さむらい論序説 | みんななかよく

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ここで予告した、お侍さんの話。

http://ameblo.jp/kandanoumare/entry-10060653402.html


ここであげたエントリでは、

非国民通信さんとBLOG BLUES兄さんが論争していて面白いんですが、脇から横槍を入れるのも「はしたない」から、自分の感覚の話。


わたしは母方の祖父母と同居で育ったから、浅草生まれの祖母の影響を受けて育ちました。

祖母の家は商家だけど、零落して跡取りもいない。

祖母の育つ時にだんだん落ち目になって、引っ越すたびに家が小さくなったといいます。

それはともかく、祖母の祖母の頃はかなり豊かだったらしい。なんかね。家に長唄だかの下ざらいのおしょさんが住み込んでいたとか。富本だったかな。(音曲を習うのが江戸後期の町人の教養なんだけど、お稽古に行く前に家でレッスンをうけていくということのようです。)

それで、祖母の祖母は御殿奉公に上がったのが、いわば学歴代わり。つまりは女中さんになるんだけど、水回りの仕事とか細かいことは、もっと格下の女中さんがいるのですね。


というわけで、江戸町人に育てられた祖母の感覚では、お侍さんは偉いもの、という感覚だった話は前にもしたと思います。怪我して痛いとかいおうものなら、「むかしの武士は腹さえ切る」と怒られた。

団十郎の家、市川家は先祖が武士だというので別格に尊敬。

日常の話でも尾張様とか蜂須賀様とか言うんだもんね。講談本の類の呼び方を踏襲しているのでしょう。○○藩なんて、歴史小説が大衆に読まれるまでは、日常では言わなかったんじゃないかな。


司馬遼太郎さんのエッセイに、江戸時代のことを知っている女の人が、「お侍というものはともかく凛としていた」と言っていた。そう書かれた書物を読んだということでしょうね。

まてよ。1868年の瓦解の時に15歳として1853年生まれ。その人が80歳になったのは1933年(昭和8年)か。だとしたら少年時代の司馬さんは直接に老女の話を聞いたのかな。


道の端を歩かないとか、武士は挙措動作もやかましく言われたらしい。往来でものを食べるなんて論外。女連れで外出するなんてありえないことです。

そうした旧幕時代の武士階級への尊敬の反面で、「武士の商法」といって、世間知らずを笑う気分もわたしの子どものころにはあった。いや、おそらく江戸時代当時からあったのですよ。


高楊枝 時々武士が買いに来る


という古川柳があるはずです。


泰平の世の武士は、俸禄(給与)生活者です。ゴマもすれば汚職もする。そういう現実もむかしの人は同時代人としてみていたはずです。


子ども向けの歴史の本で、江戸時代中期か後期に、現在のの士道が廃れたことを嘆く狂歌があって、えーと、


  当節は、さよう、しからば、ごもっとも、なんとあろうか しかと存ぜぬ


だっけな。のらりくらりと応接するなまくら武士への風刺があったというのを読みました。

うむ。今の国会答弁にも応用可能ではないですか。


そんなわけで、なまくらもいるけど武士は立派、という複合した感覚が、江戸時代の人と付き合いのあった明治生まれの東京市民にはあったはずです。

多分ね。武士、お侍を尊敬しているんだけど、現代の「プレジデント」とか「歴史街道」とか、ああいった雑誌で繰り返される武士の立派さ、というのと、昔の人が感じていた武士の潔さとは違うと思います。


日本精神の真髄は「武士道」とかいうのは、新渡戸稲造が「これではあんまり幅が利かない」と思って海外向けにアピールしたのがもとなんでしょう。あるいは忠臣蔵のような大衆芸能で繰り返される自己犠牲の陶酔美。

どちらも、江戸後期から明治に生きた人のリアルな感覚からすれば、かなりデフォルメされた侍像だと思います。


武士に二言はないとか、「雨月物語」なんかに出てくる信義を守る話は、武士らしいというけど、でも商人だって契約を守らない、信義を裏切ると信用されないわけですね。祖母によると昔の借金の証文は、返せない場合、「満座の中でお笑いくだされ」と書いてあったのだといいます。本当とも思えませんが、約束を守るというのは町人にとっても重要な徳目だったでしょう。

ついでに言えば、中国の「侠」でも約束は絶対でしょう。秘密結社的なのかもしれないけど、中国でも信義を重んじるというのは重要視されたはず。「希布の一諾」と言いますからね。それが価値とされていたことは間違いない。


強気を助け、弱きを挫く、のは、あんまり武士とは関係ない。講談本のヒーローになった武士に限られる話で、その他では、主君のためなら侍は弱者でも平気で斬っちゃいますよ。大名行列の供先を突っ切ったお百姓は、切り捨て御免にしたと思う。

ただ、自分の利になることを抜け駆けしてやることに対する拒絶感というのは、祖母などには強かったな。それが、武士に由来する美意識なのか、八っあん、熊さんの素朴な正義感なのか、あんまり分明でない。


あと、公(おおやけ)観念が武士にあったか、というのも、どうなんだろう。基本的には「お家」が第一でしょ。天下国家を論じる武士ってイメージは、幕末ものの時代劇にはあるけど、実際にはそんなにいたものかどうか。

もちろん、明治になって翻訳語ができて、「社会」とかいう以前に、例えば「公界」なんて言葉はある。でも、今の公共の観念とは違うはず。


町人国家とか武士道とか、後代はいろいろな言説を江戸時代の身分、階級にひきつけて論じるわけですが、当時の人が共有していた観念とは別の、記号としての「武士」であり「町人」なのではないかな。


昔、立川文庫で描かれた武士や忍者のように、PHP研究所やプレジデント社の出す本で描かれる武士階級というのもフィクションで、現実ではないはずです。

だからダメで議論を終わらせるのではなく、そういうフィクションがどう社会意識に働きかけているかを考えなければいけないのでしょう。

アカデミズムの方に頑張ってもらおうね。