ひとりぷらタコり 『おんな城主 直虎』ゆかりの地巡り(3) | == 肖蟲軒雑記 ==

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ツボに籠もっているタコが、「知っていても知らなくてもどっちでも良いけど、どちからというと知っていてもしょうもないこと」を書き散らすブログです

 用語の(墓を全て墓塔に)統一するとともに、宗牧の日記についての記述を追加したので、再度アップします。

 

 井伊谷城や井伊館跡を巡った後、地域遺産センターの方に教えて頂いた蕎麦屋で昼食を摂った。繁盛している店で、相席になった地元の人と話をすると、ドラマは欠かさず見ているとのこと。「なじみのある細かい地名が登場するのでとても嬉しい」と仰っていた。(1)でご紹介した棚田のNPOのことは、この方から聞いたことである。

 店の雰囲気もそうだが、出会った方々は皆、それまで見向きもされなかった(というのは言い過ぎだが)地元が全国区に近い人気になったことを素直に喜んでいる、というように感じられた。

 

 昼食後、竜潭寺に向かった。

 

 

山門に向かう。

ここをくぐり右手に向かうと庫裡、そこから本堂→開山堂→井伊家霊屋と反時計回りに拝観し、本堂の裏手に来る。

 

 

写真のような見事な庭が広がっている。小堀遠州の作なので、もちろん直虎の時代にはなかったものである。なお、庭の奥に写っている堂が井伊家霊屋である。この向こう側に井伊家とそのゆかりの人たちの墓所がある。

 

 

墓所のメインは井伊一族の墓である。配置はこのようになっている。

 

左手と正面(と右手前のあたり)にあるのが、ドラマに登場する人々の墓塔だ。戒名とともに、敢えてドラマ中の名前で説明を入れた。

 

 

 

 正面の二基が、初代井伊共保直虎の父直盛も墓標である。初代はわかるとしても、何故直盛なのか。それの答えは恐らく戒名にある。直盛の戒名は「竜潭寺殿天運道鑑大居士」であり、竜潭寺という寺院の名前は彼の戒名から来ているのだ。それまでは龍泰寺と言われていたようだが、寺の縁起によれば、尾張進攻戦(桶狭間の戦い)で直盛が討ち死にし、この戒名がつけられたのと同時に寺の名前も変更されたとのことだ。つまり、寺の名前の由来故に別格の扱いをうけている、ということだろう。

 ただ、この二基の墓標だが、形状や摩耗具合から、どう見ても近代(もしかすると昭和ぐらい)のものとしか思えない。後付けで置かれたものなのだろう。

 

 それに対して、左右に並ぶ11基は、戦国末期ぐらいのデザインの五輪塔である。

 

 

 

 向かって左側の五基をご紹介しよう。上の図にもあるように、奥から2番目が妙雲院殿月泉祐圓大姉、つまり我々が井伊直虎と呼んでいる人のものである。説明図にもある戒名は地輪に刻まれているようだ。写真を拡大すると微かに見えるが、(当然)判読は難しい。

 

 これら五基と摩耗具合から見て結構時間が経っていると思われる。デザイン的に、戦国末期のものとみて差し支えないだろう。江戸期になると五輪塔が造られたとしても、もう少し稚拙なデザインであることが多い。つまり、徳川時代の後半に成立した『井伊家伝記』や『寛政重修諸家譜』などにあわせて建立されたものとは考えにくいということだ。

 

 しかも、墓などでは時代時代の流行に従ったものが造られているのがほとんどなのである。

現在でも、特にハコモノと言われるようなものは、「リッパ」なものにしたいという考えのもと、そのとき「カッコイイ」とみなされる「最先端の」デザインでつくられることがほとんどだ。家屋のデザインでも同様であり、結果町中は統一感のない建物で溢れることになる。

 

 墓石についても同じ発想なのだと思う。もちろん後世、古い時代のものと思わせるため古いデザインで造られたという可能性は完全に排除できないが、それは時代考証などが確立している現在だからこそ言えることで、江戸期にあってはそのようなことは意味がないのである。

 写真では紹介していない右側の五輪塔では、一基で複数の人が供養されているのに対して、左側のものは一人一基である。おそらく、直政の死後まもなく、彼に関わる人々から見て重要だった人々の供養のために建立された墓塔なのではないだろうか。

 

