第64話 | 臨時作家

第64話

 建は仁志の部屋にむかっていた。

 あれから智司の消息に関する新しい情報はない。稽古中の仁志をみる限り、それに対する憂慮はみてとれなかったが、父親が行方不明なのだ。平静でいられるわけがない。
 廊下づたいにまわりこみ庭の襖ごしに声をかける。
 中から「どうぞ」と、短い返事がかえってきた。
 襖をあけると、仁志は道着姿のままくつろいでいた。建は畳のうえに腰をおろすと所在なげに部屋をみわたした。
「父のことですか」
 仁志が無感情にいってくる。建は「うん、まあ」と、あいまいに答えた。
「消息はわかりません」
「手がかりもないの」
「……ええ」
 気になる間があった。なにか思いあたる事でもあるのだろうか。蒸し暑い部屋だった。クーラーもいれていない。
「襖あけていい?」
「どうぞ」
 勢いよく襖を引く。新鮮な空気がながれこんできた。
 塀をおおう蔓(つた)が黄蘗色(きはだいろ)のちいさな五花弁をつけ、風がなでるたび、ちろちろと濡れ色にかがやいている。あたりをつつむ蝉の声はひろい敷地にいっそうの奥深さを感じさせ、まるで武蔵野の樹林にかこまれているような錯覚をおこさせる。建はこの寂寞(せきばく)とした空間を愛していた。
「あのさ」
「はい」
「ぼく、まだ誰にも言っていないんだけど、高校卒業したら留学しようと思ってるんだ」
「留学……ですか」
「うん」
「大学だけですよね」
「まだ、決めてない。行ってから決めようとおもって」
 仁志は身をのりだし口をひらきかけたが、そのまま言葉をのみこんだ。
 いきなり……。

 寝耳に水だった。建はこのまま屋敷にいて弥隅のあとを継ぐものだとばかり思っていたのだ。
 建のなかに封印されている五年前の惨劇の記憶。その記憶が戻ることを仁志はなによりも恐れていた。建が海外に留学するのであれば、すくなくともこの屋敷に束縛されることはなくなる。なによりも歓迎すべきことであるはずだった。にもかかわらず、この胸底にひろがる雲烟縹渺(うんえんひょうびょう)として空虚な景色はなんなのだろう。
「でも正直、気が重いんだ。宗家に許可もらうの」
「もし、反対されたら」
「それでも行く」
 言って、建が悪戯っぽく微笑んだ。
「………」
 仁志の脳裏に琥珀色した古い記憶がよみがえってきた。
 むかし一度だけ、父の智司が遊園地につれていってくれた事がある。途中、智司とはぐれてしまい、さがし疲れて膝をかかえている仁志の鼻先に綿菓子(わたがし)が突如としてあらわれた。驚いて涙の跡がいくすじもついた顔をあげる。おなじように智司が、いまにも泣きだしそうな面持ちでしゃがみこんできた。無言で手渡された綿菓子をうけとり口にふくむ。舌にふわりとした甘さがひろがり、わけもなく笑みがこぼれでた。たった、それだけの事なのだが今でも昨日のようによくおぼえている。いつの事だったかわからないほど遠い昔のことだ。
 智司はすでに、この世にいない。そんな予感があった。
 また、ひとり……。
「仁志?」
「着替えたいんですが」
「ごめん」
 建がすばやく腰をあげ部屋をでていった。
 仁志は長息すると、しごく緩慢な動作で袴の紐をときだした。



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