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2016-08-21 15:29:31

寺町寺院群2時間ガイド③

テーマ:日々

【六斗の広見→桜坂→旧野田寺町→旧泉寺町】
寺町の幽霊話!!今も立像寺と西方寺に伝えられています。法光寺の隣立像寺の幽霊話は、寛文11年(1671)、寺町の団子屋に見慣れない青白い顔の女が銭2文を持って、白い餅を買いに来たといいます。それが2、3日続きます。


団子屋が不審に思い住職に聞きますと、最近、妊娠中の夫人が死に埋葬されたことが分ります。翌朝、墓を掘り起すと、お棺の中から乳飲み子が生きています。


そして、お棺の中には毎日買いにきた白い餅が5、6個ばかり並べてありました。その後、乳飲み子はお寺で育てたといいます。その子が母の17周忌に、当時、寺西庄兵衛方の十兵衛という人が招かれ、17周忌の追悼会は貞享4年(1687)だと、もっともらしく年号まで記して伝えられています。


 
(立像寺・充洽園)


「立像寺」
3代利常公の祖母寿命院の再婚先小幡家が木材を寄進し、欄間は小幡家の定紋松皮菱があるらしい、第22代日揮和上は日蓮宗の近代発祥の地として知られる充洽園(じゅごうえん)を創設します。何故か境内にはキリシタン灯篭や御堂の隅に天神堂が、そして6代横綱阿武松緑之助の分骨墓あります。


(立像寺の鐘楼と阿武松の分骨墓)
 

(立像寺経堂)


(充洽園(じゅごうえん)の事、日揮和上のところに、全国から80人ぐらいの坊さんだけでなく一般の人も寄宿して学んでいました。その頃の逸話に、寄宿生活の中でお金が紛失し、寄宿生の中から犯人が見つかった。その時、学友達は犯人を破門するよう和上に迫ったという。和上は“それであれば犯人は破門しないが、みんなを破門する”と言われたという。“犯人にこそ教えが必要で和上が見放したら誰がその者を導くのだ”と・・・。)


「板橋区と金沢④野口遵2」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12148905459.html

「横綱阿武松(おおのまつ)“故郷に錦を飾る”」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10522340740.html




(手前より、妙法寺・実成寺・本性寺)


「本性寺」
建仁寺流の宮大工山上善右衛門の墓が有ります。私は見ていませんが、墓は名棟梁にあやからり、後世の大工が墓石が削られ、文字が消えているそうです。善右衛門は寛永5年(1628)3代利常公に招かれ当時は五十俵でしたが、後に知行百石の士分に取り立てます。瑞龍寺、妙成寺、気多大社、梯天満宮、那谷寺など、今、国宝、重要文化財建築を、そして明治4年の焼失した六斗の玉泉寺を建立した名棟梁でした。


「実成寺」
前田家10代藩主重教公の生母実成院から国家安泰を祈願するように命じられ、宝暦11年(1761)に実成院が亡くなり、ここで葬礼が行なわれ、霊屋を設けられました。実成院の法名は実成寺から採ったものと思われています。


(妙法寺)


「妙法寺」
加賀藩初代藩主前田利家公の弟佐脇良之の息女(実名不詳・園智院妙浄尼)で、生母は淀君の乳母「大局(だいのつぼね)」を称した人、父亡き後は利家公お松の方の養女として育まれます。


「寺町台“寺活協議会の寺院”妙法寺」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12022418472.html


  
 
(妙棺屋小路)


「奇談:妙棺屋小路」
藩政後期、今の寺町3丁目の八百屋平野屋さんの横小路を通称妙棺屋小路といいました。当時、小路の南側角に昭和41年頃まで酒屋を営んでいた岡作酒造のご先祖越中屋の屋敷があり、通称越中屋小路といい、他、小路の先に浄土宗の玄光院が有ることから玄光院通りとも言われていたそうです。


「野田往還の奇談―妙棺屋小路」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12063761997.html


「W坂と石伐坂、そして桜坂」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12065023459.html