 女性が供養されているものは、妙雲院殿月泉祐圓大姉以外は全て誰かの室(妻)である。つまり彼女だけ別格の扱いなのだ。彼女が重要なポジションにいたことは間違いないと思う。もちろん、これは井伊直虎男性説を否定するものでも何でもなく、単に井伊一族に「特別な存在の女性がいた」ということに過ぎない。今後の研究の発展が待たれるというものである。

 

 

 さて、墓所の手前には、当時の井伊家家臣たちの墓塔もある。昨日放送の第19回で取り上げられた近藤康用の墓塔もあったのだが、撮影を忘れてしまった。

 

 

 

まずは中野氏のものである。中野氏は井伊の支族のうち後の方で分家した家である。初代の直房井伊直平の叔父にあたり、その後直村直由(筧利夫)直之(矢本悠馬)と続く。

 

 

 

次は奥山氏。朝利(でんでん)が十一代なので、かなり古くに分家があったことがわかる。十二代になっている朝宗六左衛門朝忠(田中美央)の父ということになるのでドラマと話が合わない。もっとも、Wikipediaによれば、朝忠朝利の子という文書もあるようなので、設定をそちらにしたということだろう。

 

次は鈴木重時

 

 

そして最後は、桶狭間役没者十六人の墓塔群から小野玄蕃(井上芳雄)。仮にこの右端のものが彼の墓塔だとすると、造られたのは江戸期に入ってからである。この形状は位牌型と呼ばれ、近世初期に流行ったものだからである。

 

 

 

 

竜潭寺では県道を渡って南側に、「ご初代さまの井戸」がある。水田の中の開けたところにある。ドラマのように林の中ということはなく、全く雰囲気が異なる。訪問した時には参道の整備が行われており、仮設の通路を渡っての拝観であった。

 

 

竜潭寺を後にして、いよいよ県道を南下して気賀の大河ドラマ館に向かう。

 

 

国土地理院空中写真ファイルCCB20152-C7-33(2015年5月1日撮影)を改変。

この空中写真で中央南北を流れるのが井伊谷川。右から来る都田川と合流した西側一帯が気賀の地である。大河ドラマ館は写真右下の★、天浜線気賀駅のすぐそばである。

 

 

この気賀の北側には小野の領地(だったところ)が、山裾を流れて井伊谷川にそそぐ小野川に沿って広がっている。地名でも北区細江町小野なので、間違いないところだが、もうひとつ面白い文書が残っている。

 

天文十三年十二月十二日、というからドラマ第1回の年のこと、京から相模に向かう連歌師宗牧が記した『東國紀行』には下のような記述がある。この条に先立って宗牧は、三河野田の菅沼新八郎の家臣と思われる今泉弥四郎にエスコートされて山越えを始めている。野田から一日コースで井伊谷へ向かうとなると、最短は宇利峠越え、つまり今の東名高速道路に沿うような形で遠江に入り、浜名湖の北岸を旅したことになる。

 

 

 

(大意)井伊直盛どのは、とても礼儀正しい人だ。昨日(そっちに行くから)とメール連絡したところ、迎えに来て下さるとのことだがなかなか会えないでいた。すると井伊彦三郎という人が侍を四五人つれて深山を越えて来て案内して下さった。ずっと行くと、丘の上に小さな城があった。これも井伊一族の城だろう(どこのことか?)。今日中に井伊谷までお越し頂きたいのであまりここでお引き留めはしませんと、使いの僧がケータリングの酒や肴が届けてくれた。馬に乗りながら飲み食いしているうちに日も暮れてしまったので、(井伊谷には着かず)小野和泉守のところに泊まることになってしまった。やがて、直盛殿がやって来た。明日は是非とも連歌の会をしたいとのことである。

 

この日記、参考文献では小野和泉守(吹越満)直盛の関係を分析するために引用されているのだが、もうひとつ、西から来る街道の井伊谷へ入る前に小野の屋敷があることもわかるのである。現在の小野の地が小野和泉守政次の領地だったことの傍証ではないだろうか。

 それにしても、夜になって宗牧を訪ねて小野の屋敷にやってくる直盛はフットワークが軽いということもあるが、律儀な人柄であることがわかる。ドラマの中の人物像にぴったりではないだろうか。

(続く)

 

【参考文献】

小和田哲男 「井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史」洋泉社歴史新書(2016

「静岡県史 資料編7中世三」静岡県(1994

竜潭寺のサイト

http://www.ryotanji.com/