映画「禅と骨」 平成29年9月2日公開予定 ★★★★☆

 

 

 

へンリ・ミトワ氏は、1918年に横浜でドイツ系アメリカ人の父と新橋の芸者だった日本人の母の間に誕生する。

茶道や陶芸など日本文化に造詣が深い彼は文筆活動も行い、

1970年代からは京都にある天龍寺の禅僧として日々を過ごしていた。だが、

80歳を前にして突然童謡「赤い靴」を映画化すると宣言し……。           (シネマ・トゥデイ)

 

横浜開港記念館でのプレミア上映会に参加してきました。

100周年記念というだけあって、さすがに趣ある歴史建造物!

 

 

「横浜開港記念館」の画像検索結果

 

 

スクリーンも小さいけれど、ホントに横浜!という感じ。

上映後はトークイベントもありました。SNSで拡散するために写真撮影もOKでした。

 

ピンぼけですみません。

左からフランス文学者の鹿島茂氏、中村高寛監督、プロデューサーの林海像氏です。

 

ヘンリ・ミトワについては、何の予備知識もなく観たのですが、

「天龍寺という超ブランド寺の青い目の禅僧」という紹介からは、日本文化を愛する質素で禁欲的な人物を連想していました。

だいたい日本人じゃないのに、京都の寺に受け入れられたというだけで、個人的には大尊敬しちゃいます。

私は(形の上では)「京都に嫁いだ」人間なのですが、京都には1ミリも受け入れられた自覚がないですから。

 

「ミトワさんはどんな人ですか?」という質問に答える京都の(多分けっこう位の高い)住職さんたちのインタビュー。

「禅僧というより、風流人、粋人ですな」

「飄々として生きてはる」

「禅僧にはむいてないのとちゃいますか」

 

あはは、何気にディスられてますね。

 

彼は撮影当時も天竜寺の南芳院に住んでいたのですが、ゴミ屋敷といわないまでも、いろんなものがごちゃごちゃあって

断捨離とは程遠い生活。

↑のタイトル画像でも、左の障子紙が破れたままになっていますよ。

 

90歳を超えてパソコンを使いこなすのも驚きですが、それもそのはず、

若い頃からラジオや望遠鏡を楽々作っちゃうような理系男子だったのです。

そのほかにも、陶芸も絵画も茶道にも才能を発揮し、ただならぬ文才ももった

多趣味で多彩な人物だったのです。

アメリカ時代には家具の設計もしていたし、もちろん、日本語も英語も堪能です。

 

そんな彼が、ある日突然、「赤い靴の映画を撮る」と言い出します。

すべてはそこから始まります。

 

彼はカメラにもこだわりを持っていたし、文才もあったかれど

彼の構想をそのまま映画化することは難しく、製作費ももっていないし、許可申請関係にも疎い。

赤い靴のモデルとなったいわれる岩崎きみちゃん(明治35年生まれ)は、養女になる前に病死してしまって

結局アメリカには行っていないから、話の膨らませようがないんですけどね。

個人的には、あの寂しげな像が「慰安婦像」を連想させて、あんまり楽しい気分にはなれません。

 

「赤い靴よりあなたの人生の方がずっと面白いんじゃないの?」ということで二次的にできたのが本作ですが

完成する前にヘンリ・ミトワは死んでしまいます。

それでも後には引けなくなってしまった監督は取材を続け、カメラをまわし、

なんと8年間かかって、このドキュメンタリーを撮り終えました。

 

何とも不思議な作品です。

まず、パッケージデザインがアバンギャルドで、素敵!

もう、それだけで見たくなりますね。

ドキュメンタリーのなかに挿入される「再現ドラマ」というのは、一般的にクオリティの低いものが多く、

映画全体の質も下げてしまうことが多いのですが、これは、脚本もキャストも超一流です。

 

若き日のヘンリを演じるのはウエンツ瑛士。

 

 

これがヘンリの若い時のパスポート写真ですが、似てますよね。

ジョセフ・ゴードン・レヴィットに一番近いと思いましたが、日本人ではベストのキャスティングだと思います。

演技も〇でした。

アメリカ人の父との間にヘンリを産んだ新橋芸者の母を演じるのは余貴美子。

彼女も、これ以上ないくらいのベストのキャスティングだったと思います。

 