「宝円寺26世慈鼎九峰の隠居寮」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12065651049.html



旧野田寺町の左側を下ると、妙福寺、本因寺、長久寺、高岸寺、新桜坂を渡り、妙典寺、諏訪神社、つば甚、中原中也の文学碑、つば甚、谷口吉郎生家跡へ・・・


「妙福寺」
加賀藩の割場足軽付きだった岡本右太夫が明和3年(1766)に江戸から2株の孟宗竹を持ち帰り金沢の桜木町自宅に植えた。しかしこの孟宗竹は枯れたので4年後の明和7年(1770)に再び江戸から取り寄せ自宅と菩提寺のここ妙福寺に植えたところ、今度は植えついた。その後、内田孫三郎氏が孟宗竹の普及につとめ、泉野、十一屋地区に広がり、さらにと富樫、内川地区に移植され今に至ります。
「長久寺」
曹洞宗鶴雲山長久寺、前田利家の妹(利春三女)津世の菩提寺、慶長13年(1608)高畠定吉によって建てられ、延宝4年(1676)現在地に移る。境内には樹齢400年の「銀木犀」があります。

(元禄2年(1689)7月20日、松源庵で「残暑暫 手毎にれうれ 瓜茄子」を発表されたのち「奥の細道」では「秋凉し 手毎にむけや 瓜茄子」となったもの、その日は野田山に遊んだと曽良の日記にあるが、この寺での発句という訳ではなく、元禄2年(1689)には、此処長久寺は野田山沿道にあったので門前を通ったものと思われます。)


 
(長久寺)


「高岸寺」
高畠家の菩提寺。高畠家の祖は利家正室松の母が再嫁した高畠直吉で直吉の孫定吉(さだよし)には利家の妹津世が嫁ぎます。定吉は利家の1歳上で「荒子七人衆」として常に利家と激戦を共にした側近である。

当初は家禄一万七千石で八家並みの禄高でしたが、子孫の禄高は次第に減じられ七百石となり明治初期金沢を離れますが、屋敷は日銀金沢支店の所にあった。

高岸寺の鐘楼堂は「江戸時代、周辺に不審な動きがあると、鐘楼堂から合図を送っていたそうで、戦時中に金属供出で鐘はなくなったが、かっては「つかずの鐘」と呼ばれて打ち鳴らす事は、ほとんど無かったようです。

この寺は境内から金沢城辰巳櫓跡が正面に見えます。口伝で代々伝えられたように金沢城の見張り台だったのでしょう。創建は天正15年(1587)現在よりもう少し下(諏訪神社あたりか)に有ったようで現在地には寛永13年(1636)に移ります。

「諏訪神社」
室町初期創建の「八幡宮」が起源と伝えられています。3代利常公の時代、鷹狩祈願のため諏訪神明を勧請合祀しました。旧暦7月26日の月待ちの行事は、この神社からは卯辰山の稜線がよく見え、午前2時前頃に、卯辰山の稜線から月光が三つに分かれて昇り始め、それが合体して見えるので「三光さん」と呼ばれていました。



(つば甚)


「料亭つば甚」
藩政時代は「つば屋」と称し、主人は刀の鍔を造る象嵌師だったそうです。仕事の傍ら犀川で川魚を捕り、捕った魚を料理し友人、知人に振舞っていたのが料理屋の始まり宝暦2年(1752)だといわれています。幕末の庶民の生活が書かれている「梅田日記」には、友人と食事をした記述があります。

「中原中也の文学碑」
松月寺前の「寺町五丁目緑地」には、中原中也の文学碑があります。中也は軍医だった父親の赴任地金沢で幼少期を過ごし、この辺りに住んでいた事を記念したもの。昭和4年(1929)に発表された「サーカス」は近くの神明宮での記憶によるものといわれています。



(谷口吉郎生家跡)


「谷口吉郎生家跡」
文化勲章受章者の建築家故谷口吉郎氏の生家跡、金沢市は建築文化拠点とし、谷口氏を顕彰する国内初の建築博物館にする予定で改修工事にあたっています。「谷口建築」作品の一部復元を視野に入れ、子息の鈴木大拙館を設計した世界的な建築家谷口吉生氏が設計を担当しています


