しきれないということは確かにあるんでしょう。

 でも、この手の議論は、えてして日本特殊論にいくよ。この場合は、「神道」というのがユニークだ、ということなんだけど。

 そこであんまり考えないみたい。じゃあヒンドゥー教は、ヨーロッパの一神教を中心にした観念のなかでどうなのか、とか、日本の新興宗教は、「religion」にあたるのか。神道系の新興宗教も多いんだけど、その辺どうか、とか。

 


 >神道というのは異国の宗教と違って、作法を守らなくとも神に祈り畏れる「心」さえあればそれでいいのです。おそらくあなたにもそういう心があるでしょう。

 というと、非常に融通無碍で融和的で、一般的なもののように思えます。でも、そこに想定されているのは、古来から一貫した「日本」であり「日本人」であり、「神道」のようです。

 こういう発言者の意見では、古来、一貫して「神道」が一体的に一つの体系で、そしてそれは天皇を権威としていた、という命題というかテーゼというか前提は揺るがないのではないかなあ。


 かなり限定された、神道とはこれだ、という「定義」を前提としているんじゃない? わたしなどは、神道に疎いけど、「出雲系の神様は、伊勢神宮系の天皇さんとは、一応、別なのかなあ。神様の系統って色々あるみたいだね」と、神道も時代や神社でけっこう多様でないの? と思うのですが、日本は「天皇を中心とした神の国」と思っている人は、「神道はこういうもの」ってくっきりすっきり限定したがるように思う。


 そういう人は、アメリカ人やインド人が神社にお参りしたら、喜ぶのでしょうか。神道は宗教の範疇ではないぐらいに、「神に健康を祈る心さえあれば、立派な神道の信者」というぐらい普遍的なものですから、神道は世界の心、人類全ての心ってキャッチフレーズを作るぐらい日本という国の限定を外して考えることってないのかなあ。


 最初に、日本特殊を前提として、それで神道の普遍的な心性を強調すると、外国人は日本人とは全く別で、しかも外国人のほうが普遍から外れている、ということにならないかしら。


 gegengaさんの、「……は、神に健康を祈らないわけですね?」というのを、ただの議論のための揚げ足取りと思うと、問題点を見落とすと思う。単純にあっさりいうと、「日本特殊を言い募ることでの、他者性への感性の喪失」ってことかな。ちょいと大問題だと思いません?


 

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78 ■イエズス会

namae さま
高校時代、倫理・社会の授業で「パンセ」を一部だけど読まされました。岩波新書で「パスカル」とか「デカルト」とか読んだのも高校生の時分。
一向宗(浄土真宗)とか鎌倉仏教の「ひたすらな」姿勢がヨーロッパで言えば新教に近いと、イエズス会が思ったってことはありそうです。どっちかと言えば、カルヴァン主義(Calvinism)に近いと思って、「信長さま、一向宗のようなああいう純粋真っ直ぐ君は、王の権威を認めないので、とても危険でーす」なんて吹き込んだという想像はできそうま・・・。
その場合、新教の国のオランダやイングランドの勢力を排除したいという政治的思惑があったのでしょうね。
あるいはイエズス会なら、一向宗はジャンセニズムと同様の傾向があると思ったのかも。
>昔、よく「誉の家」って書いた表札を見ました。あれが「赤十字社員証」の表札を掲げる家の数にとってかわられたのはいつのことか・・・。
東京では見かけることは少ないのですが、海水浴に行っていた房州・館山では門に靖国の家だかなんかの印がありました。子どもの頃なのでピンとこなかったけど。
神社などでは、特化された効能を売り物にするというのはありますね。ああいう分業って、純化された一神教だと、「トンデモ」感が強いのかな。カトリックはその辺、鷹揚だろうけど。

77 ■トンデモ説かもしれないが

安部龍太郎という歴史小説家がエッセイにて「信長の一向一揆への苛烈な弾圧はイエズス会からの指示」と書いていました。イエズス会は一向宗とカトリックが似ていると思い、危険視した、と。確かにキリスト教と似てると思うことはあるし、1970年代以降の政治姿勢は日本のカトリック教会と歩調を同じくしているのだけれど、この御説がどうなのか、は不勉強にてさっぱりわかりません。
歴史小説家、脚本家のおかげでものすごい偏見を持ってしまうキャラクターや対象って、結構ありますね。
>信心
そういえば信仰心篤かった祖母の兄弟だったか、おじか何かは何だったかの講の(富士講?)の講員で・・・みたいな話を聞いたような・・・
あと、昔、よく「誉の家」って書いた表札を見ました。あれが「赤十字社員証」の表札を掲げる家の数にとってかわられたのはいつのことか・・・。これも今時の家にはまずない表札でしょうね。
>個人を聖人
今でもバチカンは新しいものごとに聖人を作るそうで、アッシジのフランチェスコは「環境保護の聖人」(小鳥に説教したから)、その弟子のキアラは「テレビの聖人」(晩年、身体が悪くミサに行けなかったが、その光景を寝ながらでも見ることが出来たから)だとか。
よく○×の神はなんとかのミコトで・・・なんて言いますが・・・。

76 ■御談義

namae さま

 鎌倉新仏教はプロテスタントとの類似がよく言われたりしますね。
 神祇不拝というのは浄土真宗で真面目に実践している人はいそうな。
 むかしの人の方が、お談議や説教を聞きつけていたろうから、そういう点からも信心は篤いと思います。

うちの周辺にはいないですねえ。母系の縁戚のおじいさんが、よく御談義に行っていたという話はあるけど。明治時代の話。
 
 母親の父親、つまり祖父は、「神仏は敬うもので、頼るものではない」と言ってたと、母親に聞いたことはありまして、確かに甲斐性はある人でしたが、ちょっと紋切型の発言のように思います。どこかで聞いたのを無邪気に繰り返したのかもしれない。

75 ■習合

namae さま
 古い記事を前に出していただいてありがとうございます。
 シンクレティズムって、いろんな地域、様々な宗教ににありますよね。
 教義を意図的に習合させる場合だけでなく、いろいろなパターンで集合、混淆はあるのでしょうね。

 神道ではあんまり個人を聖人としてあがめるのってなさそうですが、いろんなもに神が宿ったりしますね。
 東南アジアとか世界中に精霊信仰って多いでしょう。
日本のカミ観念だけ考えていてもわからないかもしれない。 http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45108481.html

