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2016-07-23 09:27:23

神仏判然令②白山比咩神社

テーマ:伝説・伝承

【白山市三宮町】
白山比咩神社は“しらやまひめじんじゃ”と呼ばれ、全国に2,000社以上ある白山神社の総本社です。現在は、通称として「白山(しらやま)さん」「白山権現」「加賀一の宮」「白山本宮」とも言われています。祭神「白山比咩大神(菊理媛尊)」は「日本書紀」に登場する女神のひとりです。


(白山比咩神社では菊理媛尊とともに伊弉諾尊・伊弉冉尊も祭神として祀られています。菊理媛の「くくり」は「括る」にもつながり、現在は「和合の神」「縁結びの神」としても崇敬を受けています。)



(白山比咩神社)


聞くところによると、古代、崇神天皇7年(前91)に白山を遥拝する「まつりのにわ」が舟岡山の神地に創建され、時代を経て元正天皇の霊亀2年(716)に手取川沿いの「安久濤の森」に遷座して社殿堂塔が造立されたと伝えられています。また、白山は養老2年(718)に越前の修験僧泰澄大師によって開山したと伝えられています。


(泰澄大師は、白山の地で白山比咩大神として崇敬されていた白山妙理権現(本地十一面観音)に親近感を覚え、白山に登山し瞑想していた時に、翠ヶ池から十一面観音の垂迹(仏・菩薩が民衆を救うため、仮の姿となり現れる)である九頭龍王が出現し、自らを伊弉諾尊(イザナギ)の化身で白山妙理権現と名乗ったのが白山修験場開創の由来と伝えられています。)



(白山)


平安時代には、加賀・越前・美濃の3国に禅定道が設けられ、加賀馬場、越前馬場、美濃馬場と呼ばれるようになり、神仏習合により、天長9年(820)には、それぞれの馬場に、白山寺、平泉寺、長滝寺の神宮寺が建立されます。



(白山絵図・白山本地堂)


延暦寺の末寺となった加賀国白山寺白山本宮、越前国霊応山平泉寺、美濃国白山中宮長滝寺は白山頂上本社の祭祀権を巡る争いを続けますが、寛文8年(1668)白山麓は江戸幕府の公儀御領となり、霊応山平泉寺が白山頂上本社の祭祀権を獲得します。


(しらやまさんの参道の神木)


白山、白山比咩神社は、数々の歴史を重ねてまいりますが、今回は神仏判然令という事で、と言うより自分自身が把握していないこともあり、いきなり明治に飛びます。



(参道の入口)


明治の神仏判然令では、白山寺が廃寺になり「白山比咩神社」と号します。加賀の白山比咩神社・越前の平泉寺白山神社・美濃の長滝白山神社の3社が「延喜式神名帳」に記載されていますが、加賀の白山比咩神社が最も古く、全国の白山神社の総本社とされ、白山天嶺の地は本社境内となり奥宮が置かれます。越前・美濃は分霊された白山神社とされ、越前・美濃の白山神社より勧請を受けた他の白山神社も、加賀の白山比咩神社の分霊社に由緒を書き換えられます。


(第二次大戦後は、白山比咩神社は白山神社の総本社として神社本庁の別表神社(旧官幣社など現在で353社)となり、白山頂上の奥宮を中心とする約3000ヘクタールの広大な地域を本社境内として無償譲与を受け、現在に至ります。尚、平泉寺白山神社・長滝白山神社もそれぞれ「白山神社の総本社」を名乗るようになります。)


(白峰の白山本地堂)

神仏判然令における神仏分離は加賀にも浸透し廃仏毀釈運動がおこり、その代表的なものとして白山比咩神社の事例が、昭和62年(1987)発行の「石川の百年」の中に書かれていますので引用します。


「藩政時代のこの神社には、本殿の北に「本地堂」と「地蔵堂」があり、参道手洗の上に露仏の地蔵尊像が神仏判然令(分離令)が出されと破壊され、仏像は白山村(鶴来町)住民に売却されてとりこわされた。露仏の地蔵尊像は、石川郡松任町(現白山市)の白山堂(後に地蔵堂と改称)に安置された。本地堂にあった十一面観音の木彫の座像と「ビンツル」(賓頭蘆)尊像は、金沢市白山町(現石引町)の波着寺に、また、涅槃像はおなじく金沢市野田寺町(現十一屋町)の祇陀寺に、それぞれ安置された。」


(白山比咩神社)