向かい側には、伏見寺、松月寺、淨安寺、極楽寺が・・・


「伏見寺」
芋掘り藤五郎ゆかりの寺。ご本尊、阿弥陀如来像は平安初期の金銅仏は、国の重要文化財。護摩堂にある木彫の不動明王坐像は、弘仁期(810~24)の作と伝えられている。



(松月寺の大桜)



「松月寺」
境内に「大桜」とも「御所桜」とも呼ばれる有名な老桜がある。これは松月寺中興至岸和尚が3代利常公から小松城にあったものを拝領したと伝えられている。周囲6m、高さ14mの大木。国の天然記念物。大正時代、市電を敷設による道路拡幅の際、この桜と立像寺の経堂があるため、犀川側の敷地が提供され道路拡幅が行なわれたと聞きます。泉鏡花の「桜心中」のモデルです。

「浄安寺」
尾張荒子出身の貞蓮社白譽岌松上人が天正3年(1575)同郷の利家の命を受けて建立。延宝元年(1673)作の「寄木造り阿弥陀如来坐像」は金沢4大仏のひとつ。

「極楽寺」
後醍醐天皇の皇子・初祖八宮明心仏眼法親王の木造を安置。朱塗りの欄干は格式の高さを表している。3代利常が、越中守山極楽寺の第一世・暫譽上人に帰依し、金沢に招いて創建。その他、丈六の阿弥陀仏(金沢の4大仏の一つ)2003年発行の「武士の家計簿」の猪山家菩提寺でした。


(左・野田寺町)



「旧蛤坂町と「寺町追分」2」

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12035614814.html  

「のだ道つるぎ道標」
藩政時代は、広小路から寺町に通じる道は無く、大蓮寺から常徳寺前の間に細い路地が有るのみで、街道である「左のだ道(野田往還)」や「右つるぎ道(鶴来街道)」へは蛤坂から通じていました。



寺町追分の道標)



(つづく)



参考資料:「静音の小径」金沢市観光交流課 2012.3発行ほか

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2016-08-19 12:58:34

寺町寺院群2時間ガイド②

テーマ:日々

【六斗の広見→桜坂→旧野田寺町→旧泉寺町】
笹下町の細い小路を抜けて旧野田寺町の通りに出てきました。向かい側に見える新桜坂は昭和45年(1970)5月にできた新しい坂です。宝暦の大火は、旧暦宝暦9年4月10日~11日(1759年5月6日~7日)に、折からのフェーン現象に煽れたこの辺り(妙典寺と高岸寺の間)からの飛び火は犀川を越え、十三間町の上町に延焼し、以後火は四方に飛び火します。


(左妙典寺右高岸寺・新桜坂・遠方に小立野が眺められる)

(高岸寺より犀川と遠方に金沢城が・・・)


(被害状況は、「加州金沢城中焼失の覚」によると10,508戸。侍と関係する家4150軒・寺社99軒・町家4775軒・寺社門前の百姓屋1506軒、毀家23軒で外に土蔵283棟、橋梁29、番所27、木戸61の焼失があり、焼死者26人という空前の大火でした。金沢では旧暦3~4月に大火が多かったのは、北陸地方特有のフェーン現象によるものです。)



(ピンクは、宝暦の大火で類焼したところ)


「金沢大火焼失域図(宝暦9年、横山隆昭家蔵)」によると、六斗林で被害にあったのは火元舜昌寺の隣、月照寺まで、向側の玉泉寺の東門前で、広見沿いでは国泰寺東隣の遍照寺が焼失、野田寺町では、笹下町から焼入り、極楽寺から大円寺まで、出火から半刻(約1時間)ほどで向側の妙典寺までの両側が焼失します。



(今の笹下町)


(藩では応急策として幕府から5万両を借入れて一時しのぎをしますが、当時の財政責任者の前田直躬は収集の見込みはないと辞職し、年寄3人がその後を受け、家臣には借知を、領民には冥加金を割り当ています。)


