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2016-09-21 17:18:54

明治の金沢“政治結社”⑥開墾論と鉄道建設論

テーマ:伝説・伝承

【金沢の明治】
盈進社は、明治13年(1880)組織が固まったところで、越中新川郡大沢野の原野開墾とその付近の山に埋蔵する石炭の採掘にあたろうとします。遠藤秀景の年来の主張である産業立国によるもので、その資金30万円(当時1円が2万円として約60億円)を前田家に申し出ます。

 


その直前、別に鉄道建設論が前田家に持ち込まれていました。主唱者は、前回書いた遠藤と県会でひと悶着おこした初代石川県会議長の加藤恒です。明治13年(1880)4月には、長浜―敦賀間が着工され、7月には京都―大津間が完成しています。その間、全国各地では続々と私鉄敷設計画が行なわれていて、北陸での敷設も時間の問題と見られていました。加藤恒はここに目を付けていました

(実際には明治31年に北陸線が開通し金沢へ)

 


精義社VS盈進社
加藤恒は維新後、衰退する金沢を見るにつけ、北陸に鉄道を敷設することによって金沢の発展を図るべきと考えていました。そこへ遠藤等の専横に不満を持ち脱退し精義社に走った関時叙と旧藩士の疋田直一等が東京へ出発の途中加藤恒を訪ねます。加藤は疋田等に鉄道建設論を吹き込み共に上京し、前田家に申し入れ、これが開墾論と鉄道建設論対立のはじまりです。

 


両派の運動は次第に激しくなり、盈進社は各方面に開墾派の同志を集め、疋田直一は尾張町に事務所を設けて鉄道を建設する運動をはじめます。ある日、疋田は、盈進社の薄井達之助と酒を飲むうち、いい争いになりとうとう掴み合いになり薄井が殴られ、その仕返しに盈進社員も猛者が尾張町の事務所に乗り込んで疋田を袋だたきにするという無茶苦茶な事件が発生します。


(当時の士族は、百の議論よりも、一発ポカリとやる方が手っ取り早いという事ですが、横行していて暴力沙汰は政治のあらゆる面で通用しています。開設して日の浅い県議会でも同様で、議事のスムーズな運営は討論のルールなど二の次でした。)


前田家では、検討の結果鉄道建設論に傾いていたが、両派の対立がこう激しいと急に結論は出せない。そこで地元の意見をまず尊重することとし、明治13年(1880)8月、家令北川亥之作が前田家旧藩主からの告論文を持ち来県し両論のいずれかは起業会を作って決めるようにと、前田家の意向を伝えます。そこで疋田は授産事業の内容を審議する会議を提案します。

 

(当時、前田家は14代慶寧公が明治7年死亡しており、告論は慶寧の父斉泰公と15代利嗣公の連名でした。起業会は、士族にための授産事業団体で、成立の経過は、前田家の家令北川亥之作が士族の有力者、黒幕的存在の杉村寛正に、とりまとめの出馬を求めたことからはじまります。)

 


開墾論、鉄道建設論の両派は、前田家から言われては仕方なく従います。起業会は金沢在住の士族300戸から1人の割りで選挙を行い、30人の議員が選ばれ起業会が組織します。起業会議長は当時金沢区会議長の岡田雄巣がなり、会議は長町(今の玉川図書館)の前田別邸で何回も開かれたが、議員の中に両派もいて、自説を固執するのでまとまるはずもなく、1年が過ぎ、前田家は、かねてから計画のある東北鉄道株式会社の設立を一方的に発表するとともに、起業会の解散を通告し、議員にはその慰労を謝し紋服各一着を贈ります。

 


前田家が鉄道建設論に踏み切ったのは、前田家は始めから鉄道建設に傾いていて、当時、鉄道建設は全国的ブーム。しかも起業会議員の大部分が鉄道派、そればかりか一般士族も鉄道建設を主張する者が多く、前田家が最終的に決めたのは沿線の調査結果と政府の意向でした。そうなると黙っていないのが盈進社一派、起業会を解散すると発表するや、遠藤秀景は、前田家は士族授産を公約し、その実現に士族全体から選挙で起業会を選んだのではないかとカンカンになって怒りだします。

 