74 ■サンタルチアは目の守護聖人

(三島旧エントリーから辿ってきました)
イタリアには町ごとに守護聖人がいて、サンタルチアはシチリアのシラクサと目の守護聖人。パック旅行のパンフレットにちゃんと書いてあったのです。
目が美しかったから、求婚してきた男に目をえぐって与えたらしいです。怖いね。。。。もらっても困るよ。でも似たような神話どっかにもあったぞ。。
だから目の守護聖人なのだそうです。でも目をえぐったのは男に言いよられたからではなくて、殉教した時らしい(でも神の恩寵にて目が見えたという)。観光パンフ、いい加減・・・(それとも諸説あるのか?こういう人ホントにいたのかというのも諸説紛々になりそうですが)

でもこういう素朴な信仰は、神道と共通するように思うけど・・。

プロテスタントや日本仏教の新仏教(鎌倉仏教)のほうが厳しい印象がありますね。祖母がもともと滋賀の熱心な浄土真宗門徒の家の出なんだけど、仏さまには何も願ってはいけない。そういうのは邪道だ。感謝のみを捧げるのだ、と言っていました。まあそんな熱心な仏教信者は後にも先にも私の親族ではあの人しかいなかったのだが・・・。でもさすがにそれだけでは厳しいので観音さんやお地蔵さんにもお参りするのが好きな婆さんでした。その時は何かお願いしていたのでしょう。でも神社にはそれほど行ってなかった。ただし、よく行く町の観音さんは昔は神仏習合の場所でした。その近くに明治以降に作ったと思われる神社には積極的に行かない、というのは、今考えると面白いですね。別に何らかの思想性や信仰が絡んでいたわけではないのだが、石と砂利ばかりでやや寒々しい神社ではなく、土俗的な場所こそ好ましいと思っていたのか。

73 ■宗教関連エントリー

聖書のことなど、いろいろ疎い方面を教えてもらえてうれしい。
コメント欄が伸びたのは構わないけど、別にエントリーをいくつか立てます。

毎日更新かどうかはともかく、宗教に関わるエントリーを連続してあげましょう。
前からネタにしたかったこともあるし。

72 ■宗教学

りくにす さま

>信仰を教えるはずのミッションスクールの授業がこんなんでどうすると言うツッコミが入りそうですが

 仏教系の大学の、宗教学とか、仏教概論とか(講座名なんて知らないけど)も、近代の学問を踏まえた講義をしているだろうから、その辺は当然なんじゃないですかね。
 日蓮宗系の大学で、昔ながらの五時八教をそのまま教えて、法華経は仏陀の最晩年に説かれたもの、なんて教えていることはないと思います。たぶん。

>主なる神が本当に全知全能なら、カナン中の偶像をいっぺんに破壊することがなぜお出来にならないのだろう、と疑問をいだいてはいけないのでしょうね。きっと。

 全能の神なら、最初から世界を完全に作ればいいではないの? というのは、どんな子供でも抱くシンプルな問いでしょうからね。
 「君たちはどう生きるか」という本にも、そういった疑問が出てくる。わたし、弁神論って言葉はそこで覚えたんじゃなかったかな。


>人は神に対して取るに足らない存在ですから、神のなさることを正しいとか言い立てることはできないはずです。

 敬虔感情の徹底による非宗教化というか、脱宗派化、というのはあるかもしれません。

 日本でいえば、妙好人が、宗門の権威なんかまったく問題にしない態度だとか。

71 ■万教帰一

ペリフェラル さま

>否定神学

 肯定命題ですと同義反復になるか、条件づけられるかしてしまうわけでしょうからね。
 ただ、そう語られる「神」は、民衆の中にイメージを結ぶかどうか。
 
 神観念ということでいえば、一神教は、「神は神だけど、彼らの宗教は神の説き方が間違っている」という形で、異を立てるということになりそうですね。

 でも、そうすると、神の観念そのものはエポケしといて、神の見極めのつけ方が問題なのだ、ということなのかしら。
 八百万の神でもokなわたしらからみると、「そんなら、あんなに争わないでもいいだろうに」とついつい思いがちです。

 近代の日本人は、どんな宗教も根っこは同じでしょう、というような言説も好き。生長の家なんかもそうなんじゃないかな。このブログでいろいろ報告した天風会も、宗教的なことはあまり言わないけど、神といい仏といっても、人間が名づけただけで、元は同じと言うようなことを言っていたと思う。

 一神教の神が同じというのと、世界中の宗教で、皆同じというのはずいぶん違うけど、その辺は、日本の人の多くは、いい加減な感じです。

70 ■創世記の神は土着の神?

実は私、「神以外の何者も怖れるな」という、ミッションスクールに在籍しておりました。なので、こちらに書いた宗教の話はだいたい学校で仕入れました。
短大の一年の最初の聖書の授業が創世記で(これは年度や先生によって変わる)、神に対する考えがどう文書化されたのか教わりました。
要するに創世神話は中東各地に伝わる物語をイスラエル好みに編集したものということです。
例えばノアの話に出てくる大洪水はギルガメシュ神話からのネタだそうです。(私などが書くより、信頼できる神学のサイトにリンクした方がいいかな)
…信仰を教えるはずのミッションスクールの授業がこんなんでどうすると言うツッコミが入りそうですが、唯一絶対の神はヘブルびと(イスラエルびと=古代ユダヤ人)が砂漠を放浪している間に確立したもののようです。
その後、カナン(今のイスラエル)に定着しようとしたときに周りの民族と争いになり、主なる神が土着の神の神像を破壊する、などのエピソードが語られるのですが、主なる神が本当に全知全能なら、カナン中の偶像をいっぺんに破壊することがなぜお出来にならないのだろう、と疑問をいだいてはいけないのでしょうね。きっと。
カナン定着時代はユダヤ人になるのはわりと簡単だったと思いますが(違うのは信仰だけだった)、今日では確か母親がユダヤ人でないとユダヤ人と認められないらしいです。
ところで唯一絶対の神を信仰していると、神に関するあらゆる話題について「これは正しい」「この話は間違っている」と述べることができなくなりますね。人は神に対して取るに足らない存在ですから、神のなさることを正しいとか言い立てることはできないはずです。これを真に受けるなら人間は「信仰告白」なんかできないし、しても無意味ではありませんか。「うちの宗教は絶対正しいからあなたも信仰しなさい」とはいえないんじゃないかなぁ…
なんだか変な話になってしまいました。