城下では大火は加賀騒動で処刑された大槻伝蔵等の祟りだとささやかれたといいます。6代藩主前田吉徳公の三男で、母は吉徳公の側室真如院の前田利和(勢之佐)の幽霊の仕業だというデマが飛びだしたとも伝えられています。




(大円寺)

(大円寺解説板)


「大円寺」
大円寺には、加賀藩出身の士族が中心となって結成された「忠告社」という政治結社の事務所が置かれました。明治8年(1875)東別院での結社式には約1000名が結集したといいます。明治32年(1899)フィリピンの独立戦争に武器弾薬(軍の払い下げ銃14000挺、弾薬500万発)を積んだ「布引丸」をフィリピンに送り込もうとしたが、長崎を出港した後、嵐に遭い、北国新聞社2代目社長林政文らは救命ボートで脱出したが、生きて帰ることができなかった。大円寺には、林政文の墓があります。


(林家の墓)


(林政文は1869年に長野県松本で生まれ、兄に初代「北國新聞」社長の赤羽萬次郎がいる。8歳の時に林政道家の養子になり、1887年一橋の高等商業学校に入り、「昇格問題」で十数人の学生と行動を共にして、退学した。1894年に『佐久間象山』を執筆し、大隈重信から清国の商業視察を嘱託され上海に渡った。日清戦争が勃発し、帰国したが、東京毎日新聞の従軍記者となって再び中国に渡った。養父林政道の病気で松本に帰り、その後東京に転居して、台湾興業会社を興して、台湾開発(侵略)に乗り出した。1898年「北國新聞」社長の赤羽万次郎が死去し、その後を継いで、第2代社長となった。)



(陸義猶の碑)


「鐘声園」
寺町は環境省が認定した「残したい音風景100選」に選ばれた地域です。毎週土曜日夕方6時に一斉に鐘を打つ「土曜の晩鐘」が寺町の空に鳴り響きます。鐘声園のベンチにすわり、異なる梵鐘の音に耳を傾けると次第に気持ちが澄んでくるそうです。


「法光寺」
紀尾井町事件の斬奸状を起草した陸義猶(くがよしなお)の碑が法光寺の境内にあります。また、裏の墓地には陸家一族の墓がありますが、お寺については公表されていません。陸義猶(くがよしなお)は維新になり、藩政改革に出遅れた金沢藩は薩摩藩を模範とし、西郷隆盛たちの思想に大いに共鳴します。これが石川県士族と西郷隆盛一派との連携のきっかけになります。



大久保利通暗殺の主犯格、島田一郎も陸の思想に同調したひとりで、島田は足軽身分でしたが、藩の洋式兵術訓練所に学んで維新戦争に従軍、陸軍大尉に進みますが、藩兵解散後は東京に出ていわゆる国事に奔走。明治7年(1874)の佐賀の乱で、江藤新平の処分に反対して左院に建白書を提出したが、無視されたことに憤激して「とても書面にては志を達することは出来ないと悟りこの上は腕力を用いる」しかないと考えるようになり、その年、石川に「忠告社」が結成されると島田もこれに加わりました。忠告社は中央に設立された「愛国社」の石川県分社でしたが、陸は「忠告社」の副社長となっています。大久保利通暗殺時に斬奸状を起草した事から 終身刑となります。明治22年(1890)特赦で出獄、以後前田家の委嘱で藩史編集に携えてり、大正5年(1916)8月死去。74歳でした。)



(法光寺境内の陸義猶の碑)


(つづく)


参考文献:「石川百年史」石林文吉編 昭和47年11月 石川県公民館連合会など

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2016-08-18 20:48:34

寺町寺院群2時間ガイト①

テーマ:日々

【六斗の広見→桜坂→旧野田寺町→旧泉寺町】
歳のせいとは言いたくはありませんが、“昼間に出歩く”と夕食を食べるとTVを付けっぱなしで寝ています。それでも以前は11時には目が覚め、ブログを書いたり、原稿を作ったりしていたのですが、最近は起きられなくなり、ここえ来て夜中にオリンピックが始まり日本がメダルを獲るもんだから、夜中に起きだし寝不足ぎみ、お陰で何と今月のブログはこれが2つ目の投稿になります。単なるいい訳ですネ・・・。



