プールサイドの人魚姫 -2ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

 

 

 この東京タワーは昨年の7月に撮影したものだが、その頃と言えば徐脈性心房細動で緊急入院し、生きるか死ぬかのドタバタ劇を繰り返していた時期。つい最近の様な気もするがペースメーカー植え込みから半年が過ぎ、今はほぼ元気な毎日を送っている。正確に記すと7月22日の朝、前日に撮影した写真をRAW現像しようとパソコンの前に座った途端、いきなりの目眩、頭がクラクラし一瞬だったが気を失ったかも知れない。デスクの角に頭をぶつけた事を覚えているのだが、その前後がどうだったかハッキリしない。自分の身体に異変が置きている事だけは確信したが、連日の撮影で少し疲れたのだろうと軽く考えており、余り気にも止めなかった。
 その日も撮影の予定を入れていたので目眩の事は無視してカメラ機材をバッグに詰めて出掛けた。自宅から駅までの道程で何度も目眩を起こし「ちょっとやばいかも…」とふらつく身体を何とか気力で支え電車に飛び乗った。体調に異変があるのだから止めればよいものを、「撮りたい」と言う気持ちを抑えきれなかった。まるで欲しい玩具を見つけてそれを強請る我儘な子供状態であった。
 東京タワーのライトアップが平日と土日では色が変わる事を今回の撮影で初めて知った。御成門ではなく芝公園で下車し、公園内を散策しつつ時間を潰し暗くなるのを待った。歩いている最中も度々意識が遠のく感じがし、その都度その場にしゃがみ込んで休憩。心不全なら呼吸が苦しくなるので直ぐ分かるが痛みもなく、動悸がする訳でもないのでまさか徐脈発作を起こしているなんて事は夢にも思わなかった。夜の帳が降り始め東京タワーの赤と星の様に輝く電球が夏の夜空に浮かび上がった。待ってましたとばかりに三脚にカメラを固定し、長時間露光撮影を開始。様々な場所から美しい女性の様な脚線美を持った東京タワーを撮りまくった。移動中、何度も気を失いかけていたが、そんな事もおかまいなしでの撮影。「知らぬが仏」とはまさにこの時の状態だった。
 東京タワーと言えばやはり思い出すのは父との事である。以前にも記事で紹介したが、刑務所帰りの父と一緒に帰りの電車の窓から眺めた東京タワーが脳裏に焼き付いている。雨粒が車窓に当たり弾けて流れ落ちる姿が涙の様に思えた。約二年ぶりの父との再会を東京タワーが祝ってくれている様な気がした。そう言えばあの時、私の隣にいた綺麗なお姉さんは、今でも健在なのだろうか?お腹を空かしているだろう事を察して、「これあげる」と優しく幼い私に一切れのパンをくれた女性…。人の優しさに飢えていた子供時代ではあったが、親切な大人たちに囲まれて育った私は決して不幸ではなかったと思う。
 それにしても東京タワーの夜景撮影中、失神しなかったのは運が良かったの一言に尽きる。きっと東京タワーが昔の事を覚えてくれていて、私を見守ってくれていたのかも知れない。
 

 

 

 

※イギリスのロックバンド『アニマルズ』の代表曲。全米ビルボードで3週連続1位を記録している。日本語歌詞は浅川マキ自身による。

 