69 ■続きです

「3大宗教は兄弟みたいなものだからもっとうまくやれるはずだ」と言う人もいましたね。でも、平凡な俗論ですが「兄弟は他人の始まり」なんだろうな。3大宗教の歴史由来のグジャグジャなもつれを解きほぐして「和解・共存」させられる人なんて、今現在も当分先も、この世界に出てこなさそうですね。同じ神を信じて、どうしてこうなっちゃったんだか(嘆息)。

68 ■「聖書の言葉はストレートに解釈するものではない」が現代では序々に浸透してきていると思いたいのですが…

kuroneko様

以下、宗教に詳しくないので、プロパーさんにクレームつけられる恐れありです。

> むかしの神学者は、「万能の神」という観念には、当然、存在するという属性が含まれるでしょうが、みたいなことを言うわけですが、なんか変に感じる。そういうのが成立するのなら、「他の神」といういい方に、他にも神がいるという観念だって含まれているんじゃないの? って、思うんです。

あ~なるほど。その辺の矛盾は、否定神学によって払拭されたということになるのかなと思います(矛盾を抱えたままの信者は、kuronekoさんに「揚げ足取り」されてしまうわけですが)。上っ面な理解ですが、「神は○○である」という存在論的な観念では語らない。「神は○○でない」と否定表現でのみ神を語ろうとします。
否定神学って、思考の道具としても「知識人」に人気があるような印象があります。大澤真幸氏、東浩紀氏、デリダなんかもそうだったかな?
私なら否定神学ではないですが「神は人間が思い描く《存在》なる観念を、はるかに超越した存在」とでもしておきますが、言ったと同時に「アチャー」と頭を抱えてしまいます(笑)。

> 互いに一神教同士で、そこで争うともっとガチンコ勝負になるだろう、って日本人としては思いがちなんですが、その辺はどうなのかな。

(異端派は分らないけど)、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は、いずれも信仰する神は同じです。たしかに名辞は異なりますが、それは時間(歴史)、空間(地理)、言語(民族)などにおける人間の有限性が分岐させたもの。ヤハウェ、エホバ、GOD、神、アラー、どのように呼ぼうが、唯一不可分の「究極の造物主」を指すことに変わりはありません(呼び名に関しては細かい話もあるのですが)。だから、本来は互いに一神教同士で、そこで争うことはないはずです。
ではどこが違うのかというと、きわめて大雑把ですが、どの預言者のお告げを信じるかということです。イスラムは複数の預言者を認めますが序列があります。
部外者からすれば、その預言者が本当に神の使いなのかどうかを見極める方法なんてあるの?と思ってしまいますが、昔は「神の奇跡」が代表的な説得論法でしたでしょう。現代ではあまり流行らないでしょうね。まあ、信仰というのは最終的には「ここで飛べ」ですからね。

67 ■神の観念

ペリフェラル さま

 一神教からいえば、当然、他の神というのは偽物というのが含意されているでしょうね。
 「神」という名辞が共通でも、その指し示すところのものは、本物と偽物があるのだ、ということは言えそうです。
 わたしの、「他にも神様がいるのを前提としているんじゃない?」という揚げ足取りは、神の存在論的証明、をちょっとひねってみたんですけどね。

 むかしの神学者は、「万能の神」という観念には、当然、存在するという属性が含まれるでしょうが、みたいなことを言うわけですが、なんか変に感じる。そういうのが成立するのなら、「他の神」といういい方に、他にも神がいるという観念だって含まれているんじゃないの? って、思うんです。

 互いに一神教同士で、そこで争うともっとガチンコ勝負になるだろう、って日本人としては思いがちなんですが、その辺はどうなのかな。
 
 

66 ■周辺との差異化

りくにすさま

 周辺の「国」「民族」が多神教だったのに対して差異を立てるために、くっきりした一神教を作り上げていったというのはありそうですね。
 多神教の枠組みのままだと、他の神々の体系、パルテノンの中に組み込まれる恐れがあるけど、神は唯一無二とすれば、よその民族の神々は、「あれは神ではない」と排除または、下にみなすことができそうです。
 ところで、ユダヤの神を信じるとユダヤ人になれるんですかね。その辺はどうなんだろう。
 どうしても現世的な「民族」(共同体)と、「信仰」というフェイズをどう折り合わせているのかなあ。

65 ■「人間が神になる神道なんて嘘っぱちだ」と言ってた人がいた。

kuroneko様
横レス失礼します。

>むかしから、「他の神を信じてはならない」と聞くと、そういう言明は、他にも神様がいるというのを前提としている ってことではないの? と思うような性格なもので、唯一神といわれてもピンとこないんです。

たしかに、共通語としての「神」だとその理屈になりますね。
私はこう解釈しています。裏解釈っぽいですけどね(よくよく考えてみると、どこかで聞いた話だったような気も)。一神教vs多神教の関係での話です。

一神教側からすれば、他民族の信奉する「神」は、しょせん「ニセの神」であり、神を騙る存在でしかないわけです。つまり、他民族が「神と崇めているところの存在」は、にせものであるからして汝らはそれを信じてはならない。
この理屈を縮めて言ってるんでしょうね(と解釈)。さらには、あからさま過ぎるので角が立たないようにする知恵もあるのかもしれません。

64 ■私はねたむ神である

>むかしから、「他の神を信じてはならない」と聞くと、そういう言明は、他にも神様がいるというのを前提としている ってことではないの? と思うような性格なもので、唯一神といわれてもピンとこないんです。

なまじっか聖書になじんでいると、それが常識になって疑わなくなってしまうものなんですね。
聖書の民・イスラエルびとは一神教ですが、周りの諸民族は多神教です。どっかの学者の言うことを乱暴に要約すると、イスラエルびとはあちこちから逃れてきた難民や逃亡奴隷の集まりで、安定した農業社会を営んでいる諸王国が多神教を信奉しているのに対抗して、一神教を出してきたらしい。イスラエルの指導者は華麗な神殿と神像に対して、「生ける神(偶像禁止)」、身分制度に対して、平等社会を提唱して集団をまとめていこうとします。
この過程を象徴的に描いたのがモーゼの「出エジプト」で、ここで主なる神は「私はイスラエルの子孫をエジプトから救い出した神である」「私はねたむ神である」「私のほかに何者をも神としてはならない」などと宣言されます。英雄サムソンたちが登場する「師士記」あたりまでは異教の神に打ち勝つ主なる神の活躍が描かれるのですが、それ以降は神の力は預言者や英雄たちをつうじて表れるようになっていきます。(ぶっちゃけ、しょぼくなる)
つまり、イスラエルの周辺にはバアルなどのほかの神様がいるけどイスラエルびとは礼拝しちゃダメ、ということですね。
なお、周辺の国から自分の神様を捨ててイスラエルの神に入信するのは大歓迎だったようです。

ところで「神道」は民族宗教ですよね??

