プールサイドの人魚姫 -3ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

 

 

 今回の秋バラ撮影では、いつも行く鳩山会館や新宿御苑ではなく練馬区光が丘にある『四季の香ローズガーデン』まで足を運んだ。このバラ園には3年前、一眼レフデビューして一年目を迎えた頃に出掛けているのだが、薔薇を撮ったつもりがHDの中身を調べても一枚も見当たらなかった。多分、薔薇を撮るのが苦手で敬遠していた時期だったため、園内に咲き誇っている秋の花を眺めるだけに終わったのかも知れない。
 都営三田線の春日駅で都営大江戸線に乗り換え、都庁前で光が丘行きに再度乗り換える。自宅駅の西台から約1時間程度、光が丘駅から徒歩5分とアクセスも良く、しかも入園料は無料。閉園は17時だが、広すぎず狭すぎずと撮影には丁度良いスペースが嬉しい。薔薇以外にも色んな花々が咲いており、無料の割にはしっかりと手入れされているため、園内全ての花を撮ってしまいたくなるほどである。
 秋桜の時のようにしゃがんだり寝転んでみたりと、あらゆる角度からの撮影。地面は柔らかい芝生だったので、腰を下ろして低位置からの撮影もさほど苦ではなかった。撮影に夢中になっていたため時間の経過もすっかり忘れており、気付いたら空が黄昏色に染まっていた。園内には既に誰もおらず私一人が花の前に座って撮影していた。と、その時事務所の中から若い女性スタッフがやって来て「17時過ぎましたので閉園です…」と声を掛けられた。その優しい声で時間オーバーしている事に気付き、ペコペコと頭を下げながら何かを呟いたのだが何を言ったか記憶にない。園内を出た後、まだ諦らめ切れず夕暮れの中に佇む薔薇を撮っていた。夕暮れと言うよりほぼ夜に近い状態だった。
 一眼レフを始めた頃、こんなに花を撮るようになるとは思っていなかった。いつも風景をメインに撮っていたからレンズも広角ばかりだった。花を撮るのが愉しくなったのはタムロンSP90mmを使うようになってからだ。D810との相性も抜群だったし、優れたマクロレンズだった。そのタムロンで撮った芝公園の赤い薔薇の事は今も記憶の片隅に刻まれている。花の撮り方を伝授してくれたレンズと薔薇に感謝である。

 

 

 天王洲アイルはお台場と並んで人気の観光スポットである。私のお気に入りでもある為、年に数回は撮影に訪れている。運河に囲まれた水辺の風景を眺めながらお洒落な水上レストランで食事を楽しむカップルも多い。
 撮影した橋は『天王洲ふれあい橋』と言う名称で、歩行者専用の小さな橋であるが、夜になると綺羅びやかな光でライトアップされて、夜景撮影の人気スポットでもある。季節によってライトアップの光が変わる。最初に訪れた時は一眼レフを始める前でスマフォで撮影していた。春先だったと記憶しているが緑色に輝くお洒落な橋と言う印象を受けた。
 この地域は結構広く、全ての場所を(撮影しながら)回ろうとすると半日は掛かるだろう。『水辺とアートの街』と言われるだけあって、所々に大きな壁画を見る事も出来るし散策している内に新しい発見もあったりと、撮影意欲を掻き立ててくれるのが嬉しい。
 浜松町からモノレールで行けば天王洲アイル駅まで僅か10分程度で着くが、撮影が目的なのでJR品川駅から20分ほど歩きながら目的地へ行くのが私のコースである。モノレールに乗っていたら発見出来ない見どころもあるし、逆にモノレールの高い位置から運河を眺めるのも良いかと思う。
 私の『橋の始まり』は隅田川に架かる『新大橋』で、三脚を使った夜景撮影を教えてくれた思い出深い橋。それ以来、橋に取り憑かれた様に都内の橋(特に隅田川)を撮りまくって来た。被写体に対峙していると囁きの声が聞こえて来るのである。「私をこの様に撮って下さい…」と。まるでそれは神のお告げの様に心に響いて来るのである。ファインダー越しに被写体と阿吽の呼吸でシャッターを切る。それは花でも人物でも同じ事。全ての万物には生命が宿っているから、それらと一体になった時シャッターチャンスが訪れるのである。

