考えるということ(山田)
先日のブログ読んでいただいた方から問いかけがありました。
「お金とは何か」を考えることに何の意味があるの?
たしかに、そうですよねそんなことを考えなくても日常生活を営むことはできます。それなのになぜ、金融・経済の問答をする意味があるのでしょうか。
一万円札を見ると「日本銀行券」と書いてあります。つまり、あたかも子ども銀行券で人生ゲームに参加するように、私たちは現代の貨幣制度を利用してバーチャル(virtual:事実上の)な人生ゲームに参加しています。
私たちは、生きる上でこの地球上のどこかの国の、いずれかの時代の社会システムに参加する必要があります。
金融教育といって、銀行金利や株式市場の仕組みといった、現代の資本主義システムの知識を身につけることももちろん、大切なことです。
その一方で、「○○とは何か」という問いについて考え抜くことで、ものごとの理であり本質を知り、政治であれ、金融であれ、自分が生きている時代の社会システムに過剰な期待をすることなく、過度に依存することなく、したたかに力強く生き抜く知恵を身につけることは無駄ではないのではないでしょうか。
私の心の中で、いつもリフレインしている言葉があります。
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ
<訳>
祇園精舎の鐘の響きは、全ての作られたものは一定の状態に留まらず 移り変わるという「諸行無常」の精神を語っている。
釈迦がなくなる時に枯れたという沙羅双樹の花の色は、勢い栄えるものも 必ず滅びる「盛者必滅」の道理をあらわしている。
おごり昂ぶる者も長く続くためしはなく、ただ春の夜の夢のように、 はかないもので
勢いの盛んな者も最終的には滅びてしまう。 まるで風の前の塵のようなものだ。
遠く異国(中国)の歴史を見ると、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の禄山、 これらはかつての君主や主人が行っていた政治に背き、好き勝手な楽しみにふけり、 周囲が諌めるのにも耳を貸さず、天下が乱れていくのにも気づかず、 民衆が嘆き悲しむことも知らなかったために、その権力は長続きせず、 ほどなくして衰えていった・・・
政治であれ、金融であれ、経済であれ、どんなに優れたシステムも制度疲労を起こし、そしていつかは滅んでしまう、という理(ことわり)があります。
そして、心に留めておくべきは、こうした変化というものは、あたかも徐々に地中にエネルギーを蓄積して起こる地震や火山の噴火のように、ジワリジワリと進んである日突然、起こるということです。
一万円札も、国会も、人の心が生み出した概念に過ぎません。とくに、その時代の大人が信じ込むことで維持している社会システム=共同幻想です。実態が伴わない分、ある日突然、風の前の塵のように跡形もなく消える時が来るのでしょう。それは人生ゲームと同様、プレーヤーが遊ぶことをやめた瞬間に起こるのではないでしょうか。
ただ、人生ゲームと異なる点は、参加者のうち「これは、ゲームだ」と認識しているプレーヤーが少ないということです。バブル経済の時期に、バブルの崩壊をイメージしていた人はかなり少なかったでしょうし、渦中にいると自分の置かれた環境を冷静に分析することは難しいのではないでしょうか。
ものごとの本質を考え抜くということは、その作業を通じて、今の社会システムに過度に依存することなく、適当な距離感でつきあっていくことができるようになりますし、現代のように変化の激しい時代であっても、日々のニュースや情報にも翻弄されることの無い、したたかに心穏やかに生き抜く知恵が身につきます。
「お金とは何か」を考えることに何の意味があるの?
たしかに、そうですよねそんなことを考えなくても日常生活を営むことはできます。それなのになぜ、金融・経済の問答をする意味があるのでしょうか。
一万円札を見ると「日本銀行券」と書いてあります。つまり、あたかも子ども銀行券で人生ゲームに参加するように、私たちは現代の貨幣制度を利用してバーチャル(virtual:事実上の)な人生ゲームに参加しています。
私たちは、生きる上でこの地球上のどこかの国の、いずれかの時代の社会システムに参加する必要があります。
金融教育といって、銀行金利や株式市場の仕組みといった、現代の資本主義システムの知識を身につけることももちろん、大切なことです。
その一方で、「○○とは何か」という問いについて考え抜くことで、ものごとの理であり本質を知り、政治であれ、金融であれ、自分が生きている時代の社会システムに過剰な期待をすることなく、過度に依存することなく、したたかに力強く生き抜く知恵を身につけることは無駄ではないのではないでしょうか。
私の心の中で、いつもリフレインしている言葉があります。
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ
<訳>
祇園精舎の鐘の響きは、全ての作られたものは一定の状態に留まらず 移り変わるという「諸行無常」の精神を語っている。
釈迦がなくなる時に枯れたという沙羅双樹の花の色は、勢い栄えるものも 必ず滅びる「盛者必滅」の道理をあらわしている。
おごり昂ぶる者も長く続くためしはなく、ただ春の夜の夢のように、 はかないもので
勢いの盛んな者も最終的には滅びてしまう。 まるで風の前の塵のようなものだ。
遠く異国(中国)の歴史を見ると、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の禄山、 これらはかつての君主や主人が行っていた政治に背き、好き勝手な楽しみにふけり、 周囲が諌めるのにも耳を貸さず、天下が乱れていくのにも気づかず、 民衆が嘆き悲しむことも知らなかったために、その権力は長続きせず、 ほどなくして衰えていった・・・
政治であれ、金融であれ、経済であれ、どんなに優れたシステムも制度疲労を起こし、そしていつかは滅んでしまう、という理(ことわり)があります。
そして、心に留めておくべきは、こうした変化というものは、あたかも徐々に地中にエネルギーを蓄積して起こる地震や火山の噴火のように、ジワリジワリと進んである日突然、起こるということです。
一万円札も、国会も、人の心が生み出した概念に過ぎません。とくに、その時代の大人が信じ込むことで維持している社会システム=共同幻想です。実態が伴わない分、ある日突然、風の前の塵のように跡形もなく消える時が来るのでしょう。それは人生ゲームと同様、プレーヤーが遊ぶことをやめた瞬間に起こるのではないでしょうか。
ただ、人生ゲームと異なる点は、参加者のうち「これは、ゲームだ」と認識しているプレーヤーが少ないということです。バブル経済の時期に、バブルの崩壊をイメージしていた人はかなり少なかったでしょうし、渦中にいると自分の置かれた環境を冷静に分析することは難しいのではないでしょうか。
ものごとの本質を考え抜くということは、その作業を通じて、今の社会システムに過度に依存することなく、適当な距離感でつきあっていくことができるようになりますし、現代のように変化の激しい時代であっても、日々のニュースや情報にも翻弄されることの無い、したたかに心穏やかに生き抜く知恵が身につきます。