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2016-06-27 18:33:27

100円ショップ!?江戸時代の四文屋(しもんや)

テーマ:伝説・伝承

【江戸(東京)】
今、100円均一の店が全国に広がり、品数も多く大型店もあり、見た目にはどの店も繁盛しています。近年、消費税がプラスされワンコインの100円で収まりませんが、江戸時代もワンコインの店がありました。お店の名前は四文屋(しもんや)と言ったそうです。当時ワンコインだった4文(約80円)均一で、お菓子やおでん、煮魚など、食べ物を屋台で売っていそうです。



(100円ショップ)


(「四文屋」、最近は串焼き1串100円の居酒屋「四文屋」として東京や札幌で有名だそうですが、たいがいの辞典では、「江戸末期、四文均一の食べ物や品物を売った大道商人。また、その店。」と1行で簡単に紹介されています。)


四文屋(しもんや)が登場したのは田沼意次の時代です。当時、発行された四文銭が切っ掛けだったといいます。今も昔もコイン1枚で物が買える利便性と、庶民にとって手頃な価格だったこともあり、四文屋という新商売が繁盛したといいます。


真鍮四文銭)


この四文銭(真鍮四文銭、明和四文銭)は明和5年(1768)4月、幕府が銭の信用回復を狙って発行されていますが、綺麗な黄金色で、寛永通宝鉄銭がきわめて不評だったこともあり、こちらは見事に成功しました。この四文銭は裏側に「青海波(せいがいは)」という波模様が描かれていたため(一文銭も四文銭も表は寛永通宝の文字であり、一文銭と区別するため)、「波銭」と呼ばれていました。


(四文銭、真鍮で裏は青海波)

四文銭も次第に地方でも流通していったと思われますが、この四文銭の発行がキッカケで商品の値段は四の倍数、八文、十二文、十六文が主流になり、やがて江戸では四っで割り切れるものが多くなったそうです。



(寛永通宝各種、四文銭、一文銭、鉄銭の一文銭)


特に江戸ではよく流通したようで、四文屋が時流に乗って急増します。これは面倒くがり屋が多い江戸っ子に受けて明朗会計の店として繁盛したのだといわれています。また江戸の串団子もその影響を受け、当初は五個刺しでしたが、それを一個一文、一串五文の販売が、この四文銭が流通すると、一串五文ではいちいちお釣り一文が必要になって面倒だと、一個減らして一串四個にして四文で販売するようになったといわれていますが、現在でも関東は主に四個が一串で、関西では主に五個が一串になっているそうです。



(1串4個の団子)

(1串5個の団子)


田沼意次と言えば、江戸中期の幕府老中です。父は紀州藩の足軽で、徳川吉宗に従って江戸に入り幕臣となります。意次は 15歳のとき西の丸つき小姓として仕え、元文2 年(1737)主殿頭 (とのものかみ)、宝暦元 年(1751)御側御用取次となり、その後、商人を優遇していたことから、商人の力が強くなり賄賂が盛んな乱れた世の中になったと言われています。




(田沼意次)


また、商業政策の専門家で、 農業より商業を重視したことで、華やかな世の中をつくったと評価が分かれています。近代では「田沼意次=賄賂政治家」というのが通説でしたが、近年は、当時としてはかなり進んだ経済政策を行ったと再評価されています。


従来、幕府財政は米などの年貢収入に依存していますが、それを、運上金・冥加金という形で商人から金を集め、幕府財政の貨幣収入の道を開いたのは田沼の業績であり、今日では研究者の間で田沼意次は高く評価されています。それは、商品経済の発展に伴う賄賂の増加などの反面、幕府の財政基盤の確立には成功します。明和7年(1770)には、幕府の備蓄金は171万7529両と5代将軍綱吉以来の最高値を記録しています。


(昔400円(十九文)ショップは、今100円ショップ)


それから「十九文店」や「十九文屋」と呼ばれ名前の通り、どの商品も十九文均一で売られていた店があったといいます。十九文均一で物を売る店で、二十文より一文安いということなのか、 今の1,980円(イチキュパー)の商品と同じ発想で、割安感が売りの店らしい、 十九文は現在の価値で言うと、約400円弱程度、女心は今も昔も変らないようです。