 

 

 昨年はコスモスの咲く時季に入院・心臓手術と大変な時期を過ごしていたため、撮影どころではなかった。退院後、何としてもコスモスを撮りたくて無茶を承知で浜離宮恩賜庭園へ行ったものの時季既に遅くまともな撮影は出来なかった。その時のリベンジと言う訳ではないが、今回かなり気合を入れて撮った積りである。都内にあるコスモス畑は浜離宮恩賜庭園くらいしか思いつかず一応行ってみたがキバナコスモスが乱雑に咲いているだけで、撮影意欲は失せてしまい、殆ど何も撮らず帰宅。やはり広大なコスモス畑と言えば立川の昭和記念公園だろうと思ったが、兎に角広すぎる公園はコスモス畑がある『みんなの原っぱ』まで立川ゲートからだと徒歩30分は優にかかってしまう。歩き疲れて撮影に没頭出来なければ、元も子もないので、今回は青梅線の西立川駅まで行く事とした。然し、西立川ゲートからでも目的地まで徒歩20分もかかり、今更ではあるが改めて公園の広さを思い知らされる結果となった。撮影日は10月7日なのであるが、今年は異常な暑さが長く続いていた事で、花たちの開花時季にも影響があり多分見頃のピークは過ぎていたような気がする。
 秋を代表する花と言えばコスモスくらいしか思い付かないほど相変わらずの花音痴の私だが、一眼レフを始めて最初に撮った花がコスモスだったと記憶している。時期的にNikonの一眼レフD700を手に入れたのが2019年9月2日で、そこからカメラ生活がスタート、昔の日記を見ると毎日のように何処かへ撮影に出掛けていた。花の撮影に向いているレンズは何か等とそんな事も知らず風景写真を撮りたくて20mmの超広角レンズを使って撮影のイロハを身に付けて行った。誰からも教えて貰う事なく独学だった。そんな時に出会ったのが運河を撮影するため出向いた『しながわ花街道』に咲いていた一輪の可憐なコスモス。その時その花がコスモスだとは知らなかったのだが…。普通に真上から撮っても詰まらないので敢えて下からローアングルで見上げる様に撮った。背景を暈す様な技術も知らず構図のみに専念していた。
 あれから4年の月日が流れたが、私の撮影技術は向上しているのだろうか?この4年間でカメラもレンズも大きく変わった。カメラを始める前は花などに全く興味もなく、道端に咲いている小さな花にさえ視線を合わせる事はなかった。だが、今は自分の身の回りにあるものたち全てが被写体と成り得るのである。自分の人生にひと味もふた味も違う味付けをしてくれたカメラに感謝している。
 ところで、コスモスを漢字で書くと秋桜と言うのは誰もが知っている事なのだが、コスモスをじっくり観察して見ると色は違えど何処となく桜に似ていると思うのは私だけだろうか?色々調べて分かった事はこの『秋桜』の名付け親があの『さだまさし』だと言うではないか。昭和52年に山口百恵が歌って大ヒットしてからこの漢字が定着したと言う。さだまさしは優れたミュージシャンでありそして詩人でもあるから頷ける。因みにさだまさしの歌で一番私が気に入っている曲は『檸檬』。―食べかけの檸檬聖橋から放る 快速電車の赤い色がそれとすれ違う―このフレーズが特に好きである。撮影にはタムロンの望遠レンズ70-300mmを使用した。

 

 

 

 

 