そして「そのほか、鐘楼堂、梵鐘、鯉口は破壊された。他方、白山頂上には、中宮・別宮・三宮の3社があり、神仏混交が行なわれていたが、教部省は明治7年(1874)にこの3社を白山比咩神社の本社と指定した。これを契機に、石川県は、権少属森田平次を担当者とし、白山麓18ヵ村の氏子を動員して廃仏を実行した。山頂にあった仏像・仏具はことごとく下山させられた。」と書かれています。



(白山本地堂の白山下山佛)


寛文8年(1668)以降、越前馬場平泉寺の支配下におかれてきた白山山頂が、明治5年(1872)に、石川県能美郡(現白山市)に帰属させられたことにより、翌々明治7年(1874)になって、石川県令内田政風は、白山山頂の神仏分離を強行し、山頂一帯の堂舎に安置されていた仏像・仏具を廃棄した。さいわい、仏像の破壊をおそれた信仰あつき白山麓18ヶ村の総代の出願により、山頂から下山させられた仏像は、牛首(白峰)林西寺と尾添村に預けられることとなり、「白山下山仏」の名で安置されました。



(白山本地堂の前にある解説板)


(現在は、白峰の林西寺「白山本地堂」では、当時の住職可性法師によって難を逃れた仏像が並んでいます。御前峰にあった「十一面観音坐像」や、大汝峰にあった「阿弥陀如来坐像」別山の「聖観音菩薩坐像」など7体と檜木の宿に有った泰澄大師作といわれる木造釈迦如来像の8体で、こちらにお参りするだけで、昔の白山は、仏教の霊地、いや、山が仏様であったのだということを実感します。尚、廃仏毀釈で白山頂上にあった6000体といわれた多くの仏像が破壊されました。)


(つづく)


参考文献:「石川県神社神道史」園田善一著 発行人園田春栄 平成17年9月発行・「石川県の百年」橋本哲哉・林宥一著 発行株式会社山川出版社 昭和62年8月など

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2016-07-20 17:57:49

神仏判然令①慈光院

テーマ:伝説・伝承

【金沢市内】
70数年、氏神さまとしてご加護受ける石浦神社が明冶まで、神仏習合で石浦山慈光院長谷寺といい、今の鈴木大拙舘のところのあったという事を10数年前、観光ボランティアガイド「まいどさん」に入るまで知りませんでした。


(今の石浦神社)

石浦神社は、古墳時代(547)の草創で、金沢最古の宮といわれています。かっては三輪神社を号し、奈良時代には神仏習合となり、江戸時代には石浦山王、石浦大権現となり、所在も現在の鞍月用水に架かる右衛門橋辺り(旧石浦村)や卯辰山、そして、今の鈴木大拙館辺りへ移ります。しかし、この神社は三輪神社として大神神社の主祭神、大物主大神を奉斎してきました。


(藩政期の古地図)


慈光院の本地仏である十一面観音は有名で、住民からは寺院として知られ俗称ジクイン(慈光院)と呼ばれていました。しかし、石浦神社が延喜式内社三輪神社であることは、承応2年(1653)6月26日書写の「加賀国式内等旧社記」に「三輪神社、式内一座石浦郷石浦村鎮座称石浦山王石浦郷七箇村惣社今属石川郡也」と記されている事でも明らかです。明治の神仏判然令(神仏分離)により、十一面観音及び仏具を宝憧寺へ、 建物も現在地に移り石浦郷の地名をとり石浦神社と改称しています。


(藩政初期の慈光院の氏子図)


神仏判然令!!耳慣れない言葉ですが、明治の初め何が起こったか、そんなことも知らず、何となく使っていまいたが、最近、明治の御一新に興味をもち辿って見ますと、明治を知るうえで神仏判然令はかなり重要なことを知りました。明治元年、明治新政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、それまでの神仏習合を禁止し、神仏判然令(分離令)が発せられています。


(慈光院跡①)

政府は、平田派国学者の影響を受け神道の国教化政策を行うため、神仏判然令(神仏分離)により、神社と寺院を分離し、それぞれを独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じ、神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じます。それがエスカレートし一部の過激派が政府の意図を越えて破壊が広がり、全国的に廃仏毀釈運動を起こしてしまいます。


それまで大きな顔をしていた僧たちに反感を覚えていた民衆が神仏判然令を「寺を廃し仏像は破壊せよ」と拡大解釈して寺を襲撃するという事態が全国各地で起きたわけです。この時期にずいぶん多くの貴重な仏像が或いは破壊されあるいは海外に流出してしまいました。)



(キリスト教の教会・イメージ写真)