殿待楼に派手な殴りこみ
その頃、疋田直一一派が金沢の殿町にあった殿待楼という料亭で宴会を開きます。近くに盈進社員の寄宿している民家があり、鉄道建設派の宴会を知った盈進社員は、頭にきて、盈進社をバカにするな!!とばかりに、殴りこみを掛けます。事件での疋田直一は前歯数本を折り、杉本寛正も袋だたきの目にあい、命からがた逃げ帰った疋田は直ぐ”お礼参り“に浅野町の遠藤宅を襲撃。書生川越某を人質に引き揚げます。途中で殴る蹴る、尾張町の事務所では、柱にしばりつけ、かわるがわる殴るなど暴行の限りをつくし、川越某は精神異常をきたしたという。さらに翌日、もう一度襲撃を計画するが、盈進社員は日本刀で守りを固めていたため、ついにあきらめます。

 

 

(警察当局は少しも動かず、被害者の告訴もなかったせいもありますが、当時は政治結社の暴力沙汰は常識?として通用していたのでしょう。)

 


この騒動があって間もなく、長町の前田家別邸から出火し、前田利嗣公は大叔父の利鬯公が専光寺に避難。世間の噂では、放火説が飛び出し結局真相は分らずじまいで終わりますが、時期が時期だけに、盈進社員が鉄道建設派に敗れた腹いせに放火したとか、あるいは鉄道建設派が鉄道の事業資金を使い込んで証拠隠滅のため放火したとかの噂を呼び、一時、問題になりました。

 

(つづく)

 

参考文献:石林文吉著「石川百年史」発行昭和47年石川県公民館連合会・「北陸人物誌」明治編32、昭和39年6月7日、読売新聞社

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2016-09-18 21:50:59

明治の金沢“政治結社”⑤石川県会

テーマ:伝説・伝承

【大石川県】
明治12年(1879)府県会町村会規則の制定で全国に県会が開設されます。当時の石川県は、今の石川県と富山県全部と福井県の一部にまたがっていました。明治12年(1879)5月26日、第1回石川県会が開かれます。県会といっても、その性格がきわめてあいまいで、一般庶民にとっては、県令(知事)の命令下達の機関という程度の認識しかなかったようです。

 

(金沢の夜明け)

 

(当時の石川県は、「大石川県」ともいわれ、明治9年(1876)新川県(現在の富山県にほぼ相当)と敦賀県(現在の福井県にほぼ相当)の嶺北地域を編入し、富山と福井に支庁を置いています。しかし、明治14年(1881)に福井県が、明治16年(1883)に富山県がそれぞれ分離して現在の県域になっています。)

 

(3代目県令千坂高雅)


その頃、県令は評判が悪かった2代目桐山純孝がかわって米沢藩出身の千坂高雅で、第1回石川県会では69人の県会議員が誕生しますが、ただし第2回選挙以後の定数は、改めて県会で決めることになっていました。

 

(県会議員の内訳は:金沢区 4人、江沼郡 2人 、能美郡3人、 石川郡4人、河北郡 3 人、能登 11人、 越中22人、 越前20人の合計 69人でした。)

 

 

当時は議員の歳費はなく、候補者は満25歳以上の男子で県内に本籍があり満3年以上在住し、地租10円以上を納める者と規定され、選挙区は郡区(区は金沢)に分れていて、しかも立候補の制度が現在の制度のように明確になっておらず、2つ以上の選挙区で選ばれることもあり、その時はどちらか好む方で当選すればよかったそうです。

 


有権者は20歳以上の男子で地租5円以上を納める者で、県民の1割しか投票が出来ませんので、民意は反映しているとはいえませんが、有権者は、あらかじめ郡区長から渡された投票用紙に候補者の住所、氏名と投票者の氏名を記入し、投票日に提出するものですが、代人投票が出来ました。

 

(当時の知識階級は、議員はお上の付属機関としか考えていなくて、議員になることには魅力が持てず、特に河北郡と石川郡は候補者難で、金沢区の候補者であっても河北郡で選ばれることもありました。)

 

金沢区の定員は4名で長谷川準也が最高点で、次が加藤恒、河瀬貫一郎、東京から帰っていた遠藤秀景が当選しています。当時企業に没頭していた長谷川準也が辞退し、加藤恒が河北郡でも当選していたので金沢を辞退し、落選の安田冓車、松原小四郎の2人が繰り上げ当選することになります。

 

(蓮昌寺)


したがって当選者4人のうち、組織が大きい本行寺派(精義社)は1人もいなく、河野、遠藤、安田の3人が蓮昌寺派(盈進社)に属しています。選挙はのんびりしていましたが、県会の議論は白熱していて、加賀は士族の没落が大きな社会問題ですが、能登では産業振興を主張し、越中では、庄川、神通川、常願寺川といった荒れ川の氾濫で農民が苦しんでいて、治水優先を主張、この予算のことで、金沢区選出の河瀬、遠藤が激しく県当局を非難します。