 一年を通じて夕焼けが最も美しいのは秋から冬にかけて。一眼レフを始める前は空が何色だろうと気にも止めていなかったが、カメラを手にした途端に空模様が気になってしょうがない。その日撮影に行くか止めるかはほぼ天気次第である。空一面をオレンジ色に染める夕陽も魅力的ではあるが、私は青と赤が混じり合った夕暮れが好きである。
 そんな空は神秘に満ち、そして何処か悲しげで憂いを帯びた女性の後ろ姿の様にも見える。音楽に例えるなら明るいポップ調よりも『ブルース』がぴったり。日本の女性ブルース歌手と言えばやはり『浅川マキ』。彼女の初のライブ・アルバム『NAKI LIVE』を私は持っていたが、蒲田在住の時に自宅が火災に遭い100枚以上あったLP版は高熱で溶け落ちてしまった…。そのライブ・アルバムの収録曲で最も好んで聴いていた歌が『朝日楼(朝日のあたる家)』だった。参加ミュージシャンでドラムを叩いていたのが、あの『メリー・ジェーン』をヒットさせた『つのだひろ』である。
 静岡の駿府会館で行われたロックコンサートで『つのだひろ&スペースバンド』を観た記憶が鮮明に蘇って来た。泉谷しげる、海援隊、サディスティックミカバンド、ガロ等も出演した今思えば何と豪華なコンサートだっただろうと思う。
 夕焼けの話題からすっかり脱線してしまったが、都内で夕映え(風景)を撮るスポットは多々あるが、私の場合、最も多く撮っているのが隅田川で中央大橋からの眺めが絶好のポイントだと思う。他に『お台場』『豊洲大橋』『葛西臨海公園』『竹芝桟橋』等である。投稿したこの写真であるが、自宅から埼玉方面へ30分ほど歩くと新河岸川に着く。その川に架かる小さな橋の上から手持ちで撮影した。この辺りは閑静な住宅街で空を遮るような高いビルもなく、最も高いのは送電線の鉄塔くらいのものである。
 人も車も殆ど通らない場所ではあるが、夕焼けを撮る好条件が割りと整っており、意外と撮影の穴場だったりもする。夕日の赤が川面を真紅に染め上げる光景は圧巻!今年こそは横浜港からの夕焼け空をカメラに収めたいと思っているのだがどうなる事やら…。

 

 

 クリスマスイベントが日本に広まり定着する切っ掛けを作ったのは銀座の明治座と言われている。クリスマス商戦を何処よりもいち早く展開し、庶民向けの豊富な商品の販売は人気も上々で大成功を収め、日本に於けるクリスマスの礎となった。 
 クリスマスと言えば欠かせない物がプレゼントである。サンタクロースに願い事をし、贈り物を心待ちしていた幼い記憶を誰もが皆持っていた。そんな無垢な心からやがて月日が経ちその正体を知る事となる。そして今度は自分が親になりサンタを演じている。
 サンタクロースの真実を知るのは平均で7歳だと言われているが、私は今でもその存在を信じている。人類がこの地上に生まれ進化し栄光と繁栄を繰り返して来たが、その影には醜い権力の争いが常に付きまとって来た。それでもサンタクロースは年に一度訪れるのである。サンタは神の化身、諍いの絶えない人間に心を痛めた神は、サンタクロースに姿を変えて子どもや大人に一つのプレゼントを置いて行く。
 それは愛である。愛情の篭ったプレゼントほど嬉しいものはない。愛とは受け取るものではなく、与えるものだと教えてくれている。頂いた愛は人から人へと受け継がれていくもの。貴方は生まれながらにしてこの世に生を受けた時、既に母胎の中で愛を感じとっているのだ。
 そして私にはどうしても忘れる事の出来ないクリスマスに纏わる思い出がある。それは私が小学生だった頃の事。貧困は、時に子どもの心を傷つける。私はそれを子ども時代にうんざりするほど味わって来た。空腹に耐えきれず石ころの下の蟻の巣を見つけると大量の蟻を両手で救い口に頬張ったりもした。赤蟻は蜜を持っているのでそれが飴の様に甘かった事を覚えている。
 その日はクリスマス・イヴだったと思う。時計が午後�10時を回った頃、泥酔しきった父が真っ赤な顔をして帰宅し「とし坊、土産だ」と言って私の前に差し出した小さな白い箱の中身は、酒臭いイチゴのショートケーキだった。しかも何処かで箱を落としたのか、半分グチャグチャに潰れかけていた。それでも私はそれが嬉しくてたまらず、涙をポロポロ零しながらそのケーキの甘さを味わった。42年の短い人生の中で父からの贈り物はその小さな崩れかけのケーキのみだったが、酒と自分が流した涙のしょっぱさが入り混じったケーキの味を今でも忘れていない。
 酒を一杯引っ掛けて酔わないと自分の息子の為にさえまともな贈り物も出来ないほど、恥ずかしがり屋だったのだろう。酔えば必ず暴言と暴力で私を傷つけて来たが、私自身は一度も父を嫌った事はなかった。父よりもむしろ父を狂わす『酒』に恨みを抱いていた。この世から酒が無くなって欲しいと何度も神様に手を合わせていた。
 クリスマスは平和の象徴でもあり皆が楽しめるイベントでもある。が、しかしその隣では
明日の糧を求めて餓え続け、サンタクロースの来ない子どもたちが大勢いる事も忘れないでいて欲しい。今、あなたがもし幸せだと思ったら、それは「当たり前」ではないことなのだと認識して欲しい。
※写真は東京ソラマチのイルミネーション。

 

 

Happy New Year 2024!

