八甲田山雪中行軍の日・・・ですね・・・の巻 | 乾パンのブログ

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今を去ること117年前の1902年(明治三十五年)に起こった、

日本陸軍青森歩兵第五連隊による八甲田山雪中行軍遭難事件ですが・・・

丁度今頃の出来事であります。

 

雪中行軍隊210名中199名凍死(救出後予後不良含む)という、

日本近代山岳史上最悪の遭難事件です。

 

私はかつて新田次郎先生による「八甲田山死の彷徨」を熟読致しましたし、

1977年(昭和五十二年)に公開された映画「八甲田山」もロードショーで見に行きました。

 

その後興味があって実際に現地に行ったこともあるし、いろいろ文献を読んだこともありました。

1月23日に青森連隊駐屯地を出発した雪中行軍隊は1日目の目的地である田代新湯に行き着かず、

1.5km手前の平沢で露営。

 

ここまでは仕方がなかったのですが、翌1月24日午前2時30分に雪壕を出でて

14時間に渡るリングワンデルングを繰り返し、僅か700mしか進めなかったのが致命的となりました。

日本最低気温の日」となるのは翌日の1902年1月25日ですけどね(旭川で-41℃)

 

陸自第5普通科連隊の八甲田山冬季演習に参加したルポライター宮嶋茂樹氏の記事によると・・・

最も苦痛だったのが極寒寒風下における待機命令だったとのこと。

肉体的苦痛を伴う天候において何もしないで待つ・・・と言うのが耐えがたいとのこと。

 

極低温下においては動かずにジッとして体力を温存するのが生存には最善の手段ではありますが。

どうしても動いて活動した方が「精神的に楽」だそう。

 

雪中行軍隊は「ジッとしているより行軍した方が犠牲が少ない」との判断から

延々と無意味な行軍を冒してしまい、その結果がこのような遭難事件に至った経緯であります。

 

何があっても第1日露営地でジッとして(この時点では橇に乗せた露営資材もあった)

天候が回復した時点で斥候を出して帰路もしくは田代温泉に至るルートを開削するのが最善だったと

思いたいのですが、これは後知恵ですなぁあせる

 

今年度は映画「八甲田山」が4Kデジタルリマスター化され少し話題たなっていますな恋の矢

過去にTVで見た映像よりも明るく鮮明ドキドキ

やっぱり凄いねぇ

 

映画「八甲田山」の撮影は実際に現地ロケを行ったそうですが・・・

1977年にCGなどあるわけ無いし、全てが現実の天候による実写ってのが時代です

 

 

カメラマン(撮影監督)の木村大作先生も「八甲田山」で人生が変りましたな。

「剱岳点の記」で監督(撮影兼任)をしたのもこの流れですよね。

 

 

大竹まことの名前も確かにタイトルロールにあるんだよなぁ

 

 

何処に出てるんだ!?

恐らく・・・

 

 

この雪ぞりを引くチョビ髭の兵卒かなはてなマーク

 

 

第1日目の雪壕を出たところで発狂して衣服を脱ぎだして・・・

 

 

雪中行軍隊の凍死者第一号となって士気駄々下がりになる・・・兵隊役だと思うけど・・・どうかなDASH!

 

 

これ雪中行軍の撮影とかホントに大変だったみたいですねぇ

 

 

ココだな、カメラマンの木村先生が極寒の十和田湖に胸まで浸かって撮ったカットってガーン

 

 

高倉健が隊長の弘前連隊雪中行軍隊が道先案内人の秋吉久美子に敬礼する場面。

秋吉さんがメイクさんと大げんかして撮影が遅れに遅れて、それが結果的に名シーンになったとか・・・

面白い話だわな。