63 ■よその神様

りくにすさま

 ユダヤ教ってわからないですねえ。「民族宗教」というのが、そもそもわからない。

 むかしから、「他の神を信じてはならない」と聞くと、そういう言明は、他にも神様がいるというのを前提としている ってことではないの? と思うような性格なもので、唯一神といわれてもピンとこないんです。

62 ■シナゴーグは行ったことがないが、旧約聖書は読んだ。

旧約聖書はただ読む分には面白いですが、入信の動機になるかは疑問です。
中学時代、なぜか家に聖書があったので、暇なときよく読んでいました。大人になってからコーランの日本語版を読もうとしたけどこちらは挫折しています。
とても読みがいのある書物で、神話、指導者による奇跡の物語、戒律、預言書(予言ではない)・・・まではいいのですが、戦争物、スパイ小説、流行歌集から王朝実録(『歴代誌上』。ダビデ王時代の記録だが現代人には役立たない)までがこの「聖典」に含まれています。計略と裏切りの話も多いのでユダヤ人迫害の根拠の一つになりました。
旧約には異教徒が改心してイスラエル人の仲間になる話は多いけど、一神教の教えをよそに拡げる気はなさそうです。(というか、周囲の民族も自分の神様を最高と思っている)

ところで、イスラーム帝国が急成長してきた7世紀、黒海とカスピ海の間に「ハザール」という国があり、独立を保つためにユダヤ教を国教にしてしまったそうです。なお、この国はモンゴルの侵攻を受けて滅亡しました。

61 ■hazumaさん

このコメント欄で3年前、わいわい言ったことの近況。ハズマさんて誰? って私が思った東浩紀さん関連で、新憲法草案が出たそうな。

http://genron.blogos.com/d/%BF%B7%C6%FC%CB%DC%B9%F1%B7%FB%CB%A1%A5%B2%A5%F3%A5%ED%A5%F3%C1%F0%B0%C6%C1%B4%CA%B8#

エントリーあげて、みんなでいじろうかな。

60 ■どこにもある日本の心

りくにすさま

 世界宗教になる「神道」ってどんなものでしょうね。まあ、内容がないのはそれだけ可変的で普遍に近いのかしら。

 ハワイの人も、アイスランドの人も、カナリー諸島の人も、スリランカの人も、「清く、直く 明るい心」と言われれば、「ああ、うちのとこの心じゃ」と素直に納得するかも。

そういえばユダヤ教は世界宗教になれるのかな。 

59 ■手つかずの「自然」な心

同じ言葉でも明治時代と今ではニュアンスがだいぶ変わってるものがありますよね。あと130年もすれば植物のあるところが「自然」だったりして。
ところで「人間本来の心」ってどんな心なのでしょう。どんな性善説の信奉者でも、人間には最低限の教育が必要だというはずです。だから人間は首から下は動物と同じ「自然」といえるかも知れないけど、頭の中は人間社会によって作られた「人工物」といえると思います。「人間本来の心」というのは、マジョリティの日本人が持っている平均的な心のことなのでは?だからアイヌ民族とか在日外国人とか帰国子女とかを取りこぼして平気。それを「自然」と思っているから、『醜い日本の私』で槍玉に挙げられている電線やスピーカーで流される音声を見たり聞いたりするけど気にしない神経も「自然な」ものと信じてる。「自然なもの」だから違う感性の人に説明するのにすごく苦労する。
最近知ったのですが、敗戦後、折口信夫は神道は世界宗教にならなければならない、と主張したそうです。私のイメージでは神道は先祖のエピソードだけで理屈がなくて信ぜよという感じなのです。世界に通用するような神道であれば仏教なみに理屈があって好きになれそうですが、それはもはや「やまとだましい」ではないのでしょう。

58 ■手つかずの「自然」 

りくにす さま
 「自然」て言葉が、明治の翻訳語として、それまでの勘字熟語と意味が違っている、という指摘はありました。柳父章「翻訳語成立事情」だったかな。
 「ネイチャー」と「自然」は、完全には意味が重ならないとか。

 手つかずの「自然」ってそうないですから、語彙のほうが現実に追いついていないともいえるでしょうね。
 千年田や木曽美林などの作り上げられた「自然」と、原生林などを言い分ける語彙が必要かもしれませんけど。

 神道も、十分に構成されたものだと思うんですが、人間本来の心だ、と言いたがる人がいる。それなら各地のアニミズムなども、そういうものとして視野に入れるかというと、日本というタグはずっとついている。その辺がおかしいね、というエントリーですが、「自然」(おのずと然る)ってそもそもなんじゃい?と思わないで、「自然」という言葉を使ってしまうのと、「日本」オリジンなものを検討なく考えてしまうのは、共通しているかもしれません。

