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2016-11-30 17:42:31

足軽の仕事③

テーマ:伝説・伝承

【金沢】
さて、足軽というのは、鎌倉時代の書物に「身軽に行動する身分の低い歩兵」として登場します。戦国時代になると、団体戦闘要員として広く知られるようになりました。豊臣秀吉のように、戦場で功名を立て出世するのが夢でしたが、合戦もなく平和な藩政期になると、人数も制限され、リストラにもあい、次第に小人数になり、一人で軍事訓練と行政の両部門こなす多忙な日々を送ることになります。最近、観光客に英語圏の人が多くなり「ローサムライ」と訳されています。

 

(足軽屋敷・清水家)

 

加賀藩の足軽は、初代藩主前田利家公の頃には「御弓之者・御鉄砲之者」という区分しかありませんでしたが、5代藩主綱紀公の時に「大組・中組・先手組」に編成替えされ、足軽たちは、軍事組織としてこの3組に配属され、武術訓練にあたるようになったのです。

 

(城下の土地利用)


≪軍事組織≫
大組足軽
加賀藩の戦闘要員としての主力部隊の内、鉄砲隊となる足軽。
中組足軽 持方足軽とも、弓足軽7隊、鉄砲足軽4隊で編成する全7組の足軽。
先手組足軽 7組の人持組配下に属し、弓足軽7隊、鉄砲隊足軽14隊で編成された足軽。


(他に、餌指足軽・御手木足軽・御預地方附足軽がいました。)


武術訓練以外の日常業務としては、行政組織いずれかの役所に配属され、警備や雑務などに携わります。

 

≪行政組織≫
御普請会所附足軽
土木を担当する役所を御普請会所いい、ここで働く足軽。
公事場附足軽 公事場は加賀藩の最高裁判所、4人の公事場奉行のもとで働く足軽。
町附足軽 金沢町奉行のもとで働く40人の足軽。
割場附足軽 諸々の雑務(警備・掃除・走り使い・藩主が外出の時のお供を割り当てる割場に所属する足軽。
定番附足軽 「定」は「城」のこと、城番をする足軽(老齢なるとこの職に就く)
御船手足軽 大野川に船小屋があり藩船の維持管理をする足軽。
押足軽 御手回り足軽ともいい、殿様が騎乗するとき、下馬するとき、馬の口を押さえる足軽。


(早道飛脚足軽 大名飛脚ともいい、国許と江戸藩邸のあいだで文書を運ぶ飛脚足軽。)


足軽は組地に住み、家へは、良い知らせの昇進・拝領などは、前日に使いの者がやってきますが玄関から入り、それに対してお咎めなどの悪い知らせは勝手口から、いつの頃からかそんな慣習ができていたみたいです。

 

(足軽屋敷の内部)


藩制期の城下町は、お城や藩関係の施設を中心に、城下の大部分を武家屋敷が占めていました。城下の周辺には、高禄の八家や人持組の屋敷が点在し、その多くは上屋敷と下屋敷をもち、下屋敷内には陪臣(人持組の家臣)の居屋敷が置かれ、陪臣として所属する足軽(幕末には、約2000人)もそこに住むようになりました。

 

(天神様)


公務がないときの足軽は、家で家族と内職に精を出します。加賀藩の足軽たちが行なった内職は、お盆用の切子灯籠、台切子、お盆が過ぎると、お正月に飾る天神様の灯籠、練雛や土雛に彩色をしたもの、あるいは、張子の虎や福助、起き上がりなどの玩具を作っていました。

 

(加賀起き上がり)


足軽は、名目一代限りでしたが、親の跡を継いで足軽になる場合がほとんどで、加賀藩では足軽の定数が決まっていたため、足軽職に召抱えられには、親である前任者が退職または死亡に伴い、その実子・養子は所属する組の推薦が必要でした。

 

しかし、後継者がいない場合は、足軽株を売り出し、その買い手が養子縁組をします。つまり、お金を出せば、農民だろうが、町人であろうが足軽になれました。足軽は定員制でしたが、この株売買により空位になることはありませんでした。

 

(おわり)