 世界を明るく照らす平和の象徴でもある自由の女神像。定説ではないが、そのモデルとなっているのはアラブの女性だと言う説…。当時、スエズ運河を航行する船舶の安全を守る灯台として建てられたのが起源だとか。アメリカの独立100周年を記念してフランスから寄贈された像だと言うのは誰もが知るところであり、灯台としての役目も担っていた。
 その右腕を天に向けて高く掲げその手に持つトーチで暗雲立ち籠める世界を照らし、自由の女神は愛と自由と平和のシンボルとして今なお健在ではあるが、その女神の視点から世界の情勢を見詰めてみよう。ウクライナ紛争は依然として解決とは程遠く、双方とも一歩も譲らず膠着状態が続いている。
 そして新たな火種が勃発した。連日ニュースが伝えているイスラエルとハマスの抗争である。長年に渡りパレスチナ問題を抱え中東の火薬庫と呼ばれる地域では、宗教や民族問題などが発火点となり過去にも幾度となく軍事衝突が勃発しており、それらが発端となって世界中に悪影響を及ぼし国際社会の分断を招いている。ガザ地区を実行支配しているイスラム過激派組織ハマスの後ろにはイスラエルが最も恐れるレバノンを拠点として活動している武装組織ヒズボラの存在がある。そしてまたそのヒズボラの後ろにはイラン・カタールなどのアラブ諸国が控えており、今後の成り行きによっては第四次中東戦争の二の舞いになる懸念が渦巻いている。
 人質を盾にしてゲリラ線を展開するハマスに対し、イスラエルはその圧倒的軍事力を持って地上戦に踏み切れば民間の犠牲者が更に増え続け、双方共に多大な被害を被るのは必死と思われる。この様な悲惨極まる情勢を見詰め女神は嘆き悲しみ血の涙を流しているのではないだろうか…。過去の歴史を紐解けば我が国日本も戦争に邁進した暗黒の時代があった。敗戦のどん底を体験しつつも持ち前の忍耐力でその苦難・国難を乗り越え、平和の尊さを最も実感している日本だからこそ何かしらの役割があるのではないかと思うのだが。これらの紛争が一刻も早く収束し、平穏な日常と子どもたちに笑顔が戻る事を願うばかりである。
※お台場の自由の女神像は季節によってライトアップの色が変わるが、冬の時期は暖色系だったと思う。お台場の夜景も実に美しいが、何処か哀愁を帯びた夕暮れ時の風景が気に入っている。

 

 

 

 

 

天から満遍なく降り注ぐ陽射しを浴びて

地上に紅い花が咲き誇る

貴女が旅立った彼岸花の咲く季節に

こうして私はその死に想いを馳せる

壮絶な苦しみ悲しみを抱えたまま

生きて行くのは限界だった

この花のように

悲しみが紅く染まる時

貴女の代わりに

微かな想い出と共に佇んでいる

 

 

