第38話 | 臨時作家

第38話

 周一郎が代々木上原の自宅に戻ってきたのは午後九時をまわった頃だった。疲れた足取りでリビングに行くと、父の秀二(しゅうじ)が新聞を片手にひとり晩酌をしていた。
 秀二は渋谷にある都市銀行に勤めている。仕事一筋で唯一の趣味といえば英世と囲碁を打つことぐらいであった。英世が亡くなった今では、新聞片手にひとり晩酌することにのみ楽しみを見いだしているようだ。
「お帰り」
「ただいま」
「ずいぶんお疲れのようだね」
「クライアントがなかなか解放してくれなくてね。お母さんは」
「まだだよ。飲みにでも行っているんじゃないか」
「そう」
「食事は」
「すませてきた」
 聞くと、秀二はふたたび新聞に視線を落とした。
 周一郎はバッグを部屋の隅におくとリビングテーブルをはさみ、秀二と向かい合うようにして腰掛けた。秀二が、おや、といった様子で顔をあげてくる。
「お小遣いを頂戴、なんて言うんじゃないだろうね」
 周一郎は軽く笑うと、半分ほどに減った秀二のグラスにビールを足してやった。
「お父さん室士弥隅(むろしやくま)に会ったことある」
 秀二は注がれたビールを一口飲むと「ずいぶんと、また、唐突だね」と、呟いた。
「よく憶えていないな……。桂介くんのほうで何かあったのか?」
「忍壁のおじさん、いつも悪く言ってるじゃない」
「そりゃあ、あの屋敷を盗られたんだからね」
「お父さんはどう思う」
「そう思われても仕方がないと思うよ」
「おじいちゃんは悪く言っていなかったよ」
「おじいちゃんは孟子(もうし)の信奉者だったからね。人を疑う事をよしとしないんだ」
「………」
「忍壁流の門弟は、ほんと、いい人が多かったんだよ。おじいちゃん、忍壁の三羽烏なんて言われていてね」
「おじいちゃん以外の二人は、どんな」
「寺の住職の息子で……何ていったかな、あの人。でもたしか、もう亡くなったはずだよ。もう一人は中学校の先生をしていたんだ。いかにも先生って感じの人でね。名前は片桐(かたぎり)……」
 周一郎の胸が動悸(どうき)を打った。



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