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2016-12-08 16:18:16

金沢・御所町と卯辰山の昔むかし

テーマ:伝説・伝承

【御所町→卯辰山】
御所町といえば、あの元ヤンキースの松井氏やACミランの本田君の母校星稜高校のお膝元として知られていますが、昭和24年(1949)考古学の高堀勝喜氏踏査で古墳時代後期の円墳群と評価。昭和28年(1953)には「御所八つ塚山保存会」結成され、以後、金沢大学の発掘調査で縄文・弥生時代の土器が出土。このことから縄文時代から集落があったとみられています。今から1300年前、京都山城の賀茂神社の分社として加茂神社が創建され、今も町民から厚く信仰されています。

 

(御所・金腐川・真ん中金沢星稜大学・左桜丘高・右八ヶ塚山)

 

(八ヶ塚古墳)


さらに、11代垂仁天皇(すいにん)の五世である大兄彦君(おおえのひこぎみ)の古墳も発見され、御所八ヶ塚古墳(御所八塚山130 m)と言いますが、このことから縄文・弥生時代から集落があったとみられています。

 

(加茂神社)

 

(余談:21代雄略天皇時代、加賀国の初代加我国造大兄彦君(おおえのひこぎみ)は、第11代垂仁天皇の第十皇子、磐衝別命(いわつくわけのみこと)の四世の孫。磐衝別命は垂仁天皇の命により、能登滝崎に悪鳥が領民を苦しめたため派遣され皇子は首尾よく悪鳥を射落します。磐衝別命の3犬が悪鳥の羽を食い破ったことから「羽咋(はくい)」の地名が起りといわれています。) 

 

(星稜高校)


建武2年(1335)には京都から二条大納言師基(もろもと)が加賀の国司に任命され、この町に大きな屋敷を構え、その場所が御所(五所)と呼ばれその名が地名として残っといわれています。

 

(金沢星稜大学)

(今も地名が残る、談義所地蔵尊)


現在の地名にも、その時代の名を残すところとして、二条大納言藤原師基(もろもと)が会議をしたところとして談義所、社寺のあった辺りが神宮寺、それから御所の卯辰の方角(東南東)になることから卯辰山と言う説もあります。

 

(3代目の一本松・現在は枯れて無い)


約800年前、義経伝説では、今の宇多須神社の横を流れ“ひがし茶屋街”を貫け浅野川に流れる矢の根川は、義経主従が弓矢の矢を洗ったということから名前が残ったといわれています。卯辰山の毘沙門天(今の宇多須神社奥社)近くに義経所縁の袈裟懸け(一本松)があったと聞きます。

 

(矢の根川)

 

卯辰山⑦一本松
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11559647068.html


約400年前には、今の宇多須神社のところに、前田利家公を祀る卯辰八幡宮が2代藩主利長公によって勧請されます。家康への配慮から八幡宮と神明宮を祀り、利家公を合祀する形で祀ります。

 

(卯辰八幡宮は、2代藩主は藩士に命じ禄高に応じて祭祀料は奉献させますが、3代藩主は前令より厳しく、藩士には、佳節や毎月の1日と15日の2度参詣することになっていたそうです。それため、この辺りは栄え今の烏骨鶏の店の辺りに大鳥居があり、今のひがし茶屋街が卯辰八幡宮の参道になっています。また、江戸時代中期には、毘沙門天奥宮の御旅所として卯辰八幡宮の境内に移し町人も集まるようになります。明治になりと利家公を祀った卯辰八幡宮は、境内の毘沙門天に譲り「宇多須神社」になり、卯辰八幡宮は今の尾山神社に遷座します。)

 

(幕末まで、ひがし茶屋街の入り口に鳥居があった)


≪卯辰山の地名諸説≫
1 宇多須(うたす)神社社記によれば、養老年間浅野川のあたりから古鏡が出て、その面に卯と辰の文様があったので、卯辰神としてこの辺りを卯辰山と称した。
2 山の頂上付近に宇多須神社奥殿があり、それが慶長以前に宇多津にかわり、それから卯辰と呼ばれるようになった。
3 河北郡小坂村小字卯辰村があったので、古名宇多須山が語感も似ているので、卯辰山と称されるようになった。
4 以前、兼六園の所にあった本源寺から見て卯辰の方角にあるからと言う説?
(卯辰の方角にはないので誤説か!!)