57 ■「欲望自然主義」

中島義道さんの『醜い日本の私』を読んでます。
その2章にある「欲望自然主義」がビビッと来たのでノートを作ろうとしてるのですがうまくいってない。
日本人は「自然」と「自然に・自然な」を区別しない。
例えば田んぼとため池と杉山と雑木林とガレージと白い軽トラ…といった風景を都会から来た者は「自然がいっぱいだ」と思うわけです。しかし田んぼも雑木林も実は長い時間をかけて作り上げた人工物です。これらは「自然にこうなっていった」というわけです。
その延長上に「頭上に電線が広がっている都市風景」があり、おそらく、原発が林立する海岸も「自然な」ものとして受け入れられる素地があるのだと思います。
だから地熱発電所なども「自然なエネルギーをつくる」ために「自然に」建設され、「自然な」風景にマッチしているものとして受け入れられるのでしょう。
以前紹介した広瀬隆さんの地熱発電・洋上風力発電反対論はその辺から出ているのだと思います。海岸が風車や潮汐発電所に固められ、山間部に地熱プラントが林立し、それらから都市部に向かって高圧電線が走っていく。そうなるに決まっています。
ところでエントリータイトルの「神道」って苦手です。国学より儒教やキリスト教の方にシンパシーを感じる方です。初詣には行くんですけど。
まずいですかね。

56 ■技術を使うなら

自然エネルギー派 さま


 すごい大電力を使う産業もありますが、民生エネルギーのほとんどは、エネルギー密度の低い自然エネルギーの利用と、エネルギー多消費生活の見直しをメインにできないか、とは思いますね。
 日本人の「自然に随順した生活」などと文化論では言いながら、省エネルギーというと、「石器時代には戻れない」なんて極端なことまで言う人って、なんなのか。

 炭焼きや発酵エタノールぐらいまで含めた、太陽―植物利用エネルギー体系をもっと多くできればと思います。

55 ■神道とは石油を使わないこと

 そうであるにもかかわらず、日本の全体的仕組みは、輸入依存度の高いエネルギーばかり。だからといって原子力には戻れない今、世界最高水準の科学者を集めたり、教育したりして、日本の社会体制の目標の一つをそこに定めるべきで、そうすると無用の長物の石油で紛争を起こしているアラブももっとナチュラルになると思うよ。太陽光もあるし・・・・

54 ■血統と文化

日本人さま

 いらっしゃいませ。
 
 わたしは何かというといろいろな物を拝みたくなる心性があるので、原初的な「カミ」観念が自分には強いのではないかなあ、と思います。
 また、年寄りと一緒に住んでいて育ち、曾祖母とかその親とかの話を聞かされましたので、おそらく父母両方の祖父母の親の代の話を、今の人の中では知っている方だと思います。代々、家業が続いてきたうちなどの人はまた別でしょうが。

父母がいて、そのまた父母がいて自分がいるという自覚は、仏教徒にもありますね。日本人以外にもあるのだろうと思います。
ひょっとすれば、日本の古代まで遡る前に、わたしの先祖の幾人かは東南アジアや朝鮮半島、中国大陸の居住者だったかもしれません。先祖崇拝の観念は、日本に限らずもてると思います。

ただ、日本語に関しては、平安時代の日本語で歌を読むのが趣味ですので、その点では、わたしは徹底的に「日本人」です。

53 ■古来精神を思い起こすこと

 神道は天皇陛下と、地域神を拝むもので決して摂家神道(伊勢)をありがたがるものではありません。いずれにしても、古来誰かの血筋がとてつもなく重なり合って自分が生まれた自覚から思いに至るという気持ちが大事で、古代に思いを馳せる力が大事です。

52 ■「意」のあるところ

人生アウトさま

 目的というか、自分が何をしたいのか、の認識は、情緒を伴うし、また言語化するには「理屈」にわたることもあるでしょうね。
 知、情、意と昔は三つ並べた。草枕では「意地を通せば窮屈だ」というけど、意というのは、もう少し精密に考えた方がいいのでしょう。


harutoさま

ハズマさんて人がいるのかあ、と思って読んでいたのですけど、とちゅうで、h azuma で、これがヒロキさんなのね、と思いました。

あたし、そもそも、ルソーもなにも知らないからなあ。

しかし、参政権の証券化とか面白いよなあ。それなら大学入学権の売買ってのも成り立ちそう。(森嶋通夫さんが言っていたと思う)
学者さん唯一の特権だからそんなこと考えないかな。

51 ■仔犬っぽい感じ

kuronekoさま

なんというか、彼らは学歴を問わず「ペット」っぽい。「アーキテクチャ」ならぬ「オモチャ」を与えられて「仕込まれた芸」をやってみせて「ほめてほめて」とはしゃぐ「仔犬」に似ている。

「動物」って「飼い犬」だけではないと思うんですが。

50 ■みんなあざむく

感性の産物は、商品として流通させるにしろ、芸術として昇華させるにしろ、厳しい道でありますね。日々己の感性を切り売りする職の人のことを考えると、「私これキライ」レベルの思考は、懐石料理と比べての生煮え野菜の如し。まるで用を為さない。
「用を為さない」――すなわち、有用か無用かを第一に考える私は、人間の意思というものに強い注目を浴びせるわけです。まず人に意思があり、その目的を達成するために理性や合理性を働かせる必要がある。感性や情動も、商品化・芸術化という目的に添わせて厳しく鍛錬することができる。(やる気のないアーティスト気取りは去れ)

目的。公正であること、フェアであること。
我々――生来の「強者」である、どうあがいても「食う側」であるところの――が、「食われた側」とフェアにならねばならぬという、成立不可能な目的。
その目的一事に意思を従わせ、目的のために意思と意識を肥大化させれば結果につながりやすく、「道具として」肥大化させた意思に従って感性と合理性と自己と他者を「有用か無用か」のプラグマティズム一本槍で切り刻み・押し潰し・欺き使い捨てる。

その辺が、私にとっての論や理の「使い道」ですね。
イカサマ賭博で巻き上げた金を慈善に使うように。

49 ■子どもっぽい感じ

うむ。
なんか、通りすがりさんは大人で、あそこで話し合っている知識人さんたちって、チャイルディッシュ。

48 ■「みんなでなれあい」の一例

kuronekoさま

「一般意志21世紀バージョン」については、

http://togetter.com/li/399

をお手数ですがお読みくださいまし。twitter の可能性と限界もこれであらかたわかるかと。

47 ■論断誌 (誤変換)

一般意志ってなんじゃ?
神様みたいなもの?