 一ヶ月以上前の事ではあるが9月8日は母(雪子)の命日だった。28歳と言う若さで自らその人生に幕を下ろしてしまった母。私自身、母の顔もまともに覚えておらず母に関する情報も限られている為、その死の背景に何があったのか真実を解明出来ないままでいる。これは憶測の域を脱しないが、想像を絶する様な苦しみの中にあったと思われる。
 遺体の第一発見者は崔 桂順と言う方で母の叔母に当たる人らしい。この名前で察した方も多いと思うが、母の国籍は朝鮮(現在の韓国)。本籍は慶尚南道咸陽郡安義面錦川里、亡くなった場所は福島県常磐市大字上湯長谷字上ノ台。6帖ほどの部屋で丸い卓袱台に覆い被さる様に横たわっておりその傍らに小さな薬瓶が転がり白い錠剤が散乱していたそうだ。
 昭和10年、母の父(祖父)が朝鮮(現・韓国)から日本へ渡って来た。薬の行商を生業としており、日本各地を転々とし年数は定かではないが愛知県岡崎市辺りで山梨出身の祖母と出会い結婚。祖母にはその当時連れ子が一人いたが、祖父は自分の子どもとして育てた。額田と言う苗字は愛知県に額田郡と呼ばれる地域があり、それが大変気に入ったようで、自分も額田と名乗るに至った。そして長女の母が産まれ、雪の様な透き通る程の白い肌から『雪子』と命名した。祖父の流暢な日本語と書道家でも通用する様な達筆に子どもながらに驚いていたが、やはり酒癖が悪く酔うと祖母を相手に喧嘩が絶えなかったけれど、祖父の拳に箒を持って立ち向かう祖母の姿が目に焼き付いている。それを叔母たちが止めに入った光景は一生忘れる事はないだろう。
 母の訃報を父は服役中の府中刑務所内で知ったと言う。然し息子である私の耳に届いたのは死後1年が経過してからだった。祖母から「トシの母ちゃん病気で亡くなったんだよ」とポツリと小声で教えてくれた。幼い8歳の少年に「自殺」等とショッキングな言葉は出て来なかったのだろう。突然の訃報を知った父が、ひと目を避け喉を震わせ嗚咽しながら涙を流したのは言うまでもない。右腕に入れ墨を彫るほど母の事を愛していたのだから…。だが、母が藤枝の家を飛び出した原因は父にあった。父の実家が経営していたパチンコ屋に店員として母が勤めたのは18歳の時だった。色白の美貌の持ち主に父は一目惚れし、半ば強引に結婚を迫ったが、ハーフである母の身の上を知った父の両親や親戚縁者たちから猛反対を受け一時は諦らめかけたものの、自分の我儘を押し通し「内縁」として静岡市八番町で世帯を設けた。そして母は19歳で私を産んだ後、父の実家である藤枝市本町へ引っ越す事となったが、父を待っていたのは町の嫌われ者たちである(愚連隊)だった。そんな不良仲間たちとつるんでは悪事を働き、真っ当な職にも付かず酒を呑んで酔えば殴る蹴るの暴力を母に対して振るっており、家では喧嘩が絶える事がなかった。働かない父に代わり母は昼も夜も身を粉して働いた。昼間は日清紡の紡績工場で、夜は藤枝駅前近くのバーでホステスを…。美人だった母はかなり人気があった様であるが、それを知った父は当然気に食わない。帰りが遅い晩は嫉妬心で頭に血が上り、酒に酔った勢いも手伝い獣の様な唸り声を上げ、帰宅した母に拳を振るった。翌朝、「ノブさん、昨夜は酷かったねぇ、雪ちゃんあんまり可愛そうだよ…」と近所中の噂話の種となっていた。今で言うDVであるが、そんな生活に耐えられなくなったのだろう。私が3歳の時、仕事に行くと言って家を出たまま帰って来る事はなかった。私の幼い記憶にあるのは黒い服と大きなスーツケースを持って階段を下りて行く後ろ姿だけだった。藤枝市内にいれば父が追い掛けて連れ戻しに来ると思ったのだろう。福島にいる親戚を頼って単身、藤枝を離れたが、年に数回は実家の木町(現在の茶町)に帰って来ていたらしい。その時に祖母が「トシにひと目会ってやれば…」と話していたが「俊樹の顔を見たら決心が揺らいでしまうから」と言って、会うことはなかった。
 母の遺骨が何処の寺に眠っているかも分からないため、墓参りも未だ出来ずにいる。私自身も17歳のある時点までは「神戸」ではなく戸籍上は母方の「額田」姓であった。その為、当然だが本籍も母と同じ韓国だった。それに気付いたのは小学5年の時だったが、日本国籍でない事が原因で随分とイジメや差別に泣かされたものである。母と父をモチーフとした長編小説『届かなかった僕の歌』『傷だらけの挽歌』の2作品は現在推敲中で、完成までまだまだ時間が掛かりそうである。
※一部、小説『届かなかった僕の歌』より抜粋。
※写真の彼岸花(曼珠沙華)は小石川植物園で撮影。本当は群生している彼岸花を撮りたかったのだが、都内にはそんな場所が見当たらなかった。

 

 