明治4年(1871)旧暦11月12日(新暦12月 23日)から明治6年(1873)9月13日まで、岩倉使節団に同行した副使伊藤博文は「国民を統合するという目的のために、キリスト教に代わる神をつくろう」と考えます。その結果、神道非宗教説に立つ〝国家神道”の始まりで、〝国家神道”は、明治政府が国民の統合のために創られたものだという事が分ります。


(岩倉使節団は、訪問する各国でキリスト教迫害について抗議を受け、明治政府は浦上キリシタンの弾圧を中止し、明治6年キリスト教禁止令が解かれます。)


(つづく)


参考文献:「石川県神社神道史」園田善一著 発行人園田春栄 平成17年9月発行・「石川県の百年」橋本哲哉・林宥一著 発行株式会社山川出版社 昭和62年8月

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2016-07-15 16:34:11

昔の金澤②死語になった金沢弁?

テーマ:伝説・伝承

【旧金沢市内】
最近、地元の人にも通じない金沢弁が多くなりました。当然、観光客には通じない言葉もあり、私も少し翻訳するので、金沢弁も大分怪しくなってきました。お陰で、観光客にはウケのですが、お前の言葉は、金沢弁ではないとか汚い金沢弁だと言われ、地元の人には不評です。



昔から、男が話す金沢弁は、怒っているように聞こえるところがあり、狭い地域なのに、場所や地区よってはニュアンスや語尾も違い、耳で伝え聞いたものもあり、また、親の出身地や時を重ねる毎に随分変ってしいます。それにしても男言葉はブッキラ棒で、どちらかと言うと汚い言葉のようです。




それに比べて、金沢の女言葉は、いわゆる「いじっかしい」人付き合いで、もまれに、もまれて代々伝わった言葉のようで、心が先か、周りからの影響か、そのどちらもが合いまって金沢独特の控えも目な「おもてなし言葉」が生まれたものと思われます。




しかも最近では、学校の教科書やTV・ラジオなど、そして核家族化から祖父母と生活の場が違うこともあり、金沢弁が伝わりにくいのか、金沢の文化が消えていくようで寂しいかぎりです。昭和7年に発行された「昔の金澤」の”金沢の方言及訛言“には、84年前に書かれたもので、聞いたことのある言葉もありますが、私でも知らない言葉が出てきます。



≪84年前金沢の方言及訛言≫


ほとんど使わなくなった方言(死語?)
バンショ
(安火)、ブクリ(下駄)、オンドベ(お尻)、ケツベタ(尻辺り)、アカニシ(しぶちん漢)、ハナガイキ(風邪)、インナ(品々な)、オチョバヤシ(追従・おべっかをつかう)、カンポ(妾)、オクセン(情夫)、ドンタクレ(淫婦)、アバ(庶民の老女の自他称)




私が、聴いたことのある方言
アホノク
(仰向く)、マブイ(眩しい)、アベル(泳ぐ)、ネマル(坐る)、ヘチャ(下手)、ヤンチャ(不潔)、アセナイ(忙しい)、ガマ(横着)、ヘシナイ(待ち遠しい)、ウシナケル(失せる)、ヘイロクナ(滑稽な)チョッコシ(少し)、カカリイウ(冗談いう)デッカイ(大きい)、カラウサンナ(確かでなく、怪しい)、モノイ(疲れて辛いこと)、ケッタイナ(奇体な)、アンマ(兄)、アンニャマ(姉)、タンチ(小児)タータ(女児の自称)ハクシャ(嚏・くしゃみ)、ハチャクチャモノ(麁忽者・そこつもの)、コウバクナ(大人振る)、ウザクラシイ(厭しい)、ハンパナ(粗略な)




耳で伝わったと思われる方言
アラネ
(霰)あられ、サブイ(寒い)さむい、ハウチャ(包丁・ほうちょう)、ホウケ(箒・ほうき)、イノカス(動かす)、アスブ(遊ぶ)、コスキダ(雪掻板・こしきだ)、スズメ貝(蜆貝)しじみがい、ネンジン(人参)にんじん、ゴンボ(牛蒡)ごぼう、イビ(指)ゆび、スル(剃る)、カヤイ(痒い)




今もよく使う方言
ダラ
(馬鹿)、ダラクサイ(馬鹿みたい)、ミトモナイ(醜い)、ツカマル(捕らえられる)、ナンゾゲニ(粗略に)、シモタ(失敗した)、チョコチョコ(折々)。


(果たして、どれだけ若者に伝わっているやら・・・。)


参考文献:「昔の金沢」氏家榮太郎著 金沢文化協会 昭和7年5月発行など

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