うーむ。論壇誌って読まないからなあ。難しそうだし。
でも、ネタに詰まったらなんか読んで、生産的誤読の可能性にチャレンジしようかなあ。

46 ■ひとつの観察される事実

ロスジェネに属する若手論壇男性陣で、「一般意志ブーム」を担っているひとびとに共通するのは、「比較的甲高い声で早口でまくしたてるように一方的に話す」ですね。

かつて「おたく」というのが「蔑称」でしかなかったころ、コミケ会場でよく聞いた「声」と「話し方」。まあ、「文系大学院生、アカデミシャンの男性」の「声」「話し方」にありがちとも言えますし、テレビの討論番組に出る男性って、そういう「声」と「話し方」多いですね。姜尚中さんなんかそうじゃないとこがと~っても魅力的。

45 ■ロスジェネと一般意志ブーム

「一般意志ブーム」は東くんの小説(あと2日ほどで出る)と論考でしばらくは論壇で続くんでしょうが、理論的にも現状認識としても「後退」でしかないと思われます。どうして「根源的なわかりあえなさ」「齟齬」を抱え込みながら、わかり合おうとする努力を継続することを楽しむことが彼らにはできないのか、知識社会学的にはそちらのほうに興味があります。彼らはどんなメディア(オタク的消費)によって、どんな「まなざし」「声」などなどを与えられて育ってきたのか、そのことを彼らは自己対象化できないのはどうしてか。

まあ、「教養がない」のひとことですませてしまいたい誘惑が日々強くなるわけですが、そういう私に洋の東西を問わずかつての「教養人」ほどの「教養」があるわけでもないところがつらい。「教養への渇望がない」といえばいいのかな。彼らは自らの「教養のなさ」を精神分析的に否認しているから、「教養のなさ」を楽しむことができないというか。だから「アイロニー」という言葉は「ネタ」という言葉に変換され流通しても「ユーモア」はどこにもない。彼らにとって「ネタ」というのは「責任回避」のためのもの、「ネタにマジレスカコワルイ」と言うためのものでしかない。批判をあらかじめ封じ込めて、「自分と同質的な『他者』(つまり他者ではない)による自己承認」だけを目的として、コミュニケーションを図り「なれあう」。そこに出版不況に苦しむ業界がビジネスチャンスを見出さざるを得ず、ひどいことになっている、ってとこでしょうか。

44 ■『トムとジェリー』と弁証法

主に若年層の twitter ユーザー界隈で盛りがっている「一般意志」というのは「みんなでなれあい」どまりなんですね。ルソーの限界はそこにある。あまりにも「性急に一般化、総合」が進みすぎる。

「みんなでなかよく」というのは「伝達不可能性」「齟齬の存在」を前提としている。ヘーゲルの弁証法は「なっかよっくケンカしな」だけれども、これもあまりにも早く「なれあい」になってしまう。「近代国家」が「なれあい」を「なかよし」にみせかける。そして「なれあい」を「なかよし」にみせかけるところでヘーゲルが利用しているのがルソーの「一般意志」。「いろいろあるけどわかりあえたよね、ボクら」という。ルソー研究というのは、このヘーゲルによって「簒奪されたルソー」を取り返す営みで、だから「マルクスとルソー」というのが並べられる。マルクスのヘーゲル批判はこのヘーゲルにもある「性急さ」に向けられる。「気持ちが通じた」感、「わかりあえた」感はどうでもよくて、その「あいだ」が重要だ、という。

43 ■理性と感性

 また昔話をしょうこりもなくするんだけど、わたしの子どもの頃、「感性」って言葉はそんなに使ったかなあ。子どもの見聞の範囲だから知らないだけかもしれません。
 「情念」というのは70年安保とか、その辺ではよむ目にした。
 
 なんかポストモダンのころ合いなのか、「感性」っていうのがエライような感じになってきたみたいです。
 「わたし、これ嫌い」なんて女子がいって、それが自分の趣味が確立された感覚の鋭い子みたいに思われたりしてないかな。好き、嫌いを言うだけなら幼児だって言うんだけど。

 理屈と感情とを対立させて、「論理で語っても気持ちが通じない」みたいなことを言う人もいるけど、理性、感性あるいは論理、感情などは、カテゴリーが違うんだから、どっちがどうって比べるものじゃないと思うんですけど。
 論理的かつ情熱的にしゃべることだってできるわけだし、冷静・沈着に支離滅裂な議論もできそう。

 誤ちを生みそうなのは、誤認と詐称で、「論理的」とか「科学的」と自らを思いこんだり、見せかけたりすること。
 似非科学って、非合理を信奉するんじゃなくて、自らを「科学的」と言い張ったりする。で、内実ははちゃめちゃ。それに対して、「個人が信じるのはいいんだ」という人が出てきたりすると、「でも、はちゃめちゃ」を「はちゃめちゃ」と言っておかないと、他にも影響が出るんじゃない、ってことで、これは広い意味で社会政策でもある。

 あんまり「個人の気持ち」を連呼されると、「人にはそれぞれ気持ちはあるんですけど、ここでは別のことを話したいんですけど」と思ったりします。

 わたしがよくする政治的な議論でも、情緒的な議論は多い。情緒がダメなんじゃなくて、自分が情緒的ということに気がつかないと、だんだん、違ってくるんじゃないかな。ウヨさん系は、「サヨクはお花畑」といって、しては情緒でものを言っていて、自分は理性的だという自己イメージを持っている様子。そのわりに言っている理屈が穴だらけだと、からかいたくなる。
 

42 ■楽観論は意志に属し

ちょちょんまげさま

 いらっしゃいませ。碧猫さんや南郷さんのところからたどるところで、ご発言は目にしております。

 ブログ名の由来は、どこかに書いたけど、「ヘイトコメントを哂え」を立ち上げたついでにできたから、ヘイトの反対は「なかよく」だよね、って安直につけました。検索すると、けっこう更新するせいか上位にくるんですけど、小学校のPTA通信みたいのと並んでいたりします。

スローガンは、楽観論は意志に属し、悲観論は気分に属すっていうの、あったよね、と思ってパロディにしました。話の続きがらは、他者とコミュニケーションを取るって、つまり意志的な行為だよね、ということです。

後から読み返すと、「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」というのも似ているかな、と思ったりします。いたってアバウトに思考しております。

