木の仏さま(6) 顕微鏡が解き明かした、鑑真の贈りもの | == 肖蟲軒雑記 ==

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ツボに籠もっているタコが、「知っていても知らなくてもどっちでも良いけど、どちからというと知っていてもしょうもないこと」を書き散らすブログです

 
1994年、一つの研究が始まった。東京国立博物館の仏像担当者と森林総合研究所 の協同によって行われた、この足かけ10年以上に及ぶ一連の研究成果は、以下3報の論文、および1報の解説記事によって詳細に知ることができる。

 

[論文]

日本古代における木彫像の樹種と用材観Ⅰ 七・八世紀を中心に

金子啓明、岩佐光晴、能城修一、藤井智之

東京国立博物館研究誌(MUSEUM) 555巻 353p (1998

日本古代における木彫像の樹種と用材観Ⅱ 八・九世紀を中心に

金子啓明、岩佐光晴、能城修一、藤井智之

東京国立博物館研究誌(MUSEUM) 583巻 544p (2003

日本古代における木彫像の樹種と用材観Ⅲ 八・九世紀を中心に(補遺)

金子啓明、岩佐光晴、能城修一、藤井智之

東京国立博物館研究誌(MUSEUM) 625巻 6178p (2010

 

[解説記事]

木彫像の樹種 - 木彫像用材の科学的分析

              藤井智之

ウッディエンス メールマガジン:日本木材学会発行(2007

pdfがこのサイト からダウンロード可。

 

 専門分野を超えた組み合わせの協同研究はどのようなものであったのだろうか。その成果を一言でいえば、古代日本の木彫像(仏像)に使われた木の種類が網羅的にかつ厳密に特定されたことである。

 

 (1)や(2)でご紹介したように、七世紀(飛鳥時代)の木彫仏は、一部の例外を除き全て樟を用いて彫られていた。天平の空白があった後、再び木彫仏が作られるようになったのは、八世紀後半、東大寺の盧舎那仏が造られたすぐ後、天平勝宝六年(754)の出来事に契機があると考えられている。

 

 その出来事とは何か。幾多の苦難を乗り越えて、唐より弟子たちを引き連れて一人の高僧が平城京にやってきたのがこの年のことである。名高い鑑真和上だ。彼の日本渡来に際しての困難は、あまりにも有名な「天平の甍」(井上靖著)にあるので、事細かには書かない。この小説では、鑑真が日本にもたらしたものについてはあまり語られなかった。しかしながら、実は後世につながる彼からの「贈り物」が多々ある。その一つが新しい木彫仏の作り方であったと考えられているが、そのことをかなり明白に示したのが上記の研究なのだ。

 

【唐招提寺の像群と代用檀像】

 鑑真が渡来して間もないころに造られたと考えられる仏像群が、唐招提寺の新宝蔵 に収蔵されている。見て分かるように、これら一木彫の仏像は、飛鳥時代の木彫仏とは一線を画したものである。前時代の衣の表現が記号的とも見える左右対称であったのとはうって変わり、ちゃんと布に見える薄い衣、そしてその衣の向こう側にある豊かな手足の膨らみ(特に腿や脛)が特徴的であり、とても写実的なものといえる。また、どの像も金箔などで装飾を施した痕が見られない素木(しらき)造なのだが、これは檀像と共通する特徴である。このような仏像が突如として造られはじめたのだ。時代は少し下るようであるが、同じような像が、鑑真渡来を招請した栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)ゆかりの大安寺 にも伝わっている(個人的な好みに過ぎないが、楊柳観音像は出色)。

 

 これらの仏像を彫る技法は、鑑真が引き連れてきた人々の中にいたと崑崙国(中央アジア)人・軍法力 膽波国(ベトナム)人・善聴によってもたらされたと伝えられている。失敗した第二次渡航計画の記録には同行者名簿が残っている。そこには僧侶だけでなく、様々な技術職が列記されており、その中には「檀像」を彫る「彫檀師」も含まれていた。上記二人は、この彫檀師だったのだろう。

 

 (3)でご紹介したように、檀像の作り方は『十一面観世音神呪経』で厳密に定められていた。

 あらゆる事に共通することであろうが、厳密さというのは、ともすれば広がりを持たせる上では足かせにもなるし、場合によっては「異端排斥」という排除の論理を生み出す元でもある。しかしながら、仏教はよく言えば融通無碍、悪く言えばテキトー(失礼!)なところがある。ショッカーの改造人間が寝返って正義の味方仮面ライダーになったように、インドで対峙したヒンズー教の神を取り込む形で現世利益に対応する密教というものをつくり出したぐらいだから、仏像造像マニュアルでの融通ぐらいはお手の物であろう。


 檀像の材料であるビャクダンの木は南方産である。仏教の広がりとともに、「その木が自生しない地で正式の仏像を彫るにはどうすれば良いのか」という問いは当然発せられたに違いない。これに答えるためか、八世紀の初め頃、唐僧慧沼によって『十一面神呪心経義疏』(上記経典の解釈書)が表された。そこには、

 

問若無白檀之國者為何木作像也。(中略)若求而不得者亦以栢木作像也。

   

(意訳)

 

Q:そうりょでプレーしています。せいしん力をアップさせるためにぶつぞうを作りたいのですが、びゃくだんの木が手にはいりません。どうしたらいいですか?