 

2022年に引き続き昨年も皆様には大変ご心配をお掛けしました事をこの場を借りてお詫び申し上げると共に2024年が明るい希望に満ち溢れる一年になりますように。

 

 年明け早々不安で暗いニュースが飛び込んで来て正月気分が吹き飛んでしまった方も多いのではないだろうか?筆者もその内の一人であるが、元日の夕刻に能登半島を震源とする震度7の巨大地震…。地震発生から一夜明けた2日にはその被害の大きさが想像を遥かに超えるものだった。テレビに映し出される映像や写真は地震の底しれぬ破壊力を見せ付ける内容で、言葉を失った。観測では1.2m以上の津波とあるが、港には転覆し船底だけが辛うじて見える漁船が何隻も無惨な姿を見せている事から津波はおそらくもっと高い2mを超えていたのではないかと思われる。火災の発生により焼け落ちた民家、土台から崩れ落ちたビルなど、まるでそれは空爆を受けた戦場の如くである。
 2011年の東日本大震災以降、日本列島を取り巻く海洋プレートの動きが活発となり、日本の何処で巨大地震が発生しても不思議ではないほど、不安定な時期に差し掛かっていると言えるだろう。東京で今回と同程度の地震が発生した場合、おそらく首都壊滅と言う想像するのも恐ろしいシナリオが見えて来る。『備えあれば憂いなし』と言われる様に日頃から命の安全を徹底し、リスク管理を怠らない事が肝要である。
 日本海から吹き付ける寒風で被災地では暖もまともに取れない厳しい状況に置かれており、一刻も早い救援が望まれる。気象庁は今回の地震を『令和6年能登半島地震』と命名した。この地震で犠牲になり亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 NHKの『ゆく年くる年』で神田明神(神田神社)が紹介されたおり、初詣の参拝客が門の開くのを今か今かと待っている場面を見つつ、私は自作の年越し蕎麦をすすっていた。無事に年越しを迎えると共に、神様から頂いた今ある命の尊さを噛み締め、今年は入院なんて事にならぬよう自己管理を徹底し、今年も来年もその数年先も元気で撮影ライフを楽しめるよう、神社の御祭神である『だいこく様』に手を合わせた。商売繁盛の福の神でもあり、健康、除災厄災のご利益もある事で有名。

 

 

 

 

 九品仏浄真寺の訪問は今回が3回めとなるが、この場所が都内で2番めに人気のある紅葉スポットだと始めて知った。今年の紅葉は夏が長かった影響もあるのか紅く色付くのが例年よりも遅い気がした。11月中旬過ぎにそろそろ色付き始めているだろうと思い、増上寺へ行ってみたのだが紅く色付いたもみじの姿を見る事は出来ず緑一色と言う、ちょっと残念な結果だったが、撮り方次第で青もみじもまた味わい深い趣のあるphotoに変身する。
 花・植物の撮影時に使うレンズはほぼ決まっていて、中望遠マクロのZ-MC105mmで撮影するのが殆ど。花壇に囲まれ中に入れず近づいての撮影が困難な時はタムロンの望遠レンズが活躍する。使う機会はあまりないけれどイザという時には頼もしいレンズとなる。単焦点レンズで撮るのがオススメではあるが、レンズにはそれぞれ特性がある。人間の性格の様なもので、テキパキと歯切れの良い写真を撮るなら単焦点レンズ、出来るだけ明るく理想はf/1.4辺りだろうか…。背景を美しくぼかした写真であれば絞り羽根が9以上あれば正円に近い玉ボケを作る事が出来る。
 花など植物を撮る時はほぼマニュアル撮影となる。絞りリングを少しづつ回して行くと背景のボケ感を掴みやすくなり、後は自分の感性でここだ!という時シャッターを切る。橋の写真で話した通り阿吽の呼吸である。青い空と木々の隙間から溢れて来る陽射しを計算しつつ、あらゆる角度からの撮影に全力を注ぐ。だから風景写真より花などを撮る時の方が遥かに神経をすり減らし尚且つ体力も相当必要になるため、目的を達成した後はヘトヘトになるほど疲れているのだが、達成感がそれを遥かに上回っているため、さほどの疲れを感じる事はない。ただ、翌日は身体中のあちこちが筋肉痛やら関節通で、日頃の運動不足を実感している。
 寺院特有の静寂と都会では味わう事の出来ない異空間が広がる『小さな京都』に迷い込んだ様な錯覚を覚えつつ、黙々とシャッターを切り続けた。木漏れ日の中、もみじたちの囁き合う声を聞きながら心の中で仏様に手を合わせていた。