 池井戸潤の小説が原作となっているドラマ『ハヤブサ消防団』を毎週見ていて気付いたのが第7話のロケ地として登場する『お台場』や『豊洲ぐるり公園』。この辺りは私にとっても撮影スポットとしてお気に入りの場所で、過去に何度も訪れている。昨年は日曜劇場で綾野剛が主演の『オールドルーキー』のメインロケ地として当ブログで紹介している。あの時は30分ほど降り続いたゲリラ豪雨の後で、雨上がりの幻想的な夜景にテンションもマックスに達していたのを覚えている。
 ドラマ自体は長閑な山間部の集落がメイン舞台となっているが、放火と思われる火災が連続して起こり、『アビゲイル教団』と称するカルト教団が登場し俄にサスペンス色の濃い物語りとして展開して行く。教団が登場した時点で私は1995年に起こった『オウム真理教』による『地下鉄サリン事件』を想起してしまった。
 あの日、私は出勤のため八丁堀にある勤務先へ日比谷線を利用して通勤途中だった。もし、30分早い電車に乗っていたら悲惨な事件に巻き込まれていたかも知れない。28年も前の事ではあるが、未だに多くの方々がサリンの後遺症などで苦しんでおられると思うと胸が痛む。
 ところで、もうお気付きかと思うが、投稿した4枚の写真、微妙に色合いが違っているのが分かるだろうか?上の1枚目と2枚目(豊洲大橋)はNikonの一眼レフD810で撮影したもので、下の2枚はNikonのミラーレス一眼Z7Ⅱ(現行機種)で撮ったもの。カメラ本体が違うので当然ながらレンズも違っている。撮影時期や天候、時間によっても大きく変わって来るのが写真の魅力でもある。これまで色んな橋を撮影して来たが、緑色にライトアップされた橋はこの豊洲大橋と隅田川に架かる佃大橋だろうか。佃大橋に関しては未だ未公開なので何れ機会を作って紹介したいと思っている。
 ドラマの最終話のラストシーンに『ちゃんみな』がまさかの登場でびっくり!彼女自身が歌うドラマの主題歌『命日』もお気に入りで、スマフォでよく聴いている。他には菅田将暉の『さよならエレジー』、あいみょんの『空の青さを知る人よ』、米津玄師の『感電』等など。20代の後半に上京して知り合った友人とバンドを組んでいた時期があり、音楽は昔の曲から最新の曲まで幅広く聴いております。

 

 

 

 鳩山会館のバラ園は中庭にあるため、撮影や鑑賞する場合は洋館の入口に設置してある券売機で入場券を購入し、それを受付の女性に渡し部屋の中を通って中庭に出る。因みに入館料は大人600円、障がい者400円となっており団体割引きもあるようだ。庭園自体はさほど広くはないが程よく手入れされた薔薇が綺羅びやかなドレスを纏って咲き誇っている。1時間もあれば全ての薔薇を鑑賞出来るが、それだけで帰路に着くのは勿体ない。
 洋館内は2階まで見学が可能で、鳩山ファミリーに興味があるのであれば東京に来た際は是非とも立ち寄って欲しい観光名所でもある。建物はヨーロッパの古い城をイメージした作りとなっており、バラ以外にも見どころは数多くある。令和から大正へタイムスリップしたかの様な雰囲気が館内一面に広がっており、ステンドグラスや美しい装飾が施された調度品に魅了される事だろう。
 そんな中で私が最も興味を抱いたのはやはりバラなどの花たちの存在。テーブルの至る所に飾られている花々を私は全て本物だとばかり思っていた。然し、庭園に咲いているバラなどと比べると余りに整い過ぎているよう気がした。撮影する前に目を凝らしてグッと近づいて見ると、本物の花にはない生地の様な縫い目を発見!「あ、これ造花なんだ!?」と心の中で驚きの声を上げてしまった。遠目には全く気付かなかったが、新たな発見と思わぬ被写体との出会いに飛び上がるほど嬉しくなりレンズを思い切り近付けてシャッターを切り捲った。所謂「アートフラワー」と言うものであるが、作り方は知らないけれど私のような手先の不器用な者には無理だろうなぁと、作った人の職人技に拍手を贈った。館内の花が全て造花と言う訳ではなく中には勿論、本物もあった。ただ、本物か造花なのか見分けるのが結構難しく、答えが出なかった花もあった。投稿したこれらの花は全て造花だと思うが、皆さんはどう思いますか?
※退院から一ヶ月が経ち13日はペースメーカー外来であった。ペースメーカーの動作チェックは驚くほど簡単でほんの数十秒、あっと言う間に終了。診察も私の場合は僅か5分も掛からなかったが、その割に待ち時間が2時間と長く疲れてしまった。3ヶ月に1度のチェックなので次回は12月。再入院なんて事の無いよう細心の注意を払って撮影ライフを愉しみたいと思っている。