 

(宇多須神社・御旅所)

 

(宇多須神社奥宮)

 

「卯辰」という名の由来は、3番目の山の麓の村が卯辰(うたつ)で山が宇多須(うたす)と語感が似ているというのが一番説得あるように思えます「うたす山」「うたつ山」だと云う方が言いやすいかもと思われます。

 

(卯辰村の名の由来は、「御所」から見て卯辰の方角だから卯辰村といったという説があります。)

 

参考文献:日置謙編「加能郷土辞彙」・平沢一著「卯辰山と浅野川」・ウィキペディア百科事典「国造」など

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2016-11-30 17:42:31

足軽の仕事③

テーマ:伝説・伝承

【金沢】
さて、足軽というのは、鎌倉時代の書物に「身軽に行動する身分の低い歩兵」として登場します。戦国時代になると、団体戦闘要員として広く知られるようになりました。豊臣秀吉のように、戦場で功名を立て出世するのが夢でしたが、合戦もなく平和な藩政期になると、人数も制限され、リストラにもあい、次第に小人数になり、一人で軍事訓練と行政の両部門こなす多忙な日々を送ることになります。最近、観光客に英語圏の人が多くなり「ローサムライ」と訳されています。

 

(足軽屋敷・清水家)

 

加賀藩の足軽は、初代藩主前田利家公の頃には「御弓之者・御鉄砲之者」という区分しかありませんでしたが、5代藩主綱紀公の時に「大組・中組・先手組」に編成替えされ、足軽たちは、軍事組織としてこの3組に配属され、武術訓練にあたるようになったのです。

 

(城下の土地利用)


≪軍事組織≫
大組足軽
加賀藩の戦闘要員としての主力部隊の内、鉄砲隊となる足軽。
中組足軽 持方足軽とも、弓足軽7隊、鉄砲足軽4隊で編成する全7組の足軽。
先手組足軽 7組の人持組配下に属し、弓足軽7隊、鉄砲隊足軽14隊で編成された足軽。


(他に、餌指足軽・御手木足軽・御預地方附足軽がいました。)


武術訓練以外の日常業務としては、行政組織いずれかの役所に配属され、警備や雑務などに携わります。

 

≪行政組織≫
御普請会所附足軽
土木を担当する役所を御普請会所いい、ここで働く足軽。
公事場附足軽 公事場は加賀藩の最高裁判所、4人の公事場奉行のもとで働く足軽。
町附足軽 金沢町奉行のもとで働く40人の足軽。
割場附足軽 諸々の雑務(警備・掃除・走り使い・藩主が外出の時のお供を割り当てる割場に所属する足軽。
定番附足軽 「定」は「城」のこと、城番をする足軽(老齢なるとこの職に就く)
御船手足軽 大野川に船小屋があり藩船の維持管理をする足軽。
押足軽 御手回り足軽ともいい、殿様が騎乗するとき、下馬するとき、馬の口を押さえる足軽。


(早道飛脚足軽 大名飛脚ともいい、国許と江戸藩邸のあいだで文書を運ぶ飛脚足軽。)


足軽は組地に住み、家へは、良い知らせの昇進・拝領などは、前日に使いの者がやってきますが玄関から入り、それに対してお咎めなどの悪い知らせは勝手口から、いつの頃からかそんな慣習ができていたみたいです。

 

(足軽屋敷の内部)


藩制期の城下町は、お城や藩関係の施設を中心に、城下の大部分を武家屋敷が占めていました。城下の周辺には、高禄の八家や人持組の屋敷が点在し、その多くは上屋敷と下屋敷をもち、下屋敷内には陪臣(人持組の家臣)の居屋敷が置かれ、陪臣として所属する足軽(幕末には、約2000人)もそこに住むようになりました。

 

(天神様)


公務がないときの足軽は、家で家族と内職に精を出します。加賀藩の足軽たちが行なった内職は、お盆用の切子灯籠、台切子、お盆が過ぎると、お正月に飾る天神様の灯籠、練雛や土雛に彩色をしたもの、あるいは、張子の虎や福助、起き上がりなどの玩具を作っていました。

 

(加賀起き上がり)


足軽は、名目一代限りでしたが、親の跡を継いで足軽になる場合がほとんどで、加賀藩では足軽の定数が決まっていたため、足軽職に召抱えられには、親である前任者が退職または死亡に伴い、その実子・養子は所属する組の推薦が必要でした。

 