 

 

 今回の秋バラ撮影では、いつも行く鳩山会館や新宿御苑ではなく練馬区光が丘にある『四季の香ローズガーデン』まで足を運んだ。このバラ園には3年前、一眼レフデビューして一年目を迎えた頃に出掛けているのだが、薔薇を撮ったつもりがHDの中身を調べても一枚も見当たらなかった。多分、薔薇を撮るのが苦手で敬遠していた時期だったため、園内に咲き誇っている秋の花を眺めるだけに終わったのかも知れない。
 都営三田線の春日駅で都営大江戸線に乗り換え、都庁前で光が丘行きに再度乗り換える。自宅駅の西台から約1時間程度、光が丘駅から徒歩5分とアクセスも良く、しかも入園料は無料。閉園は17時だが、広すぎず狭すぎずと撮影には丁度良いスペースが嬉しい。薔薇以外にも色んな花々が咲いており、無料の割にはしっかりと手入れされているため、園内全ての花を撮ってしまいたくなるほどである。
 秋桜の時のようにしゃがんだり寝転んでみたりと、あらゆる角度からの撮影。地面は柔らかい芝生だったので、腰を下ろして低位置からの撮影もさほど苦ではなかった。撮影に夢中になっていたため時間の経過もすっかり忘れており、気付いたら空が黄昏色に染まっていた。園内には既に誰もおらず私一人が花の前に座って撮影していた。と、その時事務所の中から若い女性スタッフがやって来て「17時過ぎましたので閉園です…」と声を掛けられた。その優しい声で時間オーバーしている事に気付き、ペコペコと頭を下げながら何かを呟いたのだが何を言ったか記憶にない。園内を出た後、まだ諦らめ切れず夕暮れの中に佇む薔薇を撮っていた。夕暮れと言うよりほぼ夜に近い状態だった。
 一眼レフを始めた頃、こんなに花を撮るようになるとは思っていなかった。いつも風景をメインに撮っていたからレンズも広角ばかりだった。花を撮るのが愉しくなったのはタムロンSP90mmを使うようになってからだ。D810との相性も抜群だったし、優れたマクロレンズだった。そのタムロンで撮った芝公園の赤い薔薇の事は今も記憶の片隅に刻まれている。花の撮り方を伝授してくれたレンズと薔薇に感謝である。

 

 