他人と話をする。コミュニケーションするのに、気持ちが通じ合うとか、心が通じるとか言うのって、わかったようなわからないような、なんですね。
話をしている内容、情報とか主張とかに理解を共有することはあり得ると思う。でないと文化伝承にもなんにもならない。
でも、気持ちというのは、そんなに交通可能なものかなあ、と思う。「気持ちが通じる」感を感じることはあるのでしょうけど、そんならそれを対象化して観察してみたら、いろいろ自分のことも相手のことも、両者の関係のこともわかるのではないか。「気持ちが通じ合うのよね、うっふん」と言っていて、そのあとソゴをきたすと、「あんな人とは思わなかった」みたいなことになるかもしれない。
これだと、小人だよねえ、と思います。君子はともかく、普通の関係はあんまりべったり気分につかるものではないんじゃないかなあ。

41 ■目からうろこ

kuronekoさん、はじめまして。
ちょちょんまげと申します。
お記事はいつも興味深く拝読させていただいております。(つまみ食い気味ではありますが)

今回のkuronekoさんの唐突なスローガン、

>「みんななかよく」は意志に属し、「みんなでなれあい」は情緒に属す。

にプチ感動いたしまして初めてコメントさせていただきます。
基本的に「目からウロコ」みたいなことに自分自身あまり経験がなく、他者がそう言うことも信用しない方だったのですけれど、今回の「スローガン」は貴ブログのタイトルの由来というか選択理由というかが、そういうことだったのかと少々「目からうろこ」だったわけです。
私の理解が正しいとするならば、私自身も常々思うところである、「極力理屈で処理せい」と大いに重なり合う所があり、「みんななかよく」は味のあるタイトルだなぁと感じ入った次第です。
人は感情の動物ですから「好き嫌い」だけで交流すりゃ争いになるに決まっているわけで、「気に入らなくても理屈が正しけりゃ認める」というヒトという動物には極めて困難な選択をしなければならない場面は多く、それを怠ってきたのがヒト類の歴史なんではないかと思うわけです。
で、今回の宗教の話題なんかそれの最たるもんで、神道とは離れちゃいますけど、教典と矛盾があれば「進化論」まで否定したくなっちゃって実際に排除する動きまで行き着いちまうという低脳な話になったりするわけですね。

とにかく「(宗教に限らずおのれの情緒に寄りかかって)信じたいものだけ信じる」という脳みそが極めて危険なのではないかという私の思い(その辺がニセ科学批判への動機になっているのですが)はkuronekoさんが今回のエントリでとりあげておられる「日本人特殊論」の危険性と共通するものが大であると考えるのですが、いかがでしょう。
初見で長文失礼いたしました。

40 ■成立条件

kuronekoさま

成立条件は「すべてを見通す超越的存在のまなざし」と「そのまなざしが見た対象に対する完全な記述可能性の担保」ですね。「一神教の神のまなざし」と「普遍言語」。データベースの代表は、元素の周期表や生物分類。

ISO9000の導入って現場のベテランのスキルの継承を困難にしつつ、日本の技術力を低下させてるんじゃないかと思います。データベース化、マニュアル化ってそれが「人を教え、育てる」ことに使われるなら悪くはないでしょう。受験参考書の類ってそうなんじゃないか。

でも現在行われているのは、「労働力代替の容易さ」を目的としたデータベース化、マニュアル化でこれはダメでしょう。

スキルの継承で思い出すのは長嶋伝説のひとつ。後輩からバッティングの秘訣を教えてほしいと合宿所で頼まれた長嶋さんが、後輩の首をふたつの机ではさんで獄門さらし首状態にしたあと、後輩の目の前で全裸でバットを振りながら、ジャストミートの時の性器の感じはこう!、とアドバイスしたという話。ご本人によると事実だとのこと。同じようなことは、企業でのスキルの継承にもあるかもしれず、世上でいうところのデータベースやマニュアルはそういうところには対応できていないんだろうなあと思う。

39 ■計算可能性の罠

食う服ってなんじゃい。空腹って普通に変換しなかった。

harutoさま

データベース化、マニュアル化が成立する条件ってなんでしょうね。

目的関数がはっきりしている、てのはあるかな。要素間代替可能性、ってのも前提されていそう。

たとえば、コンビニのように標準化された高級スーパーってありえるのかなあ。

昔は、いろんなところで「第一近似」なんて言っていたけど、今は数理化されたわりには、言わなくなったような気もします。

38 ■偶然性の廃棄と愚かさへの愛

「リスク社会」なんて言葉もいつのまにかマスメディアでも普通に使われるようになり、「偶然性」を「飼い馴らす」ことや「切り縮める」ことが「社会防衛」の根幹に置かれる状況は、マラルメの「骰子一擲」やニーチェの「永劫回帰」の「劣化バージョン」「24時間お手軽コンビニバージョン」にしか見えず、もとのバージョンには漲っていた「人間に特有の『愚かさ』、betise を愛し肯定するユーモラスなまなざし」がまったく感じられない。

自己の「愚かさ」を「精神分析的な意味で否認する」思考の末路もまた、歴史的に人類は経験済みのはずなんですが。

37 ■データベースとマニュアル

kuronekoさま

東さんの「動物化するポストモダン」における「動物」のお話は「データベース」と密接に関連しています。

私は抽象的にものを考えるのが苦手なので、たとえば「データベース」というと「ISO9000」のことを考えてしまう。「現場の作業員の経験、ノウハウ、スキル」を「データベース」にしろ、という「至上命令」は、作業の「マニュアル化」に支えられた、多国籍企業にによる国内外での「労働価格の切り下げ、ダンピング」を可能にする。

でも小関智弘さんが著書でお書きになるような「旋盤工のスキル」が果たして現在の「科学水準」で「マニュアル化」できるのか。仮にできるとして、それを「マニュアル化」することに問題はないか。いくつもの問いが積み残されているように思います。今は亡き佐藤真の『阿賀に生きる』で、年老いた船大工から撮影スタッフのひとりである若者がスキルを伝授されるという出来事があります(確か)。スキルの伝授には時間がかかりますが、その時間を「無駄なコスト」としてのみ見ることで何が失われているのか、その「機会費用」「コスト」を考えることもまた、必要なんじゃないでしょうか。