しかし、後継者がいない場合は、足軽株を売り出し、その買い手が養子縁組をします。つまり、お金を出せば、農民だろうが、町人であろうが足軽になれました。足軽は定員制でしたが、この株売買により空位になることはありませんでした。

 

(おわり)

参考資料:金沢市足軽資料館等

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2016-11-29 20:35:58

足軽の暮らし②

テーマ:伝説・伝承

伝説・伝承
【金沢】
足軽の俸禄の支給は、算用場から「切手(手形)」を年2度に分けて給付する「切米」と呼ばれる方式でした。1~9月分の俸禄12俵を3月(春渡し)3月~12月分の俸禄13俵を11月(暮渡し)といった具合です。この切手は、藩直営の堂形(米蔵)「今のしいのき迎賓館」や新堂形(米蔵)「今の兼六園駐車場」や町人の経営する蔵宿(米商)などで、必要な時に米やお金に変えることができました。足軽たちにとって、その俸禄は十分なものではなく、日々の暮らしは内職で補っていました。

 

(堂形跡・しいのき迎賓館)

 

              平足軽 小頭 (加賀藩は1俵5斗入り)
大組・中組  25俵 35俵
先手組       20表 30俵


江戸時代の米の年間消費量は、一人当たり約2俵(1石)と言われています。例えば、大組に所属する平足軽の年収は25俵程度の俸禄ですが、その一家(6人)が、一年間に主食として必要とした米の量は12俵(6石)となり、実に年収の半分ほどを占めていたのです。このような中、主食費以外の生活費を確保するため、足軽たちは、仕事の合間に家族そろって内職に励んでいました。

 

(足軽の生活)


文化・文政

通貨基準金:1両=100,000円 銀1匁=1,700円 銭1文=20円

 

品名            藩政時代の物価      現代の物価
米一升                         32文              640円
酒一合                           8文              160円
かけそば一杯                16文              320円
初カツオ一匹      2~3両  200,000~300,000円
髪結い                          32文           640円
先頭入浴料                4~8文       80~160円
「南総里見八犬伝」           3両        300,000円
絹羽二重フンドシ一本     18匁          30,600円
羽織り繕い賃                 40匁          68,000円
大工工賃(一日)          4匁2文           7,140円


(江戸時代の通貨は「金・銀・銭」が中心でしたが、加賀藩では「銀・銭」が主な通貨でした。)


足軽の内職:公務のないときは、家で家族と内職に励むというのが足軽の日常生活でした。加賀藩の足軽たちのおこなった主な内職は、お盆用の切子灯篭・台切子、お盆が過ぎると正月に飾る天神様の燈籠・練雛や土雛に彩色したもの、あるいは張子の虎や福助、起き上がりなどの玩具を作ることでした。

 

(足軽資料館)

 

足軽の服装:御歩(おかち)以上の武士は、「着流し」を許されていましたが、足軽は公務にあたる祭、常に袴を着用しなければなりませんでした。


例えば、門番や警備をする時は、法被と単で三ツ山形が染め抜かれた山袴を着用していました。しかし、日頃足軽たちは、機敏な動きができるよう「尻端折り」と呼ばれる、袴のすそを高くまくり上げた格好をしていました。真冬でも股引きなどは履けず、足をむき出しにしていなければならなかったのです。足軽にも身分の上下があり、平足軽はたいてい腰に刀を一刀、小頭は二刀差していました。

 

法被・山袴:足軽が門番や警備をするときの服装
尻端折り:一般的な足軽の服装
着流し:足軽より身分の高い武士の日常着
肩衣・半袴:平常勤務や訪問時に着るお目見え以上の武士の礼服
裃長袴:江戸城へ参勤する時の礼服

 

(寺町・クミヤシキ、組ヤシキとあるのが足軽組地)


加賀藩の武士階級:前田家の家臣団は、最高の階級である「八家」を筆頭に、武士として認められる最下位層の「足軽」にいたるまで、全6階級に区分されていました。家柄の上では、藩主に直接お目通りできるものと、お目通りを許されないものとに分けられ、俸禄の上では「知行取り」といって、土地を与えられる平士以上と、現米で給付される「切米(扶持米)取り」とに分けられました。このような階級は、武家社会すべてを規制し、屋敷の広さ・構え、家来数、家族の呼称まで異なっていました。

 

(つづく)

 

参考資料:金沢市足軽資料館等

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