 天王洲アイルはお台場と並んで人気の観光スポットである。私のお気に入りでもある為、年に数回は撮影に訪れている。運河に囲まれた水辺の風景を眺めながらお洒落な水上レストランで食事を楽しむカップルも多い。
 撮影した橋は『天王洲ふれあい橋』と言う名称で、歩行者専用の小さな橋であるが、夜になると綺羅びやかな光でライトアップされて、夜景撮影の人気スポットでもある。季節によってライトアップの光が変わる。最初に訪れた時は一眼レフを始める前でスマフォで撮影していた。春先だったと記憶しているが緑色に輝くお洒落な橋と言う印象を受けた。
 この地域は結構広く、全ての場所を(撮影しながら)回ろうとすると半日は掛かるだろう。『水辺とアートの街』と言われるだけあって、所々に大きな壁画を見る事も出来るし散策している内に新しい発見もあったりと、撮影意欲を掻き立ててくれるのが嬉しい。
 浜松町からモノレールで行けば天王洲アイル駅まで僅か10分程度で着くが、撮影が目的なのでJR品川駅から20分ほど歩きながら目的地へ行くのが私のコースである。モノレールに乗っていたら発見出来ない見どころもあるし、逆にモノレールの高い位置から運河を眺めるのも良いかと思う。
 私の『橋の始まり』は隅田川に架かる『新大橋』で、三脚を使った夜景撮影を教えてくれた思い出深い橋。それ以来、橋に取り憑かれた様に都内の橋(特に隅田川)を撮りまくって来た。被写体に対峙していると囁きの声が聞こえて来るのである。「私をこの様に撮って下さい…」と。まるでそれは神のお告げの様に心に響いて来るのである。ファインダー越しに被写体と阿吽の呼吸でシャッターを切る。それは花でも人物でも同じ事。全ての万物には生命が宿っているから、それらと一体になった時シャッターチャンスが訪れるのである。

 

 

 昨年はコスモスの咲く時季に入院・心臓手術と大変な時期を過ごしていたため、撮影どころではなかった。退院後、何としてもコスモスを撮りたくて無茶を承知で浜離宮恩賜庭園へ行ったものの時季既に遅くまともな撮影は出来なかった。その時のリベンジと言う訳ではないが、今回かなり気合を入れて撮った積りである。都内にあるコスモス畑は浜離宮恩賜庭園くらいしか思いつかず一応行ってみたがキバナコスモスが乱雑に咲いているだけで、撮影意欲は失せてしまい、殆ど何も撮らず帰宅。やはり広大なコスモス畑と言えば立川の昭和記念公園だろうと思ったが、兎に角広すぎる公園はコスモス畑がある『みんなの原っぱ』まで立川ゲートからだと徒歩30分は優にかかってしまう。歩き疲れて撮影に没頭出来なければ、元も子もないので、今回は青梅線の西立川駅まで行く事とした。然し、西立川ゲートからでも目的地まで徒歩20分もかかり、今更ではあるが改めて公園の広さを思い知らされる結果となった。撮影日は10月7日なのであるが、今年は異常な暑さが長く続いていた事で、花たちの開花時季にも影響があり多分見頃のピークは過ぎていたような気がする。
 秋を代表する花と言えばコスモスくらいしか思い付かないほど相変わらずの花音痴の私だが、一眼レフを始めて最初に撮った花がコスモスだったと記憶している。時期的にNikonの一眼レフD700を手に入れたのが2019年9月2日で、そこからカメラ生活がスタート、昔の日記を見ると毎日のように何処かへ撮影に出掛けていた。花の撮影に向いているレンズは何か等とそんな事も知らず風景写真を撮りたくて20mmの超広角レンズを使って撮影のイロハを身に付けて行った。誰からも教えて貰う事なく独学だった。そんな時に出会ったのが運河を撮影するため出向いた『しながわ花街道』に咲いていた一輪の可憐なコスモス。その時その花がコスモスだとは知らなかったのだが…。普通に真上から撮っても詰まらないので敢えて下からローアングルで見上げる様に撮った。背景を暈す様な技術も知らず構図のみに専念していた。
 あれから4年の月日が流れたが、私の撮影技術は向上しているのだろうか?この4年間でカメラもレンズも大きく変わった。カメラを始める前は花などに全く興味もなく、道端に咲いている小さな花にさえ視線を合わせる事はなかった。だが、今は自分の身の回りにあるものたち全てが被写体と成り得るのである。自分の人生にひと味もふた味も違う味付けをしてくれたカメラに感謝している。
 ところで、コスモスを漢字で書くと秋桜と言うのは誰もが知っている事なのだが、コスモスをじっくり観察して見ると色は違えど何処となく桜に似ていると思うのは私だけだろうか?色々調べて分かった事はこの『秋桜』の名付け親があの『さだまさし』だと言うではないか。昭和52年に山口百恵が歌って大ヒットしてからこの漢字が定着したと言う。さだまさしは優れたミュージシャンでありそして詩人でもあるから頷ける。因みにさだまさしの歌で一番私が気に入っている曲は『檸檬』。―食べかけの檸檬聖橋から放る 快速電車の赤い色がそれとすれ違う―このフレーズが特に好きである。撮影にはタムロンの望遠レンズ70-300mmを使用した。