(藩政期、泉寺町界隈の古地図・玉泉寺)


今回の話は、「寺町の町歩き」に引き続き「願念寺のお話」「怪談対談」のコラボレーション企画で、私が「寺町の町歩き」のガイドを担当し「六斗の広見」から寺町界隈を2時間かけて巡った時のお話です。



(願念寺)

(願念寺で怪談談)


(通常のガイドは、各寺の歴史や町の成り立などをお客様に興味を持って聞いて戴けるような話しですが、今回はコラボ企画ということで、後に続く願念寺の話や怪談対談を意識して、昔の寺町に出てくる幽霊や大火、事件、明治の政治結社の話なども組み込み、また、新(あたらしい)ネタの発掘などにも取り組みました。)


(旧笹下町)

(桜坂から犀川桜橋)

コースは、裏通りの旧笹下町(きゅうささかまち)を経て新桜坂の上へ、さらに右側を上(かみ)にむかって歩き、見晴らしの良い桜坂を下り、W坂を登り、W坂上の眺望台では犀川を眺め、旧野田寺町の通りに出て左側を下り蛤坂上から旧泉寺町寺院群から、イベントが行われる願念寺に向かいました。


(寺町界隈の古地図)


「寺町の成立つ」
泉と野田に約70のお寺が集められたのは、大阪の夏の陣も終わり、家康は中国の年号をパクリ、年号を「元和」(1615~1624)と改められた時期で、元和は元和偃武(げんなえんぶ)。元和は平和の元(はじめ)と書き、偃武は武器を武器庫に収まることで、このように平和をめざした時期に、外様ではあるが徳川家と親戚関係にあった前田家が、防衛上から寺院が集められます。



(月照寺向かいの初華)

(初華の室内)

「寺町めぐり」
スタートは、最近オープンした小さな町家salon「初華(ういか)」さん。場所は月照寺前、六斗の広見から徒歩1分の旧鶴来街道沿。元紙屋さんで、旧野町小学校の近くの文房具店跡を譲り受け、懐かしいノスタルジックな空間に改装。1棟貸しのゲストハウスで1階のスペースをコミュニティースペースやギャラリーとして、不定期開催ですが月に数回イベントが開催され予定です。 



(藩政期の玉泉寺と天満宮と六斗の広見)

(今の六斗の広見)


「六斗の広見、玉泉寺そして宝暦の大火」
藩政期、金沢では火災が多く、火除けを目的に広見が作られたと言われていますが、他にも高札を立てるため、荷車の回転をするためなど様々な使われ方をしてきたこと、六斗の広見は最も広く今も残っています。


詳しくは
六斗の広見と宝暦の大火
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12041889660.html
玉泉院と玉泉寺
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12037313755.html


「旧笹下町」
金沢市に歴史のまちしるべ標柱一覧によると、泉野村の地であたり一帯が竹藪であったことからこの名がついたという。笹ヶ町とも書いたそうです。文化年間には、こそや小路という私娼屈があり、九峰事件というスキャンダルの舞台なりますが、明治になっても健在で、九師団の兵隊達や、寺の僧侶達が沢山通っていたらしい・・・。



(興徳寺前の旧笹下町の石標)


詳しくは
九峰事件①~④
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12067469689.html
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12069068574.html
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12070085721.html
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12070847835.html


「興徳寺」
俗称赤門寺、室生犀星の生母ハルが父小畠吉種の死後、片岡某と住んだという伝説が今も残る日蓮宗のお寺で、子育鬼子母神が奉安され、優しく子を抱き、天女の姿をした尊像が安置し祀られております。


(つづく)

参考文献:「室生犀星ききがき抄」新保千代子著 昭和37年12月・角川書店発行他

(初華の玄関)
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