神仏判然令③金沢の神仏分離 | 市民が見つける金沢再発見

神仏判然令③金沢の神仏分離

【金沢市内】
明治維新では、百万石の城下町金沢でも神仏分離が始まります。藩政期は、純然な神主のお宮さんは、金沢五社のみで、他は僧侶、山伏が別当として神主を兼務していましたが、慶応4年(1868・明治元年へ改名は9月8日)3月17日の神仏判然令をはじめ閏4月にかけて神仏の諸令が相次いで出され、加賀(金沢)藩では、神主3人を江戸(9月6日に東京と改称)に派遣し詳しい情報を探ります。


 
(金沢城)


慶応4年(1868)6月に3人が帰国。報告を受けた寺社奉行が藩の執政に進言、神仏の分離の実施に熱意をもって受け入れた藩は、派遣されと2人を神祇道調理方御用主付となり、その下に3人の神仏混淆調理方御雇御用に任じられますが、その中に後に郷土史家で有名になる森田平次がいて、この後も引続き神祇方として寺社行政にあたりました。

 
(今の尾崎神社)


加賀(金沢)藩の神仏分離は、まず金沢城内の権現堂を東照宮(今の尾崎神社)と改め別当の神護寺を廃止し、本社に安置されていた位牌を除いて本地堂と撤去、大野湊神社の両神主を神勤させ、役僧の1人を復飾して勤番されるという荒治療をやっています。


(今の泉野天満宮)

(昔の天満宮と玉泉寺)


(玉泉寺の古地図)



(今の観音院)


また、泉寺町六斗林の玉泉寺天満宮の社と宮を分離させ、卯辰観音院は豊国大明神と称し神社に改め、別当を復飾させて観音を医王院に預けられます。城内から寺町に遷されていた真長寺の稲荷は社・寺を分離します。」

(稲荷社は神明宮の社を建てるが、神体は遷されなかった)



(今の真長寺)

(正面は神明宮の稲荷社)

祈願所の卯辰明王院愛宕社は復飾、宝幢寺愛宕社は明王院の愛宕社に預け、波着寺の利長御預けの八幡宮は卯辰八幡宮に、泉寺町の西方寺に御預けの天満宮を田井天満宮(椿原天満宮)に移します。



(今の西方寺)

(今の椿原天満宮)

藩政期の金沢城下では、社家は5社(卯辰八幡・鍛冶八幡・田井天満宮・野町神明宮・山の上春日社)に加え近郊の10社を加え、15社しかなく、その15社も社家の兼務社を含めた数字で、社家数は12家でした。その他の神社は寺社混淆で、天台宗及び真言宗等の僧侶や修験道の山伏が別当または社僧となりお祀りしていました。


(金沢では明治維新の神仏分離で、寺院から神社に転換した事例は、宝来寺が小橋菅原神社、観音院が豊国神社に顕證院が平岡野神社、常光寺が豊田白山神社、理證院が諏訪神社にそして前回書きました慈光院の石浦神社などがあげられます。なお、慶応4年4月以降、加賀(金沢)藩の社寺管理は寺社奉行にかわり民政寮市政局内の寺社方のおいて取り扱われることになりました。)


(今の豊田白山神社)

いずれにしても全国的には、神仏分離が廃仏毀釈に移行していきますが、金沢においては廃仏運動への波及は小さかったようです。当局が手を抜いたわけでははく、その影響を最小限のとどめたのは、北陸には抵抗する民衆の動きがあったものと伝えられています。



(安政の金沢駅前・真宗寺院東西の別院・専光寺・常福寺)


それは、浄土真宗によるところが大きく、北陸はもっとも真宗が盛んな土地であり、新政府の廃仏策にもっとも強く抵抗したのは加賀で、同じく真宗が盛んな富山藩では、明治3年(1870)藩内にあった313ヶ寺を各宗1寺、計8ヶ寺に合併するというすざまじい廃合寺政策が、藩当局によって企てられますが、この政策は政府の命令によって撤回されました。


(つづく)


参考文献:「石川県神社神道史」園田善一著 発行人園田春栄 平成17年9月発行・「石川県の百年」橋本哲哉・林宥一著 発行人株式会社山川出版社 昭和62年8月発行「加賀・能登の民俗(小倉学著作集第一巻)神社と祭り」著者小倉学、発行人瑞木書房、平成17年3月発行など