 

 

 

 

 

 世界を明るく照らす平和の象徴でもある自由の女神像。定説ではないが、そのモデルとなっているのはアラブの女性だと言う説…。当時、スエズ運河を航行する船舶の安全を守る灯台として建てられたのが起源だとか。アメリカの独立100周年を記念してフランスから寄贈された像だと言うのは誰もが知るところであり、灯台としての役目も担っていた。
 その右腕を天に向けて高く掲げその手に持つトーチで暗雲立ち籠める世界を照らし、自由の女神は愛と自由と平和のシンボルとして今なお健在ではあるが、その女神の視点から世界の情勢を見詰めてみよう。ウクライナ紛争は依然として解決とは程遠く、双方とも一歩も譲らず膠着状態が続いている。
 そして新たな火種が勃発した。連日ニュースが伝えているイスラエルとハマスの抗争である。長年に渡りパレスチナ問題を抱え中東の火薬庫と呼ばれる地域では、宗教や民族問題などが発火点となり過去にも幾度となく軍事衝突が勃発しており、それらが発端となって世界中に悪影響を及ぼし国際社会の分断を招いている。ガザ地区を実行支配しているイスラム過激派組織ハマスの後ろにはイスラエルが最も恐れるレバノンを拠点として活動している武装組織ヒズボラの存在がある。そしてまたそのヒズボラの後ろにはイラン・カタールなどのアラブ諸国が控えており、今後の成り行きによっては第四次中東戦争の二の舞いになる懸念が渦巻いている。
 人質を盾にしてゲリラ線を展開するハマスに対し、イスラエルはその圧倒的軍事力を持って地上戦に踏み切れば民間の犠牲者が更に増え続け、双方共に多大な被害を被るのは必死と思われる。この様な悲惨極まる情勢を見詰め女神は嘆き悲しみ血の涙を流しているのではないだろうか…。過去の歴史を紐解けば我が国日本も戦争に邁進した暗黒の時代があった。敗戦のどん底を体験しつつも持ち前の忍耐力でその苦難・国難を乗り越え、平和の尊さを最も実感している日本だからこそ何かしらの役割があるのではないかと思うのだが。これらの紛争が一刻も早く収束し、平穏な日常と子どもたちに笑顔が戻る事を願うばかりである。
※お台場の自由の女神像は季節によってライトアップの色が変わるが、冬の時期は暖色系だったと思う。お台場の夜景も実に美しいが、何処か哀愁を帯びた夕暮れ時の風景が気に入っている。

 

 

 

 

 

天から満遍なく降り注ぐ陽射しを浴びて

地上に紅い花が咲き誇る

貴女が旅立った彼岸花の咲く季節に

こうして私はその死に想いを馳せる

壮絶な苦しみ悲しみを抱えたまま

生きて行くのは限界だった

この花のように

悲しみが紅く染まる時

貴女の代わりに

微かな想い出と共に佇んでいる

 

 

