待つわ
私待つわ いつまでも待つわ
たとえあなたが ふり向いてくれなくても
待つわ いつまでも待つわ
他の誰かに あなたがふられる日まで
「待つ」機会がずいぶん減った。思いがつのることも、今か今かと待ちわびることも減った。もうその理由は言うまでもないね。だから「待つ」が歌から消えていく。同時にその仕草も心模様も風景も消えていく。
時代があんまりにも急いでるようなら、その揺り戻しを歌にする。それも歌の役割のひとつだったかもしれない。振り返れば、1982年というせわしい時代にリリースされた『待つわ』がオリコンチャートの年間一位になったことはそれを暗示している。
当時の流行歌を思い出せば「待つ」は至るところに出てくる出てくる。
「偶然をよそおい帰り道で待つわ〜」1981年(まちぶせ/石川ひとみ)
「どれだけ待てばいいのですかあぁ届かぬ愛を〜」1980年(万里の河/チャゲ&飛鳥)
「男はいつも待たせるだけで女はいつも待ちくたびれて〜」1980年(恋/松山千春)
ホームやバス停といったプラットフォームを舞台にして「待つ」の意味も移ろい変わる。
「汽車を待つ君の横でぼくは時計を気にしてる〜」1975年(なごり雪/イルカ)
「バスを待つあいだに涙を拭くわ〜」1972年(バスストップ/平浩二)
「待つ」というのは、そこに期待や不安というアンビバレントな気持ちを含み、また「待つ時間」というものが決心や覚悟という気持ちの確認作業も含んでいた。アイツの登場によって気づかない間に、こうした感情のかけがえのなさをぼくたちは失くしている。そんな感情のやり場を失くした都市空間はどこか空虚さを漂わせている。
誰も私の心 見ぬくことはできない
だけどあなたにだけは わかってほしかった