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2017-07-29 15:26:22

勘太郎川⑤本多家下屋敷の外濠?ウソ!!

テーマ:伝説・伝承

【石引2丁目→鱗町】

ホント??今回、調べていて私が勝手に思ったことですが!?勘太郎川(倉月用水)は、延宝金沢図(167381でも全長1,4km。その内、約1kmが本多家の下屋敷の外側に位置し、合流する鞍月用水やお城の西外惣構も含めると、10万坪以上と言われた本多家下屋敷(家臣や分家の居住地で安房殿町〈家中町〉)を囲むように造られています。なにも外濠という大げさなものではなくても、他の町との区切りになっていたのではと思われます。

 

詳しくは 石川県立図書館 延宝金沢図 「検索」

 

 

(大乗寺坂より本多町下屋敷を望む)

 

 

それはそれとして、前回、書いたのは「思案橋」まで、飛んで「鱗橋」「鱗橋」を書きましたが、今回は、その間の2つの橋とその周辺の町や寺院にまつわる藩政期のお話です。

 

 

 (黒い線が今の勘太郎川・鞍月用水・西外惣構の堀)

 

(百姓町の標柱)

 

[百姓町]

一向一揆時代には、上石浦村の村落(下石浦町は今の香林坊辺り)でしたが、藩政初期、金沢の町地が追々広まり、村民は町人のなり、村落には町家が建ち、町名も百姓町と呼ぶようになったと伝えられています。

 

(石浦村は、石浦郷七村の一つで、一向一揆時代は安房殿町より長町にかけ法船寺馬場(現中央通町)まであり、藩政期にはことごとく武士、工、商の家屋敷となり、旧下石浦村の裏町には百姓家が長く残り、「金澤事蹟必録」にも石浦村百姓は“34軒残れり”とあり、また、「亀尾記」には、今、田地の草高は「五っ免」で、わずか29名遺れり、その草高は他村に組み込み、その農民も町人となり、その地を百姓町と称したというと書かれているそうです。「参考:金澤古蹟志」)

 

 

(今の法然寺橋)

 

[法然寺橋]

現在の橋(現遊学館高校前)には、橋名は何処にもありませんが、「金澤古蹟志」や「稿本金澤市史」「加能郷土辞彙」にも書かれていますが、藩政初期の石浦神社の「冩絵図」には法然寺が描かれていて、その前に橋が描かれています。法念寺橋、百姓橋ともいわれていました。

 

 

(石浦神社の「冩絵図」)

 

影向山法然寺は、浄土宗西山禅林寺派。開祖は屋譽貞雲和尚で慶長8年(1603)建立。百姓町(現幸町)の今の勘太郎川(倉月用水)の袂にあり、9代来空の享保15年(1730)に現在地(菊川2丁目38)に移転しました。改作旧記には、寛文(16611673)の頃、犀川川下(仁蔵辺り)に寺があり、“ねい”という女が放火し、寛文6年(1666416日、犀川川下の法然寺下川原で釜煎にされたとあるそうですが、寺記には寺がそこに有ったことも放火のことも記載がなく伝承か・・・。「参考:金澤古蹟志」)

 

 

 (お銀小金の地蔵さん)

 

 「伝説“お銀小金”」

法然寺に伝わる物語に、「お銀小金」の伝承があります。粗筋は血のつながらない姉妹同士の深い人間愛を描いています。加賀藩士の父が江戸詰めで留守の間、お銀は継母にいじめられ、ついに犀川の河原に掘られた深い穴につき落とされたという。母が違うとは言え、お銀を慕っていた妹の小金は、お銀の居場所を探し当て、自らも穴に飛び込んで果てたといいます。継母は、その死を知ると「わが子かわいと思えば他の子こそ大切に」と改心し、懺悔し自ら髪を切って子供たちの冥福を祈る長い巡礼の旅に出たというお話です。

 