A:びゃくだんの木はさむい所には生えていないから、見つけるのがたいへんだね。でも、しんぱいしないで、森に行って大きな木をさがしてごらん。木を右クリックするとしゅるいがひょうじされるはずだ。そこで「栢」と出たら、これがびゃくだんの代わりになる木だよ。「ぶつぞうをつくる」のコマンドを実行してごらん。きっとうまくいくよ。でも、その前にぎ式を行うのを忘れずにね。(どんなゲームの攻略本だ!)

 

とあるように、ビャクダンについても、土地の事情を考慮した代用材という解釈が用意されたのだ。 その材で彫る仏像も、人々の求めに応じて十一面観音菩薩とは限定されなくなり、大きなものも彫られるようになったのであろう。言うなれば代用檀像である。


 鑑真のそもそもの来日ミッションは、正式に僧になるための手続きである「受戒(授戒)」を伝えることにあった。しかし彼はそれだけに飽き足らず、自分の知りうる限りの「正式な仏教」を東の彼方の国に定着させようとしたのではないだろうか。彼には様々な技術者が従っていたが、その中の「彫檀師」たちの使命は、ビャクダンの木が生えない日本でも作ることができる「可能な限り正式なものに近い仏像=代用檀像」を彫ること、そしてその技術を伝えることだったと思われる。

 

 さて、この「栢」であるが、日本ではどのように解釈されたのか。字形が近い柏ではない。いくつかの説があるようだが、最有力は「カヤ(榧)」である。将棋や碁が好きな方々にはお馴染みの素材だろう。


 従来の研究では、技術的な限界からか、八世紀後半から造られ始めた木彫仏の素材については、「ヒノキあるいはカヤ」といった針葉樹が主流、ということまでしかわかっておらず、なぜクスノキではなくなったのか、という十分な説明はないままであった。

 

 今回紹介する研究の問題意識はここにある。八世紀後半から、新しい形で再出発した木彫仏造像。時期的には鑑真来日以降のことである。彼と共に、写実的な技法だけでなく「栢を用いた代用檀像」という用材観がもたらされ、それに従って「正式の仏像」が造られ始めたのではないか、という仮説が立てられた。


 もし、この仮説が正しいのなら、この時代の木彫仏の素材は「カヤあるいはヒノキ」などという曖昧なことはなく、ほとんど全て「カヤ」であった可能性が高い

 

【カヤとヒノキを判別するには?】

 以前の記事 で述べたように、木材の構成要素である細胞壁は細胞の外の構造体である。これは人間で言えば毛髪のようなものだ。感想を書き出す前に放送された『科捜研の女』(第3話)で描かれていたが、毛根細胞を伴わない毛髪ではDNA鑑定が出来ないように、木材だけではDNA鑑定は行うことはできない。では、どうすれば良いか。この第3話では、毛髪の表面構造にも本人と特定できる特徴があることも描かれていた。樹木でも同じなのである。



 カヤやヒノキはマツ・スギ等とともに針葉樹に属する。分類学上の区分は「裸子植物門球果網 」だ。種がマツボックリという花の残骸(球果)の中に剥き出しでいるという共通の性質による。歴史的に古い針葉樹は生殖方法も原始的であり、広葉樹(大部分は種が果肉に包まれている被子植物)が昆虫や鳥を媒介して受粉するのとは異なり、花粉を風に乗せて拡散させる。スギ花粉などで悩まされるのはこの性質のためだ(そういえばイヤな季節はもうすぐそこ)


針葉樹断面

 針葉樹にはこれ以外にも幹に大きな特徴がある。上の模式図に示すように基本的に仮道管という細胞壁から作られる細長いパイプ(実際には竹の節のように細胞ごとの仕切りがあり、節同士が小さな穴で繋がっている)が束になっているに過ぎない。このパイプは根で吸収した水分の通路としてだけでなく、束となることで、高い樹木を物理的に支える強固な支持体となる。季節ごとに異なるこの仮道管の太さの違いが年輪となって表れる。以前の記事で紹介した、ヒノキの強さと加工しやすさの基本はこの構造にある。

 

 仏像のように千年も昔の木材の種別を厳密に鑑定しようとすると、一般には断片大きく切り取るなどしないといけないらしい。しかしそんなことは、文化財の破壊に繋がり無理だ(いや、無理だった)。


 しかしながら、今回の研究の大きな目的は、針葉樹とされた用材が「カヤ」なのか「ヒノキ」なのかの区別である。目的をある程度限定すれば、何か良い方法があるに違いない。


 仏像研究を専門とする金子岩佐が研究展開を模索する中で訪ねたのが、森林総合研究所の能城藤井だった。論文には書かれていないが、想像をたくましくすると、以下のような会話が思い浮かぶ。