 7F循環器病棟の病室から眺めた東京の風景(スマフォ撮影)。

 

 

残暑お見舞い申し上げます。
「心停止」の記事では皆様から沢山のお見舞いコメントを頂きありがとうございました。本人も皆様の有り難い励ましの言葉に勇気を貰い、今後も前向きの姿勢を貫き通す覚悟が出来たようです。これからも当ブログを宜しくお願い致します。
 体外式ペースメーカー装着が成功し、徐脈の危機を脱したこの日、4年ぶりの隅田川花火大会が行われた。同室の患者さんも花火が気になるらしく、何処か見える場所はないかと、看護師に訊いていた。心優しい看護師さんはその思いを叶えようと、病棟のあちこちを調べて回っていたが、結局7階から見える場所は残念ながらなかったようである。私は最上階の19階なら見えるだろう事は知っていたが、そこは一般庶民が入る事の出来ないVIP専用の病室。特別室は一日8万8千円の費用が掛かる。よほど経済的に余裕がなければ入る事は出来ないようだ。
 私はYou Tubeの隅田川Live映像で花火の様子を愉しんだ。入院さえなかったら、今年こそ花火をカメラに収めたいと春頃からずっとその想いを温めていたが、結局それは叶わぬ想いで終わった。花火を撮りたくて始めた一眼レフだったが、3年が過ぎた今でもそれは達成出来ていない。この悔しい想いを来年の夏にぶつけて発散したいと思っている。
 ところで、前回の記事では触れていないが、徐脈が始まったのは入院前の7月22日からである。前日に撮影した写真を整理しようと午前中、パソコンの前に座り作業を始めようとした時、突然めまいが起こり頭がクラクラして、ほんの一瞬だったが気を失ったようだ。その時に机の角に頭をぶつけた事は覚えている。その後も断続的に酒を飲んで酔っ払ったようなフラフラする感覚になり、よろけそうになったりとかなり不安定な状態だった。ネットで症状を検索してみると「のぼせ」「自律神経失調症」「更年期障害」等の言葉しかヒットせず、徐脈だとは全く気付かないでいた。その日もふらつく状態のまま、撮影に出掛けており、気が遠のく感覚の中でファインダーを覗きシャッターを切っていた。今思うと相当危ない状況だった事は察しがつく。結局、入院するまでの4日間は数秒の心停止を起こしつつも、失神もせず辛うじてやり過ごせたのは奇跡的でもある。
 さて、過去を振り返り自分の入院履歴を見るとその殆どが「心不全」そして脈が100を超える頻脈である。だからそれを改善するための薬であるβブロッカー(メインテート)や強心剤のジゴキシンを使って来た。然し今回の徐脈の原因はこの2種類の副作用によるものである事が分かった。その為、入院と同時にこの2つの薬の服用を一旦中止した。心臓を守る為の薬が諸刃の剣となってしまったのである。
 ペースメーカー植込みが成功し、次の日からメインテートを再開、いきなり元の量に戻すのは危険なため、最低量から開始、暫く止めていたワーファリンもすこしづつ増やして行き、採血の結果を見ながら調整して行った。ジゴキシンのみ中止としたが、退院から2週間以上経っても心不全の兆候は見られない事から強心剤は無用となるであろう。薬が少しでも減ってくれるのは腎臓への負担も軽くなる事から大いに歓迎すべき点である。

