カダフィ大佐の始末書。 | プールサイドの人魚姫

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うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


プールサイドの人魚姫-カダフィ

 「武力によって得た権力は武力によって奪われる」これはいつの時代も何処の国にも言える事であり、リビアに限った事ではないが、独裁者の末路はいつの世も同じ運命を辿るものである。

 中東の暴君「カダフィ大佐」(ムアマル・アル・カダフィ)は、何故大佐と呼ばれてきたのだろうか。彼は1942年9月、リビアの遊牧民カダファ族の1人として生まれた。

 アラブ民族主義に傾倒し、1952年のエジプト革命後に大統領となった「ナセル陸軍大佐」の思想に共感、1969年9月リビアに於いて無血クーデターにより、リビア国内を掌握し以後、リビアの最高指導者として42年と言う長きに亘り君臨する事となる。

 肩書については、自分の尊敬する人物である「ナセル大佐」に憧れ、1979年から自らをカダフィ大佐と名乗り始めたようで、それ以前は陸軍大尉であった。

 カダフィ政権崩壊のシナリオは、チェニジアそしてエジプトの革命(2011)から始まった。30年近くに亘る独裁政権を維持して来たムバラク大統領に対する反発の波が押し寄せ、ツイッターやフェイスブックといった、近代のネットワーク技術を駆使した若者たちによる新たなムーブメントが、歴史を大きく塗り替える事となる。

 後に「アラブの春」と呼ばれるその民主化の波は留まる事を知らず、中東・北アフリカ全土に飛び火し、リビアもまたその渦の中に飲み込まれて行った。

 リビア北東部の反体制デモを切っ掛けに、約8ヵ月リビアは事実上の内戦状態となる。カダフィ支持派による民間人への武力弾圧が激化する中で、国連によるリビアへの非難声明はNATOやEUのカダフィ政権即時退陣に発展。第二のイラク戦争という最悪のシナリオを描き始める事となり、その結果、NATO軍の軍事介入へ移行、人道的立場という名目でリビアへの空爆が始まった。

 NATO軍の援護を受けた反カダフィ派と徹底抗戦を呼び掛けるカダフィ大佐の下、その支持派との激戦が連日連夜続く事となり、一進一退の攻防が両者の間で繰り広げられた。

 カダフィ大佐の重要拠点であったリビアの首都、トリポリの陥落はカダフィ政権崩壊を事実上決定付ける事となったが、それでも執拗に徹底抗戦の構えを崩さないカダフィ派は日に日に追い詰められて行き、やがてカダフィ大佐自身の国外逃亡説まで浮上し始め、リビア全土をほぼ掌握した反カダフィ派の勝利宣言が銃声とともに街の至る所で鳴り響いていた。

 それは、カダフィ大佐の姿を見ぬままにリビア内戦が終わりを告げると思われていた矢先の事だった。その日トップニュースで流れた「カダフィ大佐死亡」の一報により、リビアを暫定統治する国民評議会(NTC)はリビア全土解放を宣言。

 カダフィ大佐は自分の出身地であるシルトで、下水管の中に隠れていた所を反カダフィ派によって発見、拘束されたがその後に死亡。死因は銃撃戦による頭部に受けた銃弾とされているが、その真実はいまだ明らかにされておらず、民兵による「処刑」だったのではないかとの見方も強まっている。

 戦場における兵士たちの感情、特に抑圧され続けて来た人間から見れば、最も憎しみの強い対象と出会った時、殺害してしまいたいという感情に自分が支配されてしまう事は理解出来ない訳ではないが、統率力に欠ける民兵一人(或いは複数)の判断だけで殺害に及ぶという行為そのものは、カダフィ大佐のやってきた事とそう大差ないのである。

 オサマ・ビン・ラディンが米軍の手によって殺害された時と同じで、この結末を望んだ者はそう多くはないだろう。然るべき場所で法的処置を経てその後に死刑となるのであれば、筋の通る話であるが、民主主義という土台を持たない国の愚かさが垣間見えた気がしてならないとともに、実に後味の悪い結果であった。

 カダフィ無き後のリビアには内戦の傷跡が至る所に残り、リビア民主化の行方は全くの未知数である。旧政権の離反組、都市住民、部族勢力、イスラム勢力といった、寄り合い民族の国作りが如何に前途多難であるかは想像がつく。

 内戦により兵器を手にした各部族などによる新たな権力争いも起こるだろうし、石油を巡る資源争奪戦も懸念される。

 リビアが第二のイラクやアフガンにならぬよう、国際社会が一致協力して支援の手を差し伸べなければ、民主化の道は遥か彼方に遠のくだけである。