商品は、四文屋とはかなり違うようで、女性の日常品のかんざしやクシ、糸類、鏡、男性の日常・嗜好品である、キセル、かみそり、子供用のおもちゃや人形、 さらに現代の文具とも言える、筆や墨、お菓子などもおいてあり、当時大流行をしたそうです。


( 江戸に観光にきた地方の人々は十九文屋でお土産を買って帰ったという記録もありますので、 現在外国人がきて、100円ショップでお土産を買って帰るような感覚に似ています。)


参考ブログ

http://the-mystery.net/mystery09/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE100%E5%86%86%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97-%E5%8D%81%E4%B9%9D%E6%96%87%E5%BA%97/#sthash.nwRyPiPs.dpuf

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2016-06-25 16:11:46

武士の既得権益②!!

テーマ:伝説・伝承

【金沢及び日本】
加賀藩(金沢藩)では、版籍奉還により、明冶2年(1869)6月14代藩主慶寧公は華族に列しられ、年収6万7,201万石に決ります。慶寧公の実収納63万6,876石の10分の1に北越戦争の功よる賞典禄高1万5千石に対する祖額3千5百14石2斗を加えたものですが、それまで藩主として収入18万石に比べれば少ないが、それは藩政の経費が含まれないので、これが純粋な前田家の収入であることから、それは悪い待遇とはいえず、今の貨幣価値では、年収約18億円(明冶初年の1円は今の3万円として)にのぼり、華族がいかに優遇されていたかが分ります。




藩主の家禄が決まり、それに準じて藩士の家禄が定められ、元100石以下は据え置き、3,000石以上は10分の1とし、それなりに優遇されます。本多政均は5,000石、長成連は3,300石、横山隆平は2,600石、奥村栄滋は1,551,5石、村井又六1,547,0379石、前田豊、今枝紀一郎、奥村則友等1000石以上ですが、加賀藩で家禄を受けていた士族は約15,000人で、大部分が100石未満の約14,700人、約300人が、版籍奉還後は、家禄が一部、現物支給の飯米を除いて、金禄で支給するように変り、されに5年後、士族全員が金禄公債になります。




明冶4年(1871)12月、100石未満の家禄奉還は、4年半分―6年分の1時金を支給し、拝領地であった官地、官林が時価の半額で払い下げということになります。明冶7年(1875)11月になり、高禄者にもこれに準じることになり、徐々に奉還者が増えてきたといいます。


しかし、明冶政府は、1日も早く、西洋諸国並みの近代国家を目指すことから自発的な奉還を待っていられなく、明冶9年(1877)8月、ついに家禄を全廃して一時金(金禄公債証書)を交付します。金禄公債の交付は、25円未満は14ヶ年分、7万円分は5ヶ年分、年利も5―7分で上に薄く下に厚い仕組みになっています。

(家禄は、その家が代々受け継ぐ“永世禄”と個人限りの“終身禄”がありますが、これは“永世禄”の場合で、“終身禄”は半額でした。金禄公債の士族の最高は本多家で27,339円39銭6厘、華族になった前田家は、1,194,076円、年利59,7003円84銭5厘(1円が今の3万円として約18億円)と桁はずれの多額で、前田家はこの資産があり、その後、多額の寄付が可能になってきます。)



金沢では、明冶4年(1871)2月金沢の人口は、士族(卒族含む)が約9,539万人、家族も含めると52,016人で平民は家族を含め6万8810人、神官、寺院、御預人1,637人の123,363 人です。当時、日本の人口は約35,00万人、その内、士族は約34万人。家族もふくめると約200万人と全国民の約6%ですが、金沢では43%と特別な町で、士族の再就職は難しく失業者が続出します。


(明治の西南戦争時約4万人・日清戦争時約8万人と比べると、約34万人は余りも多かったが頷けます。)




版籍奉還から2年後、明冶4年(1871)7月14日(新暦8月29日)廃藩置県が断行されます。年貢を新政府で取まとめ、中央集権を確立して国家財政の安定を図ること、そして西郷隆盛の決断から、一つの君主のよる一つの軍ということから、士分の解体が図られ、また、政府の支出の35%といわれた秩禄が処分され、士族の大量解雇が狙いから、徴兵権・徴税権が中央に集中され、各府県へは官僚(府知事・県令)が派遣されて、中央集権体制の土台が出来上がります。