 

 

 

 

 

 

体外式ペースメーカーを装着し、死の影から解放され安堵の表情を浮かべている私。

 

 

 昨年10月の心臓手術から一年も経たない内に再び手術室へ入る事になるとは…。7月26日、徐脈性心房細動(不整脈)で三井記念病院へ緊急入院。前回と同じ16階の4人部屋に入るも、脈が一時的に18まで下がるなどし、看護師たちが「怖い、怖い」を連発!その為、直ぐに駆け付けられるナースステーションの前にある個室へ移動。それにしても18とは徐脈のレベルを越えて心臓が止まってしまった状態に近い。だがこの時は意識を失う事なく保つ事が出来ていたのだが…。
 それは27日の早朝だった。採血の最中に看護師と冗談交じりの会話を交わしている時だった。「神戸さん、神戸さん、しっかり!」看護師の大きな叫びにも似た声が病室に響いていた。約15秒間に亘り心停止。私は失神した。三途の川一歩手前で呼び戻され意識を回復。戻った瞬間の事はハッキリと覚えている。自分に何が起こったのか、此処が何処かなのか?頭の中はグチャグチャでパニック状態だった。死の恐怖に怯え顔は蒼白、冷静な自分を取り戻すのに30分は掛かったと思う。
 この失神の後も断続的に脈が30を切り気が遠のく感覚に襲われた。危篤ではないにしても予断を許さない状況にあるため、体外式ペースメーカーの装着が急務となり、朝、早い段階から首の静脈からペーシングカテーテルを挿入するもワーファリンの影響で出血が止まらず、血腫も出来てしまったため1回目は失敗。そのまま16階には戻らず、常時監視体制の整っているHCUへ移動。失敗で途方に暮れる医師たちにお構いなく、4~7秒の心停止が30~15分間隔で襲って来る。脈が下がり始める度にモニターの警告音が鳴り響き、看護師たちが数人駆け寄り「大丈夫?」と声を掛ける。私は言葉が出せず「うん、うん」と頷くのが精一杯だった。心停止する時は背中から首、後頭部の辺りに火傷のような激しい熱さが「ゾゾー!」と走り抜けて行く。そして目眩を起こし気が遠くなるのだ。
 今度また10秒以上の心停止がおこれば失神は免れない。最悪は戻る事が出来ず死に至る事である。一刻の猶予もないため、夕刻、再度、体外式を決行する事となった。昨年の心不全でお世話になった医師が担当るす事になり、1回目と同じ首の静脈からアプローチ。2回めはすんなり成功し、迎えに来たHCUの看護師が泣きそな声で「よかった、よかった!」と声を掛け励ましてくれた。その晩、初めて安心し熟睡する事が出来た。
 体外式は感染リスクもあるため、出来るだけ早い段階で植込み手術を行う必要がある。入院から6日後、昨年オペした時のリード線が腹部に残っているため、それが使える可能性があり、心臓外科、循環器内科の合同オペチームで結成された。これは後にも先にも前代未聞の出来事である。7月31日、合同チームが待機するオペ室へ。全身麻酔で行う事になったのだが…。
 結果は無惨にも失敗に終わった。心外が担当した腹部はリード線が筋肉に埋もれて使用不可、そして循内チームの方も右鎖骨下の血管が脆すぎて挿入出来ず断念。麻酔から覚め結果を聞いた私はかなりショックではあったが、それよりも辛かったのは、麻酔と痛み止めの副作用が酷く激しい吐き気と身体中がガタガタと痙攣を起こし凍てつくような寒気に襲われ、このまま死んでしまうのではと思うほどだった。病棟へ戻ってから外は猛暑だと言うのに、電気毛布2枚で身体を包み温めた。手術は失敗、それに加えて身体が引き裂かれるような苦しみ。昨年の手術の時の方がよっぽど楽だったように思った。夜になって循環器内科の責任者がスタッフと一緒にやって来て、辛い思いをさせてしまった事への謝罪をと頭を下げた。