簡単に経歴を書いておくと・・・・

1918年,(大正7年) ドイツ系アメリカ人の父リチャード・ミトワと新橋芸者の母との間に、横浜、根岸でヘンリ誕生

              映画の配給の仕事をしていたリチャードは裕福で、ヘンリはセントジョセフで英語教育を受ける。

1928年(昭和3年) 父と兄はアメリカに行くが、世界恐慌の波にのまれ、事業が傾き、送金もとだえ、

             日本にいるヘンリたちも極貧生活に。

             母は非合法の賭場を自宅で開いて、家計をささえる。

1937年(昭和12年) 日中戦争はじまる。

            ヘンリはラジオの組み立ての仕事をしているが、スパイ容疑をかけられて、常に特高に目をつけられる

1940年(昭和15年) 渡米するが、のちに日本が参戦したため、日本への帰国ができなくなる。

1942年(昭和7年)  アメリカでピアニストの幸子と出会い、結婚。

              その後、日系人たちと共に収容所にいれられ、そこで長男と長女が生まれる

1952年(昭和27年) エンジニアや工業デザイナーとして働き、生活は楽になる

1955年(昭和30年) 日本に残してきた母が死ぬ

1965年(昭和40年) 1961年に単身帰国し、その後家族も呼び寄せる  茶道で「三戸輪清泉」の名前をもらう

1973年(昭和48年) 天竜寺の僧侶となる

 

そもそもチャップリン映画の配給をしていた裕福な家庭に育ち、ヘンリ本人もカメラ好きだったから

幼い時からの家族写真がたくさん存在しているというのは、当時の日本では考えられないこと。

アーカイブな資料と再現ドラマだけでも形にはなるけれど、やはりドキュメンタリーの肝はやはり本人インタビュー。

 

ところが、あれだけ張り切っていたヘンリは、2012年6月1日に亡くなってしまうし、

そもそもヘンリ本人と映画の製作陣の思っていることは最後までかみ合ったとはいえなかったから、

撮影には非協力的で、なんか居心地のわるいシーンの連続です。

たとえば、日本人との高僧と並んでのインタビューシーンで、(多分やっとここまでこぎつけて監督は張り切っていたと思うんだけど)

「今は(インタビューなんかより)光さす綺麗な庭園を撮れ!」という。

「暗くなったら撮れへんじゃないか!」と。

 

監督たちにつきまとわれるのも嫌でたまらず、病院には絶対に来るなとくぎを刺し

「(病院になんかついてきたら)ぶっ殺すよ!」

禅宗の僧だったら絶対に言わないような乱暴な口調に、監督は強いショックを受けます。

 

アメリカの収容所生まれの長男と長女は、映画の製作意図にそった「いい話」をしてくれるんだけど、

晩年一番そばにいた次女は、父の奇行や変態ぶりをで平然と語り

「私たちは幸子さん(母)がピアノを教えてその収入で生きていた。父は外で女を作るようなクソオヤジ」

ついには、カメラのまえで殴り合いの親子喧嘩までしてしまいます。

 

生の素材が少なすぎたのか、普通ならボツにするような緊張感のない生活風景も本編に収録。

再現ドラマの方は、戦前から戦中戦後と、日米ハーフという出自のために時代に翻弄されつつも、

各方面で才能を発揮し、天竜寺の僧侶にまでなった、「青い目の日本通の草分け」のヘンリ・ミトワの生涯を描いた

完成度高いパートになっているのに、このギャップは何??

 

ヘンリは京都で生涯を終えたので、当然京都でのシーンが多いのですが、

横浜生まれで、最後まで「赤い靴」に執着し、山下公園に巨大な聖母観音像をつくりたいといっていたヘンリと、

同じくハマッコの山本監督。

(ラストでCGでホントに観音像をつくっちゃったのにはびっくり!)

二人の唯一の共通項が「横浜」で、同じくハマッコの鹿島茂さんが言っていたように、

横浜愛に満ちた、地元の人にはたまらないポイントがいろいろあったようです。(うらやましい~!)

 

結局は最後は骨になったら、誰が誰かも見分けがつかず、アイデンティティーを発揮できるのは生きているうち。

ヘンリが手元に持っていた親戚縁者のお骨を合葬するシーンでは、無情さを感じながら呆然としてしまいました。

 

日本人とアメリカ人の2つの人格の間で揺れる・・・・ということでは

実は、我が家にももうすぐ日露mixの赤ちゃんがやってくるので、もう他人ごとではないな。

でもこれからの世界を生きる二つの国籍をもった子どもたちは、

200%の可能性をもった明るい未来が開けると信じたいです。