ちゃんと開催できるか不安だったリオデジャネイロオリンピックも無事閉会式を終え、
次は4年後の東京開催ですね。

私は1964年の東京オリンピックも知っているし、
1970年の札幌、1998年の長野の冬季オリンピックも含めると、次で4つ。
人生で4回目も日本開催のオリンピックを経験できるとは・・・・

でも、1940年にも、いったん開催が決まったものの、
戦争のために幻と消えた東京オリンピックがあったのです!



今、秩父宮記念スポーツ博物館の所蔵物の「巡回展」というのをやっていて、
今月は豊島区役所新庁舎のホールでやっていると聞いて行ってきました
(右のは、クイズ参加賞のステッカーです)

もちろん、4年後の東京開催に向けてのイベントなんですが、過去の歴史にも触れていて・・・





1940年関連は、たいしたものなくて、ポスターもレプリカだったんですが、
この幻のオリンピックの存在を知らない人も多いと思うので、こういう展示は意義があると思います。


これは1936年のベルリンオリンピック。
ジェシー・オーエンスはスルーでしたが、大江・西田が半分ずつ分け合ったメダルの本物とかあって感激!
実は、秩父宮博物館の所蔵物はほとんどネットで見られます。➡こちら

このオリンピックでは、日本は6つの金、4つの銀、10の銅メダルを獲っていますが
リオの三分の一くらいの種目数だから、かなりの成果です。

当時は「水泳ニッポン」だったから、水泳のメダルが多いんですが、陸上に限定しても、
マラソンで金と銅
棒高跳びで銀と銅
三段跳びで金と銀
そして走り幅跳びで銅メダルを獲っています。
        ↑
この時の金メダルがオーエンスで、銀がドイツのロング、そして銅が日本の田島直人というわけです。



表彰台での実際の写真。
右から2位のロング、1位のオーエンス、3位の田島です。

オーエンスとロングが国境を越えて友情をはぐくんだ、という、あの映画の最大の感動ポイントがありましたけど
私が違和感持ったのは、
「オーエンスは白人選手より、この色黒の日本人選手の方に親しみをもったんじゃないのかな?」
ということです。

実は田島選手の談話が載った記事がありまして、(↑)見づらいので要約しますと、
「金メダルを獲った三段跳びよりも、銅メダルの走り幅跳びの方が印象深い」
「いっしょにメダルを獲ろう・・と、オーエンスが私に話しかけてきた」
「一緒に参加したアメリカ人の選手もいたのに、色の黒い私に親近感を持ってくれたようだ」
「その後ローマ大会で役員として再会した時もお互いを懐かしんだ」

ロングがオーエンスにアドバイスしたのは予選だし、オーエンスが田島に話しかけてきたのは決勝だから
どちらかが嘘、ということはないんですが、普通に考えて、遠い国からやってきた非白人同士のほうが
より親しくなって当然、という気がします。

このあたりのことを事前に知っていたから、映画を観てる間も、ずっともやもやしていたんです。別にいいけど・・・


最後に、興味のない人にはどうでもいいことでしょうが、当時の実際の新聞記事をべたべた貼り付けてみます。








私は、昔の新聞記事を読むのが大、大好きなので、手元にあったものから抜粋してみました。
戦前の日本は国粋主義で他の国の選手のことはボロカスにいいそうなイメージがあるかもしれませんが
それは間違いです。
オーエンスの世界記録のことも絶賛していて、田島が三段跳びで優勝したときと変わらないくらいの大きな見出しです。

映画「オリンピア」にしても、(日本語字幕のモノとバージョンが違う可能性はありますが)
ナチス賛美だけの映画ではけっしてないし、なんでも自分の目で確かめなくては駄目だと
つくづく思うこのごろです。