 翌日の8月1日、再び植込み手術を開始。2度めは局所麻酔で行われたため、医師たちのやり取りは全て耳に届いていた。右鎖骨下へ再度アプローチするもやはり血管が使えず断念し、左鎖骨下への植込手術に切り替え、約1時間30分ほどで、無事終了した。今回の手術なんだか随分遠回りになった気がする。メスを入れる前に検査で分からないのだろうか?首、腹部、左右の鎖骨下と私の身体は傷だらけとなった。ベッドから起き上がるのに傷のあちこちが痛くて参った。
 心不全を起こしていない私は徐脈が治まればいたって元気であったが、ヘモグロビン値が正常な人の半分しかない事が分かり、貧血を改善するため輸血が行われた。その輸血のお陰か分からぬが胸の動悸が治まり少し元気になった気がした。血液は臓器の一部だから輸血はある意味臓器移植の部類に入る。
 貧血を起こした要因は判明しなかったが、腎不全や肝硬変を抱えているため、それらが今回の失神とオペによってダメージを受け、複合的に重なり発症したのかも知れない。今後、どのような試練が私の未来に待ち構えているか分からぬが、明確な目的がある以上、このまま人生を終わらせる積りは毛頭ない。どんな試練であろうとこれまでのように乗り越えてみせるつもりだ。それにしても失神した場所が病院のベッドで本当に良かったと思う。やっぱり私には幸運の女神が付いているような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 隅田川公園で紫陽花を撮影した日、公園から両国橋方面へ30分ほど歩くと隅田川テラス沿いに小さな花壇がある。その場所にも紫陽花が咲いている事を以前から知っており、一眼レフを始める前、スマフォで初めて紫陽花を撮影した記念すべき思い出深い場所。
 今回もおそらく咲いているだろうとその場所に思いを馳せ、少し祈るような気持ちで両国橋を目指した。この辺りには以前紹介した流線型の美しい両国ジャンクションがあり、絶好の夜景撮影スポットでもある。花を撮るならやはりマクロレンズが好ましいと思うが、私自身は余りマクロ撮影は得意ではない。MC105mmは中望遠なので、被写体にぐっと寄らずに、少し距離を置いて撮るようにしている。
 この日はもう1本単焦点40mmを用意しておいたので、使い分けながら撮影に臨んだ。想像通り、花壇の壁側に沿って青いガクアジサイが密生していた。花壇の中に足を踏み入れても大丈夫なように石を並べた細い道が出来ており、他の花を踏み付けないよう最新の注意を払い、シャッターを切った。
 川沿いの街灯が点灯し始め、黄昏の時を迎えていた。それらのライトが昼とも夜とも言えぬ、妖しい時間をプレゼントしてくれたように思う。それらがアジサイの一つひとつをより一層際立ててくれ、美しい背景ボケとなりファインダーを覗き込んでは、自己満足の世界にどっぷりと浸っていた。
 今年は紫陽花だけで、3回場所を変えて撮影に行った。先ず最初は江戸川河川敷の小岩菖蒲園、ところが全くの空振りに終わりあじさいの「あ」くらいしか撮れず、肩を落として帰宅。やはり慣れている場所の方が撮れる確率は高いだろうと次は隅田川公園へ。そしてそれでも物足りず、次は白山神社へ。然しこちらも期待外れで終わった。白山神社そのものは800年以上の歴史があり、あじさい祭りも有名で時季には多くの観光客で賑わっているし、文句の付けようがないのだが、やはり時季が遅すぎた感があり、隅田川の時の様なワクワクする感覚を持てず、亀戸天神の藤の花と同じ思いになってしまい残念だった。
 今年に入り、心臓の調子も良くなるに連れて撮影に出掛ける機会も格段に増えた。が、然し残念な結果で終わる事も増えた。こればかり仕方ない事と割り切って、納得の写真が撮れるまで何度でも同じ場所に出掛けている。