朝日新聞 耕論 「上から目線」で何が悪いか を読む | みんななかよく

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 7月12日の朝日新聞(東京版)の記事、<オピニオン 耕論 「上から目線」で何が悪い>という記事を読みました。呉智英氏と宇野常寛氏に対談で、リードに(構成 鈴木繁)とあります。

 リードでは、<上から目線というけど、論じるという行為は自然と「上から」になるのでは> と問題設定しています。

 

 冒頭で、呉氏が、「上から目線」てえ非難は、根源的な問いかけをのっぺりしたものの中に塗り込めようとしていて、嫌なもんでやんすな、と言うと、宇野氏が、なんの、ありゃ、議論相手への罵倒語でありんす、と答えております。

 続けて宇野氏は、「社会が平準化、フラット化しているからこそ、みんな、その場その場の関係性の中で、ほんのちょっとでも上に立つことにこだわる。「上から目線だ」と言いさえすれば、発言の中身ではなく、態度の面で相手に勝ったという幻想が持てますから。そして一瞬だけ癒される」とうがったことを言う。


 それを聞いて呉氏 (ここでは、幇間みたいな名で、呉八、としましょう)、「それじゃあ、若者はよく「上から目線」嫌いと言われるけど、言われるのが嫌いなだけで、言うのはいいの?」と尋ねると、宇野花魁は、「『言ったもの勝ち』の便利な言葉として重宝されているわけです」とすましている。


 その後、呉八が「上から目線」の演出の例などを引いて、宇野花魁が、こんなご時世(時代)ではしたこと(実績)よりも人柄(個性)のほうが、効くでありんすと、社会のフラット化を盛んに言う。

 その後の、こんな言葉は、ブログであれこれの言い合いを目にしていると、ちょっと考えさせられます。

 

 ― 僕の危惧は、「上から目線」問題が、世代論に回収されてしまうこと。「上から目線」は罵倒語であり、ルサンチマン、つまり「鬱屈したひがみの感情」の発露なんですから。論理で批判されても「それこそが上から目線だ」「オマエモナー」と2ちゃんねる的連鎖になってしまう。「上から目線」が定着せざるをえない社会背景のほうに目を向けないと、それこそ生産的じゃない。


 ここで世代論が出てくるのが変なんですけど、(2ちゃんねる的、って自分で提示して自分で「世代論」へ持って言っている印象)、「上から目線」が定着せざるをえない、というのも変な言い方。「上から目線」という言葉が、ということなんでしょうけど、「せざるをえない」ってものなのかい? このへんはリライトするときに熟慮したほうがよかったところではないか、とおもいますね。


 これに対して呉八は、なにやら我が田に水を引くように、こんなことをいう。


 ― そう考えると、80年代に「脱構築」という名の価値解体を進めた連中の罪は重いよ。細分化、平準化を決定的に進ませただけに終わった。グランドデザインはです、出たのはオウムだけ。


 なんか、こういう言明自体が、言説が商品化してカタログ化した時代の色で書かれているという気もしますが、まあいいや。


 それから、話は、「エビデンス(証拠・根拠)を出せ」という言葉にも及びまして、これも宇野花魁は「無内容な罵倒語」と言う。こうした罵倒語の使い勝手というのは、仲間内(コミュニティー)をまとめるために、敵役(仮想的)をしつらえること。そして被害者になるのがいっち簡単、というのが花魁の見立てです。

 

 そして、もう価値の再構築は無理じゃないの? 「仕事で自己実現」はコスト、高いよ、というお話になり、呉八ッアンに至っては、戦争があるか大地震が起こらないと、もう変わらないんじゃないという物騒なことを言います、

 

 後半部分は、コミュニケーションスキルをどう学ぶかが語られますが、「コミュニケーション 教室で学べるか」という小見出しをあげておけば十分でしょう。

 ただ、宇野花魁が、ネットの中で自己実現といって、「結婚して家族をつくることのような、膨大なコストはかからない。家にいながら、極めてローコストでできます」というのは、面白い。

 そして、ネットでの書き込みのことを主としていうのでしょうが、「自分で選択した複数のコミュニティに自分で距離感を設定してアクセスし管理するスキル」が大事だと言います。 

 ヘイトコメントとは反対のところですね。


 ネットに書き込みをするって、そんな御大層なものとは思えないけど、 なんとなくキャラを作っちゃうね。