(前略)

「木材の種の厳密な同定は必要ないのですね?」

「そうです。カヤかヒノキか、判別ができれば当初の目的には十分です」

「それなら何とかなるかもしれません。これを見て下さい。カヤだけの特徴なのですが、顕微鏡でわかる特徴があります


カヤらせん肥厚

「それはどのような?」

針葉樹の幹というのは、樹皮以外は原則仮道管という、まあミクロのパイプですか、これの束と考えて下さい。その細胞壁、細胞がつくる構造ですね、これに特徴があるのです。左がヒノキですが、このように内壁はツルツルなんです」

「ええ、ええ」

「それに対して、右のカヤはこのようにらせん状の肥厚、盛り上げっているところとでもいいましょうか、そういった構造があるのが特徴です」

「すると、そこで区別がつくと…」


「はい。電子顕微鏡…うまく切片ができれば光学顕微鏡でも十分観察できるでしょう。それに、今言いましたように、幹のどこをとってもほぼ仮道管ですから、小さなかけらさえあれば十分ですね」

らせんの肥厚があればカヤと…」

「いえ、他にもらせん肥厚を持つ樹木はありますが、カヤは特徴的ですから、私どもが見ればすぐにわかります。ちょうどあなた方が阿弥陀如来かどうかが一目でお分かりのように…」



「そうですか!そうすると試料の大きさは…」

「まあ、最終的には数ミリ四方もあれば…まあ、余裕をみて大きいに越したことはありませんが」

「それなら、修復の際にこぼれ出てくる木屑でも…」

「それで十分だと思いますよ。まあ、やってみなくてはわかりませんが」

(後略)



 これで、方針は固まり研究が始まった。長い年月が掛かったのは、修復などの時期にあわせてしか、試料収集ができなかったからであろう。

 

【その成果】

 最初の論文では主に唐招提寺と大安寺の木彫仏を中心に調査が行われた。結果、

唐招提寺6体の像:全てカヤ

大安寺7体の像:6体がカヤ。残りの1体ではカヤを示す木片以外にヒノキの木片も混在していたが、他からの混入の可能性が高そう。



 鑑真来日後、時を置かずに造られた木彫の仏像はおそらく全てカヤを素材としていたことが判明したのである。



 二番目、三番目の論文の成果をまとめると以下のようになる。

 広く九州~東北の範囲内で調べられた九世紀までの木彫仏52体のうち、40体までがカヤ材であった。例外は、宮城と福島で調べられた10体が、ケヤキ類もしくはトチノキ類であったことと、大分と愛媛の1体ずつがビャクダン類、クスノキ類であったことである。大分と愛媛の例は、それぞれ飛鳥時代の材料選択に倣った、あるいは輸入材を用いたと考えれば説明がつく。

 これに対して東北の例はどうだろうか。カヤの生育北限は群馬県あたりらしい。もちろん、桑折町万正寺の大カヤ のようなもののあるのだが、こういった例は希であり、むしろ大切にされたのではないだろうか。ケヤキやトチノキが代用材の二番候補だったという可能性も考えられる。

 

 つまり、少なくとも平城京(そしてその後の平安京)を中心にした仏教先進地域と言える一帯(でカヤが生育可能な地域)では、木彫仏の素材としては一貫してカヤが使われたと見なせるのである。また、この時代より以前の木造品を調べても、材料としてカヤが採用された例は少ないことを考え合わせると、鑑真来日以降に造られた木彫仏でカヤが使われたというのは、かなりの厳格さを持って、しかも何の下地もない突如としたものということができる。上述の仮説が実証されたのだ。

 

 鑑真の贈り物のひとつは、カヤを用いた仏像を彫るという技術と用材観であったのである。これが、後世の木彫仏造りに大きな影響を与えることになる。

 

【感 想】

 生物を材料にした研究の場合、このように対象との巡り合わせがその成否を左右することがしばしばある。例えば、ある種類の生き物では何をやっても全く見えなかった内部の構造が、すぐ近縁の種に変えたとたんにハッキリと見えるようになり研究がスイスイ進んだ、などという話にしばしば出会って来たのだが、その都度「その生き物は、このために研究の神さまが用意してくれたものなのか」と思ってしまうほどである。



 今回の場合は、区別したい「カヤとヒノキ」の間に、顕微鏡で観察すれば明白な違いがなければ、このような成果は得られなかったであろう。神さまが用意したというよりは、まさに仏縁。仏さまが区別できる構造の違いに導いて下さったのだということかもしれない。

 

(続く)




【参考文献】

(既出のもの以外で)

西川杏太郎 『一木造と寄木造』 日本の美術202 至文堂 (1983


木造と寄木造 (日本の美術 No.202)/作者不明
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東野治之 『鑑真』 岩波新書1218 (2009


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