このお話が有名にしたのは、泉鏡花の名作「照葉狂言」の冒頭に主人公の少年(貢)が子供の頃、“おばさんの語り”として聞いた「お銀小金(照葉狂言では阿銀小銀のお話です。

 

青空文庫:「照葉狂言」

http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4561.html

 

金澤古蹟志では・・・

小金之墳墓は、「法然寺境内の卵塔場(墓場)にあり。旧伝にいう。昔、この地辺は法島河原で、その犀川の河原だった頃、此の所に於いて男女情死す。“こきん”はその頃の娼妓で、男女共に白接束にて水盃をし、いさましき体にて情死していたと。則ちその所に男女合葬せし墳墓是なりと言い伝えたり。共の年月等は伝承せる・・・とあり、その頃は法然寺がこの地に来てはいない」云々と書かれていています。「お銀小金」の話は後に子供に異母姉妹の情愛を伝えるために創作されたもののようです。「参考:金澤古蹟志」

 

 

 

(石浦橋の橋名板)

 (石浦橋)

 

[石浦橋]

法然寺橋から本多家下屋敷の境界を示すように勘太郎川(倉月用水)が流れ石浦橋に至ります。藩政期の橋名は何と言ったのかは定かではありませんが、本多家下屋敷の一つの出入口だったと思われます。橋を渡ると200m先に一向宗慶覚寺があり、左右に繋がる街は、かって下屋敷の買い廻り品の店が建ち並び、また、慶覚寺の門前町だったことが窺えます。また、橋の欄干は上(かみ)の片方だけで、下(しも)は暗渠になっていますので欄干がありません。確か、昭和30年代には開渠で、右側が自転車と人が通れるだけの細い道だったような記憶が蘇ります。

 

 (旧百姓町の通リ・突き当たり慶覚寺)

 

(つづく)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻12・巻13」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和171月発行 「稿本金澤市史」金沢市役所 昭和2年( 1927)発行

 

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2017-07-26 20:16:42

勘太郎川④倉月用水??

テーマ:伝説・伝承

【石引2丁目→鱗町】

今さら!!でもありませんが、好奇心に駆られた事を調べていると、つい同じ所に何回も行ったり、本や文書であれば、同じ本の同じ項目を何回も読み返してしまいます。そのためか周辺が見えなくなったり、堂々巡りが始まったりますが、それを繰り返していると「ヘイ!!そうだったんだ!!」と気付くこともあり、新たな発見に繋がっていきます。最も“新たな発見”と言っても、私のような素人にとって新しいというだけで、5万と居るご存知の方には、新しくも何でもないのでしょう・・・けど。

 

  

(今の思案橋・左の小路)

 

今回、勘太郎川を調べていくうちに「金沢古蹟志」「加能郷土辞彙」を何度も読返し、あっちこっちにまたがり書かれた記述を組み直して読んでみたりしても、気付かないことも多々あります。厄介なのは、思い込みという先入観から誤謬(ごびゅう)だと決め付けていることが、見逃しの原因のようで反省しきりです。

 

 

(バス停・思案橋)

 

その際たるものが、今回の勘太郎川で、藩政期には倉月用水と言われていたことでした。これなども“知る人ぞ知る“のでしょうが、私の知る限りでも「金沢古蹟志」「加能郷土辞彙」にも誤りもあり、その文中にある倉月用水と言うのは間違いだという見方をしていました。少し考えて見れば、森田柿園氏も日置謙氏も金沢の人で、しかも森田柿園氏は近くの柿木畠に住んでいたので、倉月用水を間違える筈がないのです。

 

(「金澤古蹟志」の記述は後程引用しますが、鱗橋の項に玄蕃川と倉月用水が鱗町で合流するという件(くだり)があり、やっと納得しました。)

 

  

(思案橋から勘太郎川) 

 

 

以下は「金澤古蹟志」「加能郷土辞彙」の関係箇所から引用します。

 