 一ヶ月以上前の事ではあるが9月8日は母(雪子)の命日だった。28歳と言う若さで自らその人生に幕を下ろしてしまった母。私自身、母の顔もまともに覚えておらず母に関する情報も限られている為、その死の背景に何があったのか真実を解明出来ないままでいる。これは憶測の域を脱しないが、想像を絶する様な苦しみの中にあったと思われる。
 遺体の第一発見者は崔 桂順と言う方で母の叔母に当たる人らしい。この名前で察した方も多いと思うが、母の国籍は朝鮮(現在の韓国)。本籍は慶尚南道咸陽郡安義面錦川里、亡くなった場所は福島県常磐市大字上湯長谷字上ノ台。6帖ほどの部屋で丸い卓袱台に覆い被さる様に横たわっておりその傍らに小さな薬瓶が転がり白い錠剤が散乱していたそうだ。
 昭和10年、母の父(祖父)が朝鮮(現・韓国)から日本へ渡って来た。薬の行商を生業としており、日本各地を転々とし年数は定かではないが愛知県岡崎市辺りで山梨出身の祖母と出会い結婚。祖母にはその当時連れ子が一人いたが、祖父は自分の子どもとして育てた。額田と言う苗字は愛知県に額田郡と呼ばれる地域があり、それが大変気に入ったようで、自分も額田と名乗るに至った。そして長女の母が産まれ、雪の様な透き通る程の白い肌から『雪子』と命名した。祖父の流暢な日本語と書道家でも通用する様な達筆に子どもながらに驚いていたが、やはり酒癖が悪く酔うと祖母を相手に喧嘩が絶えなかったけれど、祖父の拳に箒を持って立ち向かう祖母の姿が目に焼き付いている。それを叔母たちが止めに入った光景は一生忘れる事はないだろう。
 母の訃報を父は服役中の府中刑務所内で知ったと言う。然し息子である私の耳に届いたのは死後1年が経過してからだった。祖母から「トシの母ちゃん病気で亡くなったんだよ」とポツリと小声で教えてくれた。幼い8歳の少年に「自殺」等とショッキングな言葉は出て来なかったのだろう。突然の訃報を知った父が、ひと目を避け喉を震わせ嗚咽しながら涙を流したのは言うまでもない。右腕に入れ墨を彫るほど母の事を愛していたのだから…。だが、母が藤枝の家を飛び出した原因は父にあった。父の実家が経営していたパチンコ屋に店員として母が勤めたのは18歳の時だった。色白の美貌の持ち主に父は一目惚れし、半ば強引に結婚を迫ったが、ハーフである母の身の上を知った父の両親や親戚縁者たちから猛反対を受け一時は諦らめかけたものの、自分の我儘を押し通し「内縁」として静岡市八番町で世帯を設けた。そして母は19歳で私を産んだ後、父の実家である藤枝市本町へ引っ越す事となったが、父を待っていたのは町の嫌われ者たちである(愚連隊)だった。そんな不良仲間たちとつるんでは悪事を働き、真っ当な職にも付かず酒を呑んで酔えば殴る蹴るの暴力を母に対して振るっており、家では喧嘩が絶える事がなかった。働かない父に代わり母は昼も夜も身を粉して働いた。昼間は日清紡の紡績工場で、夜は藤枝駅前近くのバーでホステスを…。美人だった母はかなり人気があった様であるが、それを知った父は当然気に食わない。帰りが遅い晩は嫉妬心で頭に血が上り、酒に酔った勢いも手伝い獣の様な唸り声を上げ、帰宅した母に拳を振るった。翌朝、「ノブさん、昨夜は酷かったねぇ、雪ちゃんあんまり可愛そうだよ…」と近所中の噂話の種となっていた。今で言うDVであるが、そんな生活に耐えられなくなったのだろう。私が3歳の時、仕事に行くと言って家を出たまま帰って来る事はなかった。私の幼い記憶にあるのは黒い服と大きなスーツケースを持って階段を下りて行く後ろ姿だけだった。藤枝市内にいれば父が追い掛けて連れ戻しに来ると思ったのだろう。福島にいる親戚を頼って単身、藤枝を離れたが、年に数回は実家の木町(現在の茶町)に帰って来ていたらしい。その時に祖母が「トシにひと目会ってやれば…」と話していたが「俊樹の顔を見たら決心が揺らいでしまうから」と言って、会うことはなかった。
 母の遺骨が何処の寺に眠っているかも分からないため、墓参りも未だ出来ずにいる。私自身も17歳のある時点までは「神戸」ではなく戸籍上は母方の「額田」姓であった。その為、当然だが本籍も母と同じ韓国だった。それに気付いたのは小学5年の時だったが、日本国籍でない事が原因で随分とイジメや差別に泣かされたものである。母と父をモチーフとした長編小説『届かなかった僕の歌』『傷だらけの挽歌』の2作品は現在推敲中で、完成までまだまだ時間が掛かりそうである。
※一部、小説『届かなかった僕の歌』より抜粋。
※写真の彼岸花(曼珠沙華)は小石川植物園で撮影。本当は群生している彼岸花を撮りたかったのだが、都内にはそんな場所が見当たらなかった。