偶像崇拝の禁止  アブラハム宗教をめぐる断章 | みんななかよく

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きっかけとなったのはgegengaさんのところのこのエントリーのコメント欄のharutoさんの発言 。(No.29~33)


>29,30のコメントはたぶん「偶像崇拝の禁止」に関わると思います。

>俗化するとその禁止が緩和される。その結果ある対象ヒト、モノに対するフェティシズムとして執着、信仰が発生する。どんなに抽象的なものに対してもそれは発生する。ある抽象化に対する相対的な具体化として。宗教と呼ばれるものは「宗教であることをやめる」ことを目指す。抽象化を極めようとする。しかし、どこかで抽象化の不徹底が生じ、いわゆる「宗教」と化す。


前後は貨幣の崇拝(物神化?)というようなお話ですが、ここでは、宗教、偶像崇拝って何かなあ、という疑問を中心に断片的に記します。


ちなみに29のコメントは、八百万の神の国家神道化を、おそらく平田篤胤の一神教的思想を下敷きにしての「アブラハム宗教」化ととらえる話。30は、マックス・ウェーバーのプロテスタンティズムと資本主義の精神をひいての、「ネオリベラリズム」と「国家神道」の親縁性というギャグ。(いきなり日本の国家神道を持ち出す前に、アメリカの宗教保守の宗教を考察するのが順序だと思う)

32は、貨幣フェティシズムの現代化について。


ここで引用したのは31のコメントです。


>宗教と呼ばれるものは「宗教であることをやめる」ことを目指す。抽象化を極めようとする。

というのは、わたしの理解では親鸞の考える阿弥陀如来などが抽象度が高く、仏像やお経本といたt具体物の聖性をどんどん無化しがちなことを想起すればわかりやすい。日蓮宗だって、「南無妙違法蓮華経」というお題目を掲げて礼拝の対称にしている。髭題目といわれる独特の書体の文字を崇拝するところは 「俗化するとその禁止が緩和される。その結果ある対象ヒト、モノに対するフェティシズムとして執着、信仰が発生する。どんなに抽象的なものに対してもそれは発生する。」という局面ですが、念仏とか題目とかいうものに絞り込んでいく過程は抽象化でしょう。

草木や巨石に神が宿るというような具体物への礼拝や、ある歴史的人物への崇拝をそぎ取っていく。それも教学という体系が出きたから、そのスコラ体系としての抽象化ではなく、ある宗教そのものが普遍的な観念として「神」や「仏」への信仰体系を「純化」していく。

でも、それでは一般的な宗教感情を広く喚起するのは無理。というか、宗教というのは抽象観念の極北としての「神」ではなりたたない。少なくとも社会現象としての宗教はそういうものではない。あるいは仏教の「空」の観念とか、それがそのまま万人の宗教生活の基礎にはならないでしょう。

だから、念仏という具体的な「言葉」が、南無阿弥陀仏と書いた「物」が信仰の対象となる。


アニミズム的な具体物崇拝の信仰=α 高度に抽象化された神観念=Ω、とすると、αからΩの間にあるのが宗教という図式をとりあえず提出します。


後は、るると論述しないで、断片書き並べスタイル。


どこか地方都市で、コーランが破かれて捨てられ、在留パキスタン人などが大騒ぎになった事件があった。これは「書物」という紙の束に聖性を感じる「フェティシズム」が根底にあるのか。


お数珠を一周させるとお経を1回読んだのと同じ功徳、など様々な行為や物に対する「聖性の付与」はわたしたちの社会に身近だ。


イスラムではナイキの靴の模様が、アラビア文字に似ているなどの文化摩擦もあった。文字に対する「フェティシズム」か。


禅の語録には、「あるお坊さん(丹霞)が寒いから木の仏を燃やして暖をとったら、その寺の院主(というから住職さんかな)が来て、『わろ、なにすんねん。仏様を燃やして』と怒る。丹霞さんは灰をかき回して、「仏舎利(仏の遺骨)を取ろうと思ってん」と答えた。住職が、「お前なー、木の仏に仏舎利があるわけないやないか」というと、丹霞さん、「あー、仏舎利ないの。ほな燃やしてもいいやないの」とケロッと答えたという話がある。口の減らんやっちゃな。(丹霞焼仏)


「偶像崇拝の禁止」というのは、「神(聖性を持つもの)の似姿を図像化し礼拝することを禁止する」ことか。それは、ある信仰が普遍化し、世界宗教となるための一過程として、宗教学的に一般化できるのか。

一神教の「他の神を礼拝してはいけない」という禁止規定と密接に関わる、「神の唯一性」の系となる禁止事項か。


仏教でも最初は仏陀の姿を描くことは禁止で、法を現す車輪などで表現。それから仏足跡などで表現。仏像の誕生ははヘレニズムの影響といわれていたっけな。


バラモン教時代のインドはどうだったんだろう。ヒンドゥー教は最初から偶像禁止観念なく発達したのかな。


自然崇拝している原初信仰が図像的に神格を表したりしないのは抽象度が低いからか。それとも全てを信仰の対象とできるというのは抽象度が高いのか。(汎神論は抽象度が高いだろうに、全てのものに神が宿るというとプリミティブだとみなされるのは何故か)

ここで、「文明化バイアス」といういい加減な概念を提出しておきます。4大文明というような文明の末裔たちは、世界中にあるそれ以外の社会の思考方法を、野生に近い、と決めてしまうってぐらいの意味ね。とりあえずの規定は。


「偶像崇拝の禁止」は、「神は自分の姿に似せて人間を創造した」という人格神、創造神の神観念を持つ宗教に固有のものか。

人間の想像力で神を限定することの禁忌か。

アニミズム的な原初信仰、万物礼拝から世界宗教として身を起こすときに獲得した人類の普遍概念か。



イスラム前の時代、いわゆる無道時代の信仰とヨーロッパのキリスト教以前の信仰との比較研究なんてあるのかな。


「偶像崇拝」ではなくても先行する信仰と習合する(シンクレティズム)のは一般的にあることとすると、東南アジア社会のイスラム経とそれ以前の信仰との習合はどうなっているんだろう。


クリスマスツリーが聖樹信仰の習合だったり、聖母マリア信仰に地母神信仰が紛れ込んでいるような習合はあることとしても、宗教画をみて手を合わせるクリスチャンはいないだろうけど、美術品として展覧会で鑑賞していても、手を合わせる日本人はいる。

(若い女性で密教美術展で作品ごとに合掌している人を見たことがある) 仏像や仏画を礼拝するかは人にもよるけど、その心理はなんとなくわかるところが日本人の共通感覚か。


「偶像」という観念は「シンボル」という観念とどういう関係かな。十字架は偶像とは言われないけど、イコンは偶像とみなす人もいるだろうし。


ところでイスラムのカリフ時代、貨幣は人物像を刻まなかったのかな。


磨崖仏などで、イスラム時代に顔を削られたものなどがあるけど、あれは偶像を破壊するというより、邪視を避けるという潜在意識があるんじゃないかな。顔がなく目がなければいいとすれば。

見つめられることの恐怖か。


ヨーロッパの近代人が、東アジアや南アジアの宗教をみると、偶像崇拝で文明度が低いと思うかもしれないけど、そもそものキリスト教やユダヤ経の偶像崇拝禁止の原初感覚とは離れていないかな。