[倉月用水]

犀川の金沢を貫通する間に於いて、その右岸油堰から引水し、厩橋から長町川岸に向かうてながれる。金沢牛右衛門橋油屋源兵衛の書上に、もと岩谷牛右衛門上地に防火用の水溜があったのを、正保年中先祖與助が請ひ受けて、堀の跡に油車を建て、川を穿って常水を通じた。それが川下八千石の地を養って倉月用水と呼ばれることになったと。この田地の石川郡西念新保等十三ヶ村に亙るものである。「加能郷土辞彙 p267

 

 

(牛右衛門橋と金澤町家情報館)

 

 

上記、加能郷土辞彙には、倉月用水起点が油堰(油瀬木)のように書かれていますが、明治に書かれた金澤古蹟志には、倉月用水という項目はありませんが、以下に引用する玄蕃川や鱗橋などに倉月用水の記述があり、それらによると倉月用水は、今の勘太郎川の本流だと書かれています。

 

倉月用水が、今の鞍月用水の「鞍月」ではなく「倉月」と書くことについてはよく分りません。)

 

 

 (天保期の勘太郎川と玄蕃川)

 

 

[玄蕃川]

金澤古蹟誌には「此の川は、川上覚源寺の尻地なる犀川の川除に水戸口を附け‘犀川より用水を取れり。此の水戸口をば油瀬木と呼べり。此の下流は即ち玄蕃川にて、百姓町通りを流れ、鱗町にて倉月用水川へ合併し、油車へいづる成り。昔、油車屋源兵衛といふもの、油車の地に水車を取建てける時、倉月用水のみにては水勢弱きとて、更に犀川より用水をせき入れ、その流水を百姓町へ通し、油車にそそげり。故に彼の堰をば油瀬木と呼び、用水川をも源兵衛川と俗称せしを、後人誤って玄蕃川と呼べりとぞ。一説に、昔佐久間玄蕃のとき、この用水が通ぜり。故に玄蕃川と称すといえども、非也。後人の附會なるべし。と書かれています。「金澤古蹟志 第5編 13P57より」

 

(上記によるとは、今、鞍月用水起点の油瀬木から鱗町で今の勘太郎川と合流するまでの流れが「玄蕃川」だという事が分ります。)

 

 

(川御亭の標柱)

 

[川御亭]

今、上本多町川御亭と称し、町名とす。此の地は倉月用水川たる思案橋の西方を呼べり。右用水川に当たりゆゑに川御亭といふと。但し川御亭とて此の地に藩候の離亭ありたる事、詳らかならず。一説に、昔本多氏下邸岩問屋の圏内に亭ありて、近き頃まで亭の跡とて礎石が残れり。此の亭ありし地は思案橋の近辺なれば、此の事をばそのかみ川御亭と呼びたりし故に、此の地辺に川御亭の遺名あるにやといへり。「金澤古蹟志 第5編 12P40より」

 

岩間屋:藩政期、本多家下屋敷のことを世の人々は“岩間屋”と呼んでいました。藩政初期には、今の牛右衛門橋(現金澤町家情報館前の橋)辺りに藩士岩谷牛右衛門の屋敷があり、後に故あって禄を辞し、藩から退去し、その跡が本多家下屋敷になり、その辺を岩間屋(岩谷が訛ったものか?)と呼んだそうです。万治2年(16593代利常公が逝去され、小松附諸士が金沢に戻り、この地が藩の用地になり、本多家下屋敷は手木町口に移りますが、人々はその辺り本多家下屋敷を旧地名の岩間屋と呼んだという。)

 

 

(思案橋)

 

[思案橋]

現在、思案橋の名前の由来として流布されているのは、この付近に加賀の筆頭家老、本多家の別邸があり、そこに通う本多の殿様が、”今夜は酒にしようかそれともお茶にしておこうか”と思案したことからこの名がついたと、誠しやかにいわれています。

 

