“心の道”癒しのスポット⑪妙泰寺
【天神橋→卯辰山麓】
日蓮宗大谷山妙泰寺は、越前脇本の有力寺院の一つであった妙泰寺住持日仁上人が来沢し、慶長15年(1610)に建立しました。二世日成のときに前田利家公の4女豪姫の娘貞姫(理松院)を葬ったお寺で、本堂裏に貞姫(理松院)の五輪塔があり、寺宝には妙願寺第三十一世日貞・日蓮曼荼羅などがあります。
(妙泰寺)
貞姫(理松院)は、関が原の合戦で敗北した父宇喜多秀家が八丈島に遠島処分になり、母豪姫と慶長6年(1601)金沢に帰ってきました。まもなく2代藩主前田利長公の正室永姫(玉泉院・織田信長公4女)の養女になり、15歳で重臣山崎長徳(閑斎)の次男山崎長郷に嫁ぎ“狗丸”を出産するが早世します。夫長郷も26歳で没し、その後、富田(とだ)下野守宗高主計に再嫁しますが、貞姫は3年後に急逝しました。
富田(とだ)家の菩提寺は慈雲寺ですが、貞姫は妙泰寺に葬られました。戒名は理松院殿寿淑大姉、お墓は「歯痛墓」として昔から多くの歯痛の人がお箸を供え、歯痛の治癒を祈願したと伝えられています。
理松院の五輪の墳墓―歯痛治癒
母豪姫は、天正2年(1574)尾張荒子に生まれ、前田利家公の4女で生母はまつ(芳春院)です。豊臣秀吉公と北政所の養女となり、天正16年(1588年)に15歳で秀吉の猶子であった岡山城主宇喜多秀家の妻として嫁ぎ、2男2女を産みました。
(豪姫様のレリーフ・金沢大蓮寺の裏門)
慶長5年(1600年)、秀家が関ヶ原の戦いで石田三成ら西軍方に属していたため、戦後に宇喜多氏は改易。秀家は薩摩に潜伏し島津氏に匿われますが、慶長7年(1602)、島津氏が徳川家康公に降ったため、秀家は助命を条件に引き渡され、息子2人と共に慶長11年(1606年)に八丈島に流罪となりました。
(豪姫様のこと・金沢大蓮寺の裏門)
豪姫は備前岡山城より娘貞姫と中村刑部、一色主善輝昌ら数名の家臣を伴い、兄の前田利長公のもとへ戻され化粧料1500石を与えられます。 当時の金沢はキリシタン大名として名高い高山右近が客将として住み、多くの藩士がその影響を受けています。日本中でも有数のキリシタン信者の町金沢で、豪姫も家臣と共に洗礼を受けていたと伝えられています。
(妙泰寺の門)
表門は寺院には珍しい高麗門で、小規模ですが両脇に築地塀が付いています。建立年代は不詳ですが、細部様式から19世紀初頭のものと推測されるそうです。また、寛政11年(1799)の大地震で倒壊し、その後再建されたものと考えられているそうです。細部様式が装飾的であること、また、寺院建築では珍しい高麗門の遺構として貴重です。【市指定文化財】平成16年4月21日指定
(門前に有る、昔の写真によると,庫裏の上に鐘堂があります。危急のときのみに鳴らす「鳴らずの鐘」だったそうで、戦時中に供出されて今は鐘も鐘堂もありません。よく似た鐘堂は金沢市内寺町高岸寺に今も残っています。)
(昔の写真・庫裏に上の鐘堂)
“貞姫の2人妹「おふり様」伝説”
豪姫と宇喜多秀家との間には2男1女をもうけたと伝えられていますが、実は、もう一人懐妊していた事を世に隠し、密かに金沢に帰ってから生れた“冨利姫”がいます。金沢で誕生した“冨利姫”も“貞姫”と同じく二代藩主前田利長公と正室永姫(玉泉院)の養女に出されました。
(妙泰寺境内で見た銀杏)
実子を手放した豪姫に配慮した三代藩主前田利常公は、京都に居た叔父前田利政の孫娘の”不理姫“を豪姫の養女にしたと伝えられています。
実子“冨利姫”は、後に京の伏見宮貞清親王に嫁ぎ邦尚親王を出産します。五十歳頃に夫と子供も死別し金沢に帰りました。利常公の計らいで、明暦2年(1656)材木町(現橋場町)の浄土真宗大谷派善福寺の9代住職宣勝法師に再嫁し、延宝6年(1678)に没します。
養女の“不理姫”は、寛永10年(1633)前田修理知好(利家公の3男)の次男知辰と婚約、3人の子供に恵まれますが25歳で亡くなります。婚約の翌年、養母豪姫が没し前田家墓地の横に葬られますが、“不理姫”の没後、その養母豪姫の後ろに埋葬されたと言われています。
(前田修理家は、豪姫の化粧料(1500石)を相続した縁から、豪姫や宇喜多秀家の墓、供養等を守ってきたと言います。)
参考資料:妙泰寺の縁起・他、観光ボランティア「まいどさん」宮内昌克氏が調べられたものを参考にしました。