参考資料:金沢市足軽資料館等

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2016-11-29 20:35:58

足軽の暮らし②

テーマ:伝説・伝承

伝説・伝承
【金沢】
足軽の俸禄の支給は、算用場から「切手(手形)」を年2度に分けて給付する「切米」と呼ばれる方式でした。1~9月分の俸禄12俵を3月(春渡し)3月~12月分の俸禄13俵を11月(暮渡し)といった具合です。この切手は、藩直営の堂形(米蔵)「今のしいのき迎賓館」や新堂形(米蔵)「今の兼六園駐車場」や町人の経営する蔵宿(米商)などで、必要な時に米やお金に変えることができました。足軽たちにとって、その俸禄は十分なものではなく、日々の暮らしは内職で補っていました。

 

(堂形跡・しいのき迎賓館)

 

              平足軽 小頭 (加賀藩は1俵5斗入り)
大組・中組  25俵 35俵
先手組       20表 30俵


江戸時代の米の年間消費量は、一人当たり約2俵(1石)と言われています。例えば、大組に所属する平足軽の年収は25俵程度の俸禄ですが、その一家(6人)が、一年間に主食として必要とした米の量は12俵(6石)となり、実に年収の半分ほどを占めていたのです。このような中、主食費以外の生活費を確保するため、足軽たちは、仕事の合間に家族そろって内職に励んでいました。

 

(足軽の生活)


文化・文政

通貨基準金:1両=100,000円 銀1匁=1,700円 銭1文=20円

 

品名            藩政時代の物価      現代の物価
米一升                         32文              640円
酒一合                           8文              160円
かけそば一杯                16文              320円
初カツオ一匹      2~3両  200,000~300,000円
髪結い                          32文           640円
先頭入浴料                4~8文       80~160円
「南総里見八犬伝」           3両        300,000円
絹羽二重フンドシ一本     18匁          30,600円
羽織り繕い賃                 40匁          68,000円
大工工賃(一日)          4匁2文           7,140円


(江戸時代の通貨は「金・銀・銭」が中心でしたが、加賀藩では「銀・銭」が主な通貨でした。)


足軽の内職:公務のないときは、家で家族と内職に励むというのが足軽の日常生活でした。加賀藩の足軽たちのおこなった主な内職は、お盆用の切子灯篭・台切子、お盆が過ぎると正月に飾る天神様の燈籠・練雛や土雛に彩色したもの、あるいは張子の虎や福助、起き上がりなどの玩具を作ることでした。

 

(足軽資料館)

 

足軽の服装:御歩(おかち)以上の武士は、「着流し」を許されていましたが、足軽は公務にあたる祭、常に袴を着用しなければなりませんでした。


例えば、門番や警備をする時は、法被と単で三ツ山形が染め抜かれた山袴を着用していました。しかし、日頃足軽たちは、機敏な動きができるよう「尻端折り」と呼ばれる、袴のすそを高くまくり上げた格好をしていました。真冬でも股引きなどは履けず、足をむき出しにしていなければならなかったのです。足軽にも身分の上下があり、平足軽はたいてい腰に刀を一刀、小頭は二刀差していました。

 

法被・山袴:足軽が門番や警備をするときの服装
尻端折り:一般的な足軽の服装
着流し:足軽より身分の高い武士の日常着
肩衣・半袴:平常勤務や訪問時に着るお目見え以上の武士の礼服
裃長袴:江戸城へ参勤する時の礼服

 

(寺町・クミヤシキ、組ヤシキとあるのが足軽組地)


加賀藩の武士階級:前田家の家臣団は、最高の階級である「八家」を筆頭に、武士として認められる最下位層の「足軽」にいたるまで、全6階級に区分されていました。家柄の上では、藩主に直接お目通りできるものと、お目通りを許されないものとに分けられ、俸禄の上では「知行取り」といって、土地を与えられる平士以上と、現米で給付される「切米(扶持米)取り」とに分けられました。このような階級は、武家社会すべてを規制し、屋敷の広さ・構え、家来数、家族の呼称まで異なっていました。

 

(つづく)

 

参考資料:金沢市足軽資料館等

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2016-11-28 19:47:22

足軽資料館①

テーマ:伝説・伝承

【金沢・長町1丁目】
足軽の住居と言えば、長屋形式が一般的ですが、百万石の城下に住んだ加賀藩の足軽たちには、長屋ではなく、れっきとした庭付き一戸建ての屋敷が与えられていました。資料館の高西家も清水家も足軽飛脚で組地のあった旧早道町(現菊川二丁目)に残されていたものです。


