ほっと石川観光ボランティアガイド小松研修会①「那谷寺」「木場潟」 | 市民が見つける金沢再発見

ほっと石川観光ボランティアガイド小松研修会①「那谷寺」「木場潟」

【小松・那谷寺】
平成14年(2002)に発足した「ほっと石川観光ボランティアガイド連絡協議会」は、県内24の観光ボランティアガイド団体が加盟しています。各団体は、お互いの自主性を尊重しながら連携し情報交換やガイド能力の向上のため各地持ち回りで合同研修会を実施しています。

 

(山門)

 

年3回開催される研修会は、今回、9月24日小松で開催。4年前の小松研修会は、雨の中小松市内の芭蕉の足取りと社寺を巡りましたが、今回は約110名の参加で、那谷寺と昨年5月17日に天皇皇后陛下をお迎えして開催された第66回全国植樹祭が行なわれた木場潟公園です。

 

まずは那谷寺、白山を霊山として開いた泰澄法師が養老元年(717)に創建した古刹です。

 

那谷寺の歴史
奈良時代の初め、その白き山に登り、白山の神が十一面観音と同じ神であることを感得したのが「越の大徳(たいとこ)」とよばれ、多くの人々の崇敬を集めた名僧・泰澄法師です。

 

金堂華王殿)

 

法師はさらに養老元年(717)霊夢に現れた千手観音の姿を彫って岩窟内に安置しました。法師は「自生山 岩屋寺」と名付け、寺は法師を慕う人々や白山修験者たちによって栄えます。

 

(普門閣)

 

平安時代中期の寛和2年(986)花山法皇が行幸された折、岩窟内で光り輝く観音三十三身の姿を感じられ、法皇は「私が求めている観音霊場三十三カ所はすべてこの山にある」と言われ、西国三十三カ所の第1番・那智山の「那」と、第33番・谷汲山の「谷」をとって自ら「那谷寺」と改め、中興の祖となられました。

 

(岩窟内の本殿は胎内くぐり・写真は女体か・・・)

 

花山法皇とは冷泉天皇の第一皇子で65代天皇。17歳で即位されましたが、最愛の女御の逝去を悲しむのあまり、藤原兼家の謀略にかかって在位2年で退位、出家し各地を巡礼されたお方です。

 

中世に入って南北朝時代には、足利尊氏側の軍勢が寺を摂取して城塞とし、新田義貞側がこれを陥れ、一山堂宇ことごとく灰燼に帰するという悲劇が起こります。

 

(黄門杉)

 

また、一向一揆中に改宗して一向宗に近づく僧や信者が続出、次第に勢力を弱めます。中世は那谷寺にとっていわば苦難の時代でしたが、一部の修験者たちは命懸けで寺を護持、観音信仰と白山修験を捨てませんでした。

 

(神仏混淆のなごりか・・・)


江戸時代になって大きな転機が訪れます。境内の荒廃を嘆いた第3代加賀藩主前田利常公が寛永17年(1640)後水尾院の命を受け、名工・山上善右衛門らに岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院などを造らせます。

 

(三重塔・山上善右衛門か・・・)

 

書院は最も早く完成し、利常公自らがここに住まわれ、山上善右衛門らを指揮したといわれています。書院から見える庭園は、茶道遠州流の祖である茶人大名小堀遠州の指導を受け、加賀藩の作庭奉行・分部卜斉に造らせました。これらは現在、国指定重要文化財および国指定名勝となっています。


 

江戸時代の大きな出来事として俳聖・松尾芭蕉の来訪を挙げることができます。「奥の細道」道中の元禄2年(1689)7月、門人曾良とともに山中温泉を訪ねた芭蕉は8月5日、曾良と別れ、金沢の門人・北枝とともに那谷寺を訪れます。

 


当時は今と違い、紅葉よりも枝ぶりのよい古松を植えた景勝の地として知られていました。「石山の 石よりしろし 秋の風」この句の「石山」について、古くは近江の石山寺だという解釈もありましたが、現在では少数派です。目前には風雨にさらされた石山が広がり、そこを通る風はさらに白く、すがすがしい…と、素直に解釈したほうが風趣があります。


明治維新後の廃仏毀釈の影響を受け、一時困窮しましたが、昭和初期に再建計画が進められました。さらに昭和16年(1941)、利常公ゆかりの建造物すべてが国宝(現・重文)に指定されてからは加速度的に復旧がなされ、平成2年(1990)には金堂華王殿も再建されます。

 


那谷寺は現在、高野山真言宗別格本山として真言密教のさまざまな加持祈祷を行っています。その一方では今も、古代人の素朴な生命観、宗教観が息づいています。岩窟本殿での「胎内くぐり」はその一つで、人の魂はあの世からこの世へ循環し続けていると考え、洞窟は母の胎内を表わし、生きているときの諸々の罪を流して、生まれ変わりの祈りをささげる場所であるとし、生命活動からくる罪や穢れを洞窟をくぐり抜けることで拭う必要を感じたのでしょうか?

 

 

また、那谷寺の森は生きとし生けるすべてのものの棲み家として、白山や本尊を通して大自然、宇宙を拝みながら、私たちの心の奥にしまいこんでいた元から在る魂を呼び起こし、ともに生きることを知る場所とします。

 

(泰澄法師は、大自然こそ神として、その自然神を拝み、または自然の中で瞑想しながら、生まれながら持っている智を覚醒しようという教えです)。


花山法皇、前田利常公も観音浄土補陀落山をこの世に現出しようと庭園を整備されました。それはリッチな極楽の創造ではなく、理想の浄土は素朴な美しい自然に囲まれた世界にあるのです。ですから那谷寺の自然本尊は十一面千手観音、霊峰白山、奇岩遊仙境にあるといえます。

 

(観音浄土補陀落山とは、観音菩薩の住処、あるいは降り立つとされる山である。補陀落山とも称す。)

 


(来年の那谷寺開創1300年大祭御柱立柱祭に向けた御神木2本)


那谷寺では、来年(2017)開創1300年を向かえます。泰澄法師の教えと古代白山信仰を体感するのにはいい機会です。現代科学や環境保全運動と整合性をもつ「白山信仰」は、宗教のあり方、そして新しい価値を目指します。

 

(つづく)

 

参考資料:那谷寺ホームページ

www.natadera.com/shiru_rekishi
高野山真言宗別格本山那谷寺ほか