36 ■食い意地の例

もう、なるべく卑俗なことでいえば、ノウハウとマニュアル好みは商業主義で広まっている。

何がおいしいか、というのも、食う服ならおいしく感じる。身体性なんて言葉を使うにしても使わないにしても。だいたい、サヴァランだっけな。「空腹は最上のソース」といったらしいし、北小路魯山人にも、腹が減っていれば何でも美味い、みたいな言がある、ってなんなんかで読んだ。
グルメ、食い意地の芸術至上主義で多大の努力を注ぎこむってことは、具体的にあれこれしなければいけないから、「腹が減っていりゃあおいしく感じる」って具体性を排除しないんじゃないかなあ。
でもグルメ文化のなかで「究極の味」なんて言い出すと、微細な差異をわかることが偉い、みたいな話になって、やたらと「情報化」する。
どこかにもっとおいしいもの、おいしくする料理法がある、と考えるようになる。
あり合わせの材料でそこそこに作ればいいじゃん、なんてのはダメなんでしょう。
でも、現実にあるものを工夫して作るって、そんなにお手軽なものじゃないんだけど。

35 ■セールスマン言論

harutoさま

twitter が政治を変えたとかいう言説って、「お役にたちます、このツール」とセールスしているような感じです。社会と人びとがどうあるのか、と問題を立てて、twitter がどう関わるか、ってふうじゃないみたい。
 メディアのツールはなんか、神になりがちな。
 冷蔵庫や洗濯機はそんな特権的な位置を欲しがらない。

 物理的実体から離れると、規模の比較も抽象化。ラウドスピーカーの性能は音量でしょうが、ネットだと閲覧者数。他者依存になるけど、そこに他者性の自覚はあるのかな。
 

34 ■プログラム幻想

「制度設計幻想」「自動調整幻想」はこんなところにもありますね。

http://news.livedoor.com/article/detail/4494863/

自分を善導してくれる「プログラム」が欲しい、というところでしょうか。朝生でも「必ず成功する人生モデル」を「上の世代」に要求して参加者を茫然とさせていましたね。アーキテクチャ、コンテンツといった情報化と関連させれば、「制度設計幻想」「自動調整幻想」は「プログラム幻想」とも言えそうで、「現存する官僚制のさらなる非人格化、非人称化」(「官僚制」はそもそも「人格」も「人称」ももたないのはカフカを読めばわかりますよね)としての「官僚制の完成」によりその制度のもとで「自己承認のお手軽さと確実さ」への「欲望」が若い論壇人とその「フォロワー」にはあるようです。

33 ■非人称化の問題

断章化と並行して非人称化も起こりますね。「誰のものでもないがゆえに誰のものにもなりうる言葉」が流通する。「無責任」に「誰のものでもない言葉」を発信し、その言葉を可能な限り多くの人間に「分有させる」ことが「他者による自己承認の要」になる。「誰のものでもなかったはずの言葉」が「フォロワーの数」によって「私の言葉」であることが「確認される」。ある言葉が「私の言葉」かどうか、を確認するために言葉を発する、ということが自己目的化するというのは、社会病理現象だと思います。

アイロニカルにこれをやればノヴァーリスのようになるんでしょうが、アイロニーなしでやると「ワンフレーズ・ポリティクス」の横行といった「総白痴化」で、「痛みをともなう改革なう」、ですんでしまう。仮にかつての郵政民営選挙の折に twitter があったとして反小泉陣営とその支持者が小泉を打倒できたかどうかは、疑問でしょう。

32 ■断章化の問題

kuronekoさま

140文字という制限は「断章化」が進んだということで、今よりもさらに「書き言葉」は失われていくということだと思います。「話し言葉を文字化すること」が「書くこと」だと短絡される。

ソフォクレスの『アンティゴネ』でいえば「謀反人を弔ってはならぬ」という「クレオンの御触書」のようなものだけが「書かれたもの」だと考えられる状況。それが全面化するというのは、ただひたすらに「この発言をする私を承認し、崇めよ」という「命令」が相互に下され続けることと同じです。なので「フォロワーの数」なんてものが twitter では利用者の「気がかり」の対象になる。「他の利用者による自分が述べたことの内容の理解と吟味」はどうでもいいんです。twitter がアメリカ大統領選でどう使われたか。「討論会や集会の開催情報を知らせたり、政策や政治信条に関するメッセージを流したり」でしょ。「汝、われを信ぜよ、信じる者は救われる」というメタメッセージの方が重要。

日本でも利用者が増えているようですが、たぶん利用者の中心は30代以下の若者と年齢を問わず論壇人、学者なんじゃないでしょうか。「承認要求が強い」人々。そして「承認要求の強さ」がどこから来るかというと「自己肯定の困難、不可能」に由来する「不安」から。

twitter の特性が逆用されれば記事中の麻生発言をめぐる騒動のようなことも起こる。「内容の理解、吟味」ではなく「マスコミ報道はウソである」という「どうでもいい内容」「そこに書かれたこと」を「どれだけの数の人間が信じるか」「フォロワーの数がどうなるか」が問題だと、麻生サイドの投稿者は考えたんでしょう。

この情報生産の「断章化」は歴史的に初めて、という現象ではなく、文学史においてはドイツロマン派にありますね。ニーチェはその影響を受けている。でも、さすがに 「140文字で言いっぱなし」ってだけ、なんてことはニーチェもやっていない。「総ニーチェ化」するのに十分な「教養」と「民度」が果たしてこの国にあるのかどうか、それが「ニーチェの狂気」ならぬ単純な意味での「白痴化」にならないかどうかは、はなはだ疑問です。

31 ■twitter

朝日コムから。

http://www.asahi.com/digital/mediareport/TKY200910060270.html

30 ■不求甚解

ごんごんさま

 ごんさんの芥川論もharutoさんのコメントも、あんまりよく理解できていないんですが、なんとなくこんなところかな、ってところで応対。

 ごんさんのほうは、(続く)とあるので話の腰はおれないな、と思ってましたけど。
 

29 ■世にぶりっこの種は尽きまじ

あたしに言われたかーないだろうけど。

ザ・クール国家ねえ。電通・博報堂が威勢良かった時代だとうけるかも。
自己分析っていても「わたしって結構、おしゃれな人かもー」なんてのも入るような感じの言葉だなあ。あああ。

ううう。ご教示のURL、長いんで読み切れていません。もともとの議論がよくわかってないし。

まあ、あっさり言えば、アラウンドサーティーの年代は、世盛りになった自分たちはデジタル化社会の真ん中だという自負と一種の「全能感」があるのかも。

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