しかし「金澤古蹟志」にある「金沢橋梁記」の引用を要約すると「思案橋」は本多家中(かっちゅう・家臣が住む下屋敷)にあり、この橋は倉月用水川(今の勘太郎川)”に架けられていた。三州名跡誌には、本多氏の元祖安房守政重、加賀藩士と成り金沢へ来た頃、男達の気負い者が多く召仕えていて、この者ども毎日この橋へ出で今日は“西へいこうか東へ往んと「思案」していたので橋名に呼ばれる事とになったと。

 

また、柴野美啓の「亀尾記」を要約すると、この辺りは、石浦野という荒地で、賊魁安藤四郎・藤塚小太郎・同伊豆という者が、この辺り潜伏し居いたが、天正八年柴田勝家により討亡されたという。その頃「しあん某」といふ者がこの地に居住していて、それ故に「思案橋」の橋名に遺されたそうです。一説には、本多氏元祖安房守政重が加賀藩へ勤仕した時、諸国から集まった武士も就いて来たそうで、その中に侠客を名乗る若者達が、いつもこの橋の上に集り、東へ行こうか西へ遊びにいっくか思案していたということから「思案橋」の名が起ったという言い伝があるとか、今按ずるの、両伝説はいずれが正説なのかと結んでいます。「金澤古蹟志 第5編 12巻 P41など」

 

 

 (今の鱗町)

 

[鱗町]

元禄9年(1696)の地子肝煎裁許附に、犀川荒町、いろこ町とあり、此の時代にいろこ町も呼んだりけん。此の町名の起源は詳かならず。此の町は犀川荒町の上にて、倉月用水の川縁より、百姓町への往来なる片原町の町家を呼びたるかど、明治4年(18714月町名改革の時より、荒町と合併して鱗町と称せり。「金澤古蹟志 第5編 13巻 P48より」

 

 

(今の鱗橋辺り・コンクリートの下に勘太郎川)

 

[鱗橋]

金澤古蹟志によると「金澤橋梁記」に、うろこ橋うろこ町とあり、此の橋は玄蕃川と倉月用水との落合に架けたる往来橋也、右両水皆犀川の分水なりしかど玄蕃川は近き所なるゆゑ、毎も清潔にて水澄みたり。然るに此の橋下にて、清濁の二水落合ひけるに、清濁常に振分れ見るが故に、俗に澄濁橋と雅名す。「金澤古蹟志 第5編 13巻 P49より」

 

参考ブログ

油瀬木から子守川股地蔵尊まで《鞍月用水①》

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11812568033.html

 

牛右衛門橋からあかね屋橋まで《鞍月用水②》

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11814781550.html

 

(延宝の金沢図より・勘太郎川と玄蕃川周辺)

 

これらを読むと、今の「勘太郎川」は藩政期に倉月用水と言われていたことが分ります。しかし、書かれたものでは「思案橋」まで、延宝金沢図では、その先に二筋の川に繋がっています。一筋は今の勘太郎川、もう一筋は、今の猿丸排水路と菊川雨水幹線が合流したもので、どちらの川筋が昔の倉月用水か断定しかねます。

 

(つづく)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻12・巻13」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和171月発行 「稿本金澤市史」金沢市役所 昭和2年( 1927)発行

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2017-07-23 19:04:28

勘太郎川③倉月用水??

