2010-06-08 11:03:52

乃木将軍と辻占売りの少年

テーマ:伝説・伝承
【浅野川大橋→中の橋間】
今越清三朗翁の碑が浅野川大橋際に立っています。清三朗の祖父は、加賀藩前田家に仕えた御殿料理人で150石拝領。明治維新後、主計町一番地で料理屋を開き「御典料理」と呼ばれ大いに繁盛したといいます。

市民が見つける金沢再発見-出生2

明治21年父清一郎が死亡し、母はある者に誘惑され四軒あった家作を売り払い行方知れずとなり、5歳の清三朗(清次郎)と4歳と2歳の弟妹と祖母が残されました。

そのため、清三朗は6歳で、地元では見られるときまりが悪いので、わざわざ遠い犀川沿いの町に出て辻占を売り、生計を助けていました。

明治21年、県庁前で乃木将軍と出会い事情を知った乃木将軍は2円をあたえ「後日は立派な人になれよ。」と励まされました。
(当時の2円は一家4人の10日間の生活費だったといいます。)
市民が見つける金沢再発見-将軍
    (乃木将軍)

そのことが、新聞に取り上げられ、学校の悪童達の知るところなり、いじめられ、入ったばかりの小学校に行きづらくなり、わずか20日(8日ともいわれている)で清三朗は学校も辞めました。そこで以前から話の有った金箔を習うことになり、弟は孤児院へ妹は母が引き取られます。そのことが決まると、今までの苦労から開放されほっとしたのか、突然祖母がこの世を去りました。

市民が見つける金沢再発見-大橋から主計町

(浅野川大橋の向こうに見えるベージュの建物のところが清三朗の生家跡。)

その後、清三朗は、金沢の金箔屋相木弥太郎へ奉公に入り、明治35年金沢で独立。7年目に京都へ京箔修業にでます。大正2年、修業先は、京都馬町の辰見新太郎で3年間、そして独立、軍隊を経て昭和2年に宮内省より、王座の金屏風にようする箔の御用を拝命します。

市民が見つける金沢再発見-辻占売り

(辻占売少年碑と主計町)

今越清三朗の記録
昭和 2年 宮内庁より、王座の金屏風にようする金箔の御用を拝命。
昭和 4年 伊勢神宮に金箔5万枚の御用。
昭和 6年 大阪城再建に大量の金箔を納入。
昭和 7年 浪曲「乃木大将と辻占売り」ベストセラー。
昭和25年 金閣寺再建の金箔ご用命。
昭和37年 NHK「私の秘密」に出演。
昭和40年 函館の自衛隊に「乃木将軍と辻占売り少年」の銅像が立てられる。
昭和41年 滋賀県文化財保護条例により「無形文化財」に指定される。
昭和43年 東京・麻布、旧毛利邸跡に「乃木将軍と辻占売り」の銅像が建立される。
昭和48年 滋賀県甲西町の屋敷及び土地約300坪一切を町に寄付。
昭和49年 彦根市立病院で91歳の生涯を終える。

昭和54年 3月18日、主計町、元の生家跡前に顕彰碑が立つ。
市民が見つける金沢再発見-米若

(乃木将軍と辻占売りの浪曲)

・辻占売りの話は、大正、昭和にかけて美談として、教科書、浪曲、講談、映画として取り入れられ、多くの国民の知るところとなりました。
・浪曲のレコードは寿々木米若、映画は昭和13年、浪曲映画でした。

戦後は、テレビ放送や新聞報道で、全国に知れ渡り各地からオフャーが多く、北は北海道から南を九州まで、90歳を過ぎても講演旅行に出かけられました。乃木将軍の恩の尊さに思いを馳せ、その思いを多くの方々に伝え歩いたといいます。

翁の色紙
「辻占の 昔を語る 今日の栄え
乃木将軍の 御恩忘れじ」 

市民が見つける金沢再発見-乃木本表紙

金箔業界は、戦前、京都で金箔職人は2,000人他には金沢、東京、名古屋、大阪、広島にも職人がいたが、機械化で生産過剰になり、戦時中は生産統制が行なわれました。
業界は、戦後も昭和40年頃まで苦難の道を強いられた。昭和50年頃には需要も増し全国で職人も200人ぐらいになり、金沢が主で、高岡、滋賀県下田(甲西町、今越翁のところ)の他 に京都4人、丹波3人そして会津の一ヵ所となりましたが、平成に入り、国産の金箔のほとんど99%が金沢産になりました。

参考文献:「今越清三朗翁伝」中央乃木会叢書(2)昭和53年9月

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