文藝春秋 平成8年 1996年 9月特別号


美智子皇后の「憲法をありがとう」

終戦直後、GHQ民政局で憲法草案作成に携わった米国人女性と皇后陛下の知られざる交流


ベアテ・シロタ・ゴードン(元GHQ民政スタッフ)

取材・構成 梶山寿子

その1よりつづく

文藝春秋3


初めての御所


 船上でのパーティから二十七年が過ぎた八七年のことです。皇太子ご夫妻が再びニューヨークを訪ねられたとき、この時の写真をお見せする機会がありました。それが私が美智子さまにお目にかかった三度目の機会でした(二度目については後で詳しくお話しします)。

 何と、美智子さまはパーティから三十年近くが経っているのに、当時のことをよく覚えていらした。それだけで私はすっかり感激していたのに、美智子さまは、この次日本に来るときには連絡をくださいとまで仰(おっしゃ)ってくださったのである。

 ただ確かに、連絡してくださいというお言葉はいただいてはいたものの、実際に何度か来日を繰り返しても、美智子さまにご連絡するのは躊躇(ためら)われることでした。それでも、昨年十月に日本で自伝(『一九四五年のクリスマス』柏書房)を出版したこともあり、思い切って手紙を差し上げることにしたのです。美智子さまは私が日本国憲法の作成に携わっていたことはご存知ないし、ひょっとすると私の本に関心を持たれるかもしれない、と思ったのです。

 今年四月の来日を前に、訪日する旨を手紙に書き、本と一緒にお送りしました。もちろん、御所に伺いたいとか、お目に掛かりたいと書き添えたわけではありません。私は、美智子さまにご迷惑をおかけしたくはなかったのです。こうした発想は、現在はアメリカに生きている私ですが、まるで日本人のようだな、と思っています。私の中の日本人は、今も息づいているのです。

 ところが、実際に日本にやってきて二、三日したある日、女官長を名乗る方から思いがけない電話がありました。

「皇后陛下がお会いになりたいと仰っている」

 と。私は本当に驚きました。何も期待などしていなかったのですから。

 そして日本の憲法記念日の三日後、私は御所に向かったのでした。


美智子さま、大いに笑う


 訪問する日が近づく間、そして御所の控室で美智子さまを待っている間も、私は緊張している自分を感じていました。

 考えてみれば、それまで三度にわたってお目にかかったのは、美智子さまが皇太子妃の時代。皇后となられてからは、初めてお目にかかるのです。もちろん、御所に足を踏み入れるのも、私にとっては今回が初めての経験でした。

 それに、美智子さまは一時体調を崩されて、お言葉を失われたと聞いていましたから、ご健康のことも気にかかっていたのです。

 しかし、そんな私の思いは、美智子さまのお元気そうな様子に、どこかへ吹き飛んでしまいました。本当に、私はほっとした気持ちになりました。

 ご挨拶を済ませてから、持参したCDを差し上げました。父の昔の演奏の復刻盤です。美智子さまは父の演奏を直接聞く機会はなかったそうですが、素晴らしいピアニストだったと、周囲の方から聞いていらっしゃるそうです。

 日本茶とお菓子をいただきながら、なごやかに会話は進みました。私はお気に入りのあの写真を今回も持参して、

「この娘も今は二児の母になりました」

 とお話ししました。

 美智子さまと私の会話は、日本語と英語の両方で進んでいきました。いま思い起こしても、どの部分が日本語だったのか、英語だったのかは、正確には思い出せません。ここでご紹介する美智子さまのお言葉は、実際に美智子さまが仰ったお言葉とは、多少違うだろうことは、ここにつけ加えておきたいと思います。

 それにしても美智子さまの英語はお上手です。見事な英語と温かいお人柄に、あらためて心を打たれながら、昔の思い出話に花が咲いたのでした。

 例えば、軽井沢。軽井沢には、美智子さまにも私にも、格別の思い入れがあります。美智子さまにとっては、天皇陛下とのロマンスが生まれた場所であり、私にとってはかつて夏の別荘があった懐かしい場所でした。また軽井沢は、戦時中、外国人であった両親が強制的に疎開させられ、苦しい生活を強いられた場所でもあります。避暑用につくられた家で、食糧難と冬の厳しい寒さに耐えなければならなかった両親の苦労を思うと、今も私の胸は痛むのです。

 三年前、テレビのドキュメンタリー番組の制作のため、私は久しぶりに軽井沢を訪れました。その時の話を披露して、

「あのテニスコートは昔のままでしたよ」

 と申し上げると、美智子さまは、

「そうですね」

 と仰って、天皇陛下との出会いのエピソードを語られました。

「ミックスダブルスの準決勝で、たまたま対戦された」

 というあの有名なエピソードです。

 美智子さまにとっては、軽井沢の思い出はよほど特別なものであるらしく、わざわざ、軽井沢でよく見られる花や植物をお庭に植えていらっしゃるとお話しになっていました。

 また、お菓子に目がない私は、ついこんなことも申し上げました。

「昔、軽井沢で売っていた串刺しのお団子が大好きでした。ぜひもう一度食べたいと思って、三年前にも探してみたのですが、見つかりませんでした。もう売っていないのでしょうか」

 すると美智子さまは、

「サンセット・ポイントに今でも売っているお店が一軒あります」

 と教えてくださった。美智子さまがお団子をお食べになったことがあるかどうかは仰いませんでしたが、よく知っておられることから察するに、きっと美智子さまもあのお団子がお好きなのに違いないと思い、思わず笑みがこぼれたのです。

 美智子さまは、非常に人間味の溢れる、またユーモアのセンスをお持ちになっている方です。私は先ほど見かけたお庭の桑の木のことを美智子さまにお尋ねしてみましたが、その桑は養蚕のためのもので、一部は美智子さまご自身で植えられたのだそうです。皇后というお立場にありながら、なんと親しみやすいお人柄でしょうか。

 しかし何といっても、一番笑いがこぼれた場面は、私と美智子さまが二度目にお目にかかった時の思い出に話が及んだ時でした。


文藝春秋4

つづく