高西家・清水家は藩政期に建てられ、平成6年(1994)の解体まで住居として使われていました。現在、金沢市内に残っている足軽屋敷の中でも、最も古いものと言われています。足軽資料館では、これまであまり知られていなかった足軽たちの姿と、加賀藩内の情勢などの背景を知るため金沢市が移築したものです。

(足軽資料館)


武士最下位層の足軽の居住地は約16万3千坪(53.9ha)あり、城下全体から見ると7.4%ですが、加賀藩の足軽の戸数は、幕末期に4,607戸(維新期に卒族とされた戸数)あり、足軽組地に住んだ加賀藩直属の足軽戸数は、2,689戸と町地に次ぐ宅地数です。加賀藩直属の足軽(割場附足軽や定番附足軽が多かった)と人持組などの上層部氏が抱えた足軽(陪臣)の住宅は、足軽組地の他に約2,000戸でした。

 

(清水家の石置き屋根)


このように、武士階級で最も宅地が多い足軽は、非常に高い密度で居住していたのです。また、大きな足軽組地には、角場(鉄砲)や的場(弓)が隣接して置かれ、定期的に鉄砲やゆみなどの訓練が行われていました。

 

(足軽資料館)


この様な家並みを足軽組地と言い、足軽は一組ずつまとまって地割された地区に住んでいました。平足軽で50坪、小頭で70坪の宅地規定があり、小頭は一般に平足軽10戸の並びのうち1戸含まれています。

 

(清水家座敷)


町人の住む家は「町家」といい、道に家が直接面して建てられていましたが、足軽を含む武士の家は、塀を回した内側に平屋の家を建てる「屋敷構」で、足軽組地の屋敷は平士階層の屋敷(武家屋敷)の土塀や門と異なり、7尺(2、1m)の杉の生垣だけでしたが、それでも屋敷の構えをとっています。このような足軽の組屋敷には、一戸建てが10戸ずつ整然と並ぶ景観が広がり、現代で言う団地が形成されていました。

 

(杉の生垣と無花果・枇杷)


加賀藩の足軽屋敷は、庭付き一戸建てで、建物は20~25坪ほどの平屋の家で、屋根は、妻入り(左右両側に雨を流す)の家が多かったようです。屋根材は、昔は萱葺きでしたが、後に板葺きになり風で板が飛ばないように石置き屋根になりました。


「流し」のような水周りは、必ず前面にとり前の溝に排水しました。生垣の内側には、植木が植えられていましたが、多くは実の成る果樹(梅・柿・桃・無花果・枇杷等)や野菜が中心でした。


(他藩の足軽は、「足軽長屋」と呼ばれる共同住宅に住んでいました。現在、新潟県新発田市に残されている旧新発田藩の「足軽長屋」は、江戸時代には四棟あったうちの一つです。内部は、2棟割の8戸に区切られており、萱葺き屋根で軒の出も低い質素な造りとなっています。)

 

 

(北陸独特の土縁)


平足軽の家の間取りは、ほとんどが2列構成です。片側の1列は、前部から「玄関-玄関の間-座敷-土録」と連なる「接客・格式的」な空間です。もう一方は「流し-茶の間-納戸-鍵の間」が連なる「日常生活的」な空間になっています。接客空間と生活空間を大きく列構成で分けるというのが武士住宅の特徴で、足軽住宅も、接客を重視した武家屋敷の流れを汲む間取りとなっています。

 

(現在の足軽資料館・幕末に古地図青地家の隣り藤掛家)

 

足軽資料館:右隣りの浅香家は3,750石、現在足軽資料館は藤掛家、その隣青地家は、本性が本多氏で本多氏の初代政重が、直江兼続の養子のなった時の生まれた男子の血筋だと伝えられています。それやこれやこの界わいには過去400年の伝説、伝承がどこを掘ってもあふれ出るように思われます。


明治以後の一戸建て住宅の原型です。平士階層の住宅の武家屋敷では、小者や女中など、家族以外の使用人が必ずいましたが、足軽は家族だけで生活していました。一戸建て、建坪20坪余りで、家族だけで生活するというコンパクトな足軽屋敷は、明治以後の勤労者住宅のモデルとなりました。ただし、明治以後の住宅は2階建てになっています。

 

(つづく)

参考資料:金沢市足軽資料館等

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