テーマ:伝説・伝承

【石引2丁目→鱗町】

現在の勘太郎川の名称は、何時からそのように呼ばれていたのか?現地へ歩き、図書館や役所へ行き調べていますが、なかなか正解に至りません。そんな時、果たしてこんな事を調べて何の役に立つのだろうか?学者や役所の揚げ足を取るだけではないだろうか?と少し悩ましくなってきます。

 

 

 (思案橋)

 

しかし、一日寝るとそんな事もコロッと忘れ、性懲りもなく、天気が良いと現場で、疲れると本を漁ったりしていると、何となく日々充実したような気になります。はい、目標をデッチ揚げて走るのが私にとって若さを保つ秘訣のようです。お陰で、毒にも薬にも知恵にもならないいい加減な知識を得て自己満足しています。

 

 

(昭和6年の勘太郎川周辺の地図)

 

(旧欠原町下の勘太郎川と名前も知らない橋・右に上がると旧新坂町)

(旧欠原町の崖下、勘太郎川は茂み間を抜けています)

 

 

愚痴はこのへんにして、本題にはいります。勘太郎川は、大正から昭和の始めまでは「稿本金澤市史」によると「笠舞用水」と呼ばれていたらしいが、現在、戦前から残っている思案橋(大正152月架)や勘太郎橋(昭和49月架)も橋標には橋名板や橋歴板が刻まれていますが、川の名前の表示が何処にもありません。しかも、森田柿園の「金澤古蹟誌」を調べていて気付がありました。何とそれは、明治の初期までは「倉月用水」と呼ばれていたらしい・・・?

(詳しくは次回までに、まとめておきます。)

 

 

(新坂二の坂から小立野台緑地に上る坂)

(新坂二の橋)

(上は小立野台緑地)

 

川は崖下の谷の風情は昔のまま、かって旧上欠原町の住民が洗濯をした処には、現在、鉄板の手作りの橋と名も知らないコンクリート橋が架かり、この辺りから川の真ん中に排水溝が見え始め、本多町一の橋まで続きます。今の小立野台緑地の崖下から昔を感じさせる雰囲気とコウド(洗濯用の階段)が残る嫁坂下の「新坂一の橋」に至ります。

 

(新坂一の橋の上にあるコウド)

 (新坂一の橋)

 

「新坂一の橋」から「手木橋」「本多町四の橋」「本多町一の橋」まで、この辺りになるとさらに水量は少なくなり、平素は川の真ん中に造られた狭い排水溝にわずかの水が流れています。勘太郎川は、旧本多家の下屋敷と「手木町」の間を犀川の方角に一直線に約400m流れて右に曲がると「百地橋(時雨平橋)」が見えてきます。

 

 

 (手木橋)

(現手木町)

 

[手木町]

金澤古蹟誌によると「此の地は、旧藩中は手木足軽の組地なり。此の人々をば世人御手コと呼べり。故に町名をも御手木ノ町と称す。元禄6年(1693)の士帳にも、本多図書邸地安房守下屋敷御手木ノ町方とあり。按ずるに、延宝の金沢図をみるに、此の地辺り悉く皆三十人組及び小頭の組地なるよし記載す。されば延宝の後三十人の組地に移転し、その跡地をば手木足軽の組地と成したるものと聞ゆ。三十人組は、藩候の御手廻りと称する小者にて、手木足軽とは異也」とあります。

 

(延宝の地図には三十人組の組地は記載がない、見間違えか?)

 

 

 (延宝の金沢図・石川県立図書館蔵)

 

 

[手木足軽]

藩政期、露地奉行の支配で、城内等のお庭の諸事に従事し、お殿様が江戸参勤のときは、荷物の宰領を勤めています。元々手木足軽は、戦場で太刀を持って戦うために召抱えられたもので、力量の検査があり、殊に大男が選ばれたといいます。

 

(現玉泉院丸)

 

 

また、寛永11年(16342代利常公が、京より剣左衛門を呼び寄せ、玉泉院丸に築山泉水を造るにあたり、御相撲の者50と御鉄砲の者100人が庭造りをしたという。どうも、この御相撲の者が、御手木足軽の始めではと、森田柿園は「金澤古蹟誌」に書かれています。

 

(手木とは、木やりの人が、手木(十手のようなもの)で、指図をするためのものだそうです。)

 

(つづく)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻11」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和17年1月発行 「稿本金澤市史」金沢市役所 昭和2年( 1927)発行

 

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