 

 

(これが目に余ると加藤恒議長が遠藤の発言を停止したことで、遠藤は怒り、その後の議会出席を拒否したことで、遠藤の部下の面々が加藤恒議長の自宅まで押しかけ、発言停止の理由を詰問すると言う事件が起こります。)

 


この第1回県会は、明治12年(1879)5月26日に開会し、この年は全国的にコレラが流行り県内でも大流行し、患者総数29,808人当時、ほとんど治療法もなく死者21,144人に達し、7月29日の休会。9月13日に再開して10月15日やっと閉会となり、会期は107日大変な長期県会となりました。

 

(つづく)

 

参考文献:石林文吉著「石川百年史」発行昭和47年石川県公民館連合会など

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2016-09-15 00:23:19

明治の金沢”政治結社“④士族の転落

テーマ:伝説・伝承

【没落した金沢】
これだけはおさえて置きたいので、話は多少前後しますが、士族の転落は、“武家の商法”という失敗もありますが、松方正義のデフレ政策でした。俗のいう「松方デフレ」です。西南の役(明治10年)後や各種の官営事業で乱発された紙幣を整理し、インフレによる物価の値上がりを押さえようというもので、金融引き締めによるデフレでした。

 

(金沢城)

 (松方正義)

 

(それより以前、明治9年(1877)に政府は士族に支給していた家禄(米で支給する給料)をやめ禄高を金で換算して、それを公債にした「金禄公債」を発行します。換算率は、米一石(150kg)あたり3円55銭3厘7毛という値段で、政府は当時石川県の士族に支給した金禄公債は812万2400円。配分の方法は各自の禄高の6年分と4年分にわけ、6年分を受ける者は昔から前田藩の家臣、4年分はその他の者となっていました。)

(内田政風)


明治5年(1873)石川県令内田政風に認められた旧金沢(加賀)藩士の長谷川準也が、尾山神社を建立しようと旧藩士の家庭を訪ねおどろきます。武士の誇りも格式もどこへやら、当時、約2万人いた士族のうち下級武士のほとんどが、赤貧を洗うような生活ぶりを知った長谷川準也は、就任したばかりの金沢町総区長を半年で投げ捨て、士族救済に立ち上がることを決意します。

 

(尾山神社)

(長谷川準也)


“黄八丈芸者に謡曲門づけ”
これは当時の金沢士族の姿を見事に言い当てています。かっては高価な黄八丈(きはちじょう)の着物を着ていた武家の娘が、身売りして、芸者になってお座敷をつとめているかと思えば、貧苦にあえぐ老士族が、その日の食費をかせぎに、職もかまわず武家のたしなみであった謡曲を唯一の芸に、家から家へうたい歩く有様でした。

 

(幕末の壮猶館、明治になり金沢区方開拓所に以後勧業場に)


元々、前に書いた「金禄公債」発行の理由の中に、士族に生業資金を与えるという事であったが、一時的に金がだぶついたとあって、各地に金融機関が誕生し、金沢でも粟ヶ崎の木屋藤右衛門の為替会社など多数の銀行が設立されます。


士族たちの多くは利子により生活の安定をもくろみ、公債を為替会社に預け入れ、金融機関は、利子かせぎのため家屋などの不動産を抵当に金を貸し付けますが、政府のデフレ政策が浸透するにつれ金づまりになり、金融機関は資金回収に苦しみ、一般預金者への支払いが中止になり、困り果てた金沢の士族の中には、親子心中、自殺をはかるものが続発、金沢城の石川門の下百間堀は、自殺の名所と言われるようになります。

 

(石川門と百間堀)


そういったことから、金沢の政治結社は、表向きは自由民権を唱えながら、“士族授産”のような地味な経済政策確立のための運動にはまり込んでいったのでしょう。しかも石川県民の10%に満たない士族のために・・・。

 

(百万石のお膝元)

 

(百万石のお膝元、金沢では、政治(民権)運動に入ったのは、大部分が士族だったため、振り返ってみれば、貧困に追い込まれているかっての仲間、明日はわが身と士族の生活改善に目が向くのは致し方ないことであり、隣の越中の政治(民権)運動は、豪農や平民層を中心で、比較すればかなり違うようです。)

 

(つづく)

 

参考資料:「北陸人物誌」昭和39年5月~6月・読売新聞社

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