江戸時代からのお花屋(金子生花店) | 市民が見つける金沢再発見

江戸時代からのお花屋(金子生花店)

【浅野川大橋界隈】
幕末に書かれた「梅田日記」の元治2年(1865)2月24日のところに

「一、野尻屋内儀、懸作迄花買ニ来りとて被立寄、且しな同道ニ而薬湯へ罷越候事、」

という記述がありました。梅田日記には、お寺の記述はあるものの、現存する商家で屋号が分かる記述は料理屋の「つば甚」以外ほとんどありません。数年前、日記には屋号がないけれど、懸作で花を買うということなので、露店かもしてないと思いつつ、金子生花店ではないかと思い聞きに行きました。
そのときお聞きしたことによると・・・・・

市民が見つける金沢再発見-店頭

(金子生花店)

金子生花店の本家は、200年以上前の安永10年(1781)の創業で初代は越中屋平吉。平吉は7代藩主宗辰の頃、藩から五葉松の切出証を得て「真松商売」を本堀川で商いし財をなしたといいます。懸作(橋場町)の金子生花店は、その越中屋の長男のお店でした。その後、本堀川の本家は三男が真松商売を継いだので、懸作(橋場町)が本家のようになりました。

初代越中屋平吉は、越中石動から金沢に出て、現在、兼六園の駐車場のところにあった、藩の米を扱う役所”新堂形“につとめていましたが、勤勉な働きぶりを見ていた同郷の米仲買の豪商松任屋清兵衛に見込まれ、「真松商売」を薦められ、その道に入り成功をおさめたそうです。

「真松商売」とは、加賀藩の制度で、元和2年(1616)に七木の制(しちぼくのせい)を定めて、松、杉、檜、栂、栗、漆、欅の七種の木については売買のために伐採をすることは禁止されていました。しかし正月の松花などについては藩が許可する商人に切出証を発行し売買を認めていたそうです。


市民が見つける金沢再発見-金子から

(金子生花店から枯木橋辺り)

当時80歳のおばあちゃんにお聞きしたところによると、“金沢一繁華な懸作(橋場町)に出店するということで、本家のあちこちに有った土地も売ったということでしたが、開店当日の売上は「三文」だった”とおっしゃっていました。

また、おばあちゃんのおじいさんの時代には、卯辰山の油木山に五葉松を1000本植えた話やおじいさんと幼馴染だった高峰譲吉に桜の作り方を教えたという逸話などをお聞きしました。


市民が見つける金沢再発見-橋場地図

(文化8年の絵図・懸作)玉川図書館

老舗!
その時、小耳に挟んだことに、金子生花店の当代のご主人が、200年前の初代がお世話になり明治時代に東京へ去った松任屋とのお付合いが今も続いていることでした。松任屋も今は松岡家と変わり8代か9代目のようですが、初代からの縁を今に至っても絶やさず続けられていることに、さすが老舗は・・・違うな~!と感銘を受けたことを思い出しました。



市民が見つける金沢再発見-花やイラスト

(ビルになる前の金子生花店)

金子生花店のパンフレットの「なりわいの心」に
「目くばり、気くばり、思いやりをキャッチフレーズに、お客様の喜びにまごころをつくし、お客様のよろこびに自らを重ね、お客様の喜びをわが店の喜びとする、優しい人づくり、豊かな社会づくりを私たちの基本理念としています。」と書かれて有りました。

市民が見つける金沢再発見-店内


松岡家のこと
松岡家は屋号を松任屋といい、金沢・尾張町(現石黒伝六商店の隣)に店を構え、給人の年貢米や藩の蔵米を切手によって売買することを独占的に公認された米仲買をつとめる豪商だった。系図によれば先祖清兵衛は越中生まれで、小松で松任屋半右衛門に奉公した。その後、独立して金沢近江町で煙草商を営み、松任屋清兵衛と名乗り、のち米仲買組合頭をつとめた。


市民が見つける金沢再発見-松任屋

(藩政期は石黒薬舗の隣が江戸飛脚所、通りを挟んで松任屋)
現サーパスマンション

2代目清兵衛は不明の点が多いが、3代目清兵衛は養子で初代が没したのち、正式に清兵衛を名乗り、米仲買組合頭を相続し、金沢で十指に入る豪商に成長し、回船業も行ったと伝えられている。4代目は3代目の弟の実子で、米仲買の他骨董取り扱いや質屋を営んだという。明治に入り、4代の実子5代目清兵衛は、米仲買や回船業から薬種業に転向する。6代目松岡誠は宮城県出身で、教師として小松に赴任し、5代目養女と結婚し、やがて東京へ転居した。

市民が見つける金沢再発見-松任屋地図

(文化8年の町絵図)玉川図書館

参考文献:「加賀国金沢尾張町松岡家文書目録」東京学芸大蔵・「金沢町名帳絵図」(玉川図書館蔵)金子生花店での聞き取り。など