人が生まれて死ぬまでの間。どれほどの経験をするのでしょうか。
人生の喜怒哀楽と四苦八苦の様々な経験。
人生の最期を迎えるまで何万日すごすのかわからないけれども、1日、1日、24時間の中でもいろいろな出来事があるはず。
それが繰り返される中で、経験する中でとても似たような経験を繰り返すことがあるように感じます。
形を変えて、時間を違えて、場所を変えて、人を変えて。。。。
それが『縁』というもので自ら引き寄せている、その人特有のものであることは間違いありません。
だから十人十色、顔が違うように、経験していることも違う。けど、似たような経験をしている人は沢山います。
それもまた、自分と似通ったタイプに人ではあるけれども、けして同じではない。
顔、形が違うように、それもまた違うものであります。
その中で、自分というものを知り、起こりうる事柄も決まり、感情も同じような経験となってきます。
悲しみの裏側には、必ず、喜びがあり、苦しみのあとには、楽しみがあるということに気がつくことがあるでしょう。
コインの裏表のように、注連縄の縄の如く、日常で繰り返し起こる出来事。
人生の最期、これまで生きて、生かされ十分に生きたと感じて亡くなる人はどれだけいるのだろうか。
満足して天国にいく人はどれだけだろうかということを思ったときに、やはり、今日1日、どれだけを感じ、感謝し、1日の最後を感謝で終わるかということが「人生の最期」につながるのだと思うのです。
今日1日が人生最期の1日と同じであると思えば、より充実した人生を歩むことができのでありましょうか。
今日はいつか「死ぬ」人生の最期の1日と同じ1日であるということを思ってすごせれば、そのときを迎えたときに、喜びの中で人生の幕引きをおろすことができるのかもしれません。
しかし、それが中々できないのが本当のところ。
では、何をもって1日を過ごすのかといえば、やはり、もしも、家がなかった、仕事帰り、事故にあっていたら、ご飯が食べることができなくなったら、どんな人生をおくっていたんだろうかと感じること。例えば。
それが当たり前でない日常なんだと少しでも意識して過ごすことで、何気ない1日が輝いているようにみえてくる。
見て感じて過ごすことと事象を捉える角度と考え方を変えることで、同じ事象に対しても深く感謝ができるようになってきます。
恵まれている、不安なく生活できていること、健康であること、家族が無事であること、沢山気がつくことが増えてきます。
「あ~有難いな。勿体ないなあ~」と少しでも思えることが増えたらそれは自分の人生が変わりつつある証拠。
いろいろな助けや出来事が自分自身を支えてくれるようになるのだと思うのです。
タイトルにあるように、1日24時間に気がつくかつかないか。意識して過ごすか、過ごさないかで、人生は大きく変わるもの。
小さな草花や自然にまで大きな喜びを見出すことができるようになって、「命」への感謝も芽生えてくるように思うのです。
今の世相、殺伐とした空気感の中で、悲しい事件、事故が相次いでいる中で、そんな人が増えていけば、国も、社会も地域も家族も必ず変化していくことでしょう。
一人ひとりが今、何をすべきかを問われている時代といえます。
それでは・・・。