(廃藩置県前は、軍は各藩から派遣された軍隊で構成されており、統率性も欠き、また、各藩と新政府や新政府内での対立が続きます。それから各藩の中には財政事情が悪化し、政府に廃藩を願い出るところも出ていました。)





また、家禄は金禄証書(一時金)に変っただけで無く、明治6年(1873)には、政府は新たに税を課することになり、しかもその率は高くて、1割2分というもので、収入は激減する上に、こんな高率な税を課したのですから、士族の生活はほとんど致命的な窮乏へ追い込まれ士族にとって踏んだり蹴ったりのありさまでした。




さらに西南戦争が終わる明冶11年(1879)には、明冶政府は金禄公債証書の売買、質入を許可し、その買い上げも始めたので、士族は競って公債を売り、その代金を金融会社の預けその利息で生活しようとします。また、一方で金融会社から金を借りて事業をしようとする者も出でますが、そこへ超インフレです。金融会社の倒産と事業の拙劣から、ほとんどが失敗に終わります。



そして士族は凋落し、はじめて四民が平等の世界が生まれました?


(つづく)


参考文献:「石川百年史」編者石林文吉 石川県公民館連合会、昭和47年11月発行ほか

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2016-06-25 11:02:23

武士の既得権益①!!

テーマ:伝説・伝承

【金沢及び日本】
最近、枡添要一氏の事から政治制度のからくりに多く人が気付き、国会議員や地方自治体の長や議員の既得権に目が向けられています。公職選挙法や政治資金規正法は議員が作ってもザル法になるだけで、先日、既得権で官僚と対立していた民間シンクタンクの方が、言いたいことを言うためにと、あえて自民党比例区から立候補し、声を大にして、第三者機関が決めるべきだといっていましたが、人間の集団が利己的に活動し存続している限り、勢力が拡大していくと、時間が経て何らかの既得権益をもつようになるのが人間(動物)の性、その典型が藩政期の封建制度だったいえます。




多くの武士達は気付きながら、ある者は当然のことと感受し、ある者は疑問を口に出せば社会からはみ出してしまう恐怖から、また、百姓は“物言えば口ぶる寒し“とあきらめ、武士は”百姓は生かさず殺さず“(百姓に財の余らぬように、不足なきように治める)などと、勝手な理屈を付け数百年を緩むことなく既得権益が温存されてきました。


武士の家禄は、藩政期は一旦緩急あれば、兵士として国(藩)を守る使命を帯びているためのものでしたが、明治維新は、まったくの無為徒食に陥ってしまいます。版籍奉還から廃藩置県は、家禄の廃止の経過措置として行なわれます。)



加賀藩では、加賀、能登、越中の三州で、藩政期、自ら生産しない武士および家族6万人に対し、6割の米が支給され、100万人を超える百姓は、その残り分でかろうじて命をつないでいました。国内でも大なり小なり同じようの仕組みで百姓にとっては、過酷極まりない社会で百姓の犠牲のよって支えられていました。




明冶維新は、土地や人を幕府から天皇に返し、武士の既得権を全廃する巧妙な革命だといわれていますが、版籍奉還から廃藩置県まで7年を有します。家禄をもらい無為徒食の士族に、家禄という既得権を取上げるという革命は、家禄の減俸、そして金禄への切り替え、全廃へと段階的に実に巧妙に行います。明冶政府の廃藩置県まで財政は、全国3000万石のうち旧幕府の800万石のみで、他は、各藩が管理し初めから財政難で、また軍事的にも諸藩に対抗する兵力を確保できなかったため、明冶4年(1871)7月の廃藩置県までそのまま諸藩に残されます。


(明治元年(1869)には大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)らの主導で版籍奉還が行われ、家禄は政府から支給される形となり、禄制は大蔵省が管轄することになりますが、政府直轄領800万石、他2200万石は廃藩置県まで各藩で徴税権は藩にありました。)




(つづく)


参考文献:「石川百年史」編者石林文吉 石川県公民館連合会、昭和47年11月発行ほか

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