映画「杉原千畝 スギハラチウネ」 平成27年12月5日公開 ★★★★☆
原作本「杉原千畝 情報に賭けた外交官」白石仁章 新潮文庫 ★★★★★



1935年、満洲国外交部勤務の杉原千畝(唐沢寿明)は高い語学力と情報網を武器に、
ソ連との北満鉄道譲渡交渉を成立させた。
ところがその後彼を警戒するソ連から入国を拒否され、念願の在モスクワ日本大使館への
赴任を断念することになった杉原は、リトアニア・カウナスの日本領事館への勤務を命じられる。
同地で情報を収集し激動のヨーロッパ情勢を日本に発信し続けていた中、第2次世界大戦が勃発し……。
                                          (シネマ・トゥデイ) 

リトアニアで6000人ものユダヤ人に日本通過ビザを発給した杉浦千畝は
「日本のシンドラー」といわれ、世界中に散らばったユダヤ人たちに命の恩人と感謝されています。
皮肉なことに戦後の日本では彼の功績は全く評価されず、
多くの日本人がそれを知るのは彼が亡くなった後だったのです。
私が彼を知ったのも今から25年ほど前、妻の杉原幸子さんの著書「6000人の命のビザ」を読んで。
1991年7月7日に、日本テレビの人気番組「知ってるつもり」が彼を紹介し、
その後、舞台劇やTVドラマもつくられるようになって、
またたく間に日本でも杉原千畝の物語はメジャーになっていきました。
私はTVドラマは見ていないけれど、1992年初演の「劇団銅羅」の「センポ・スギハアラ」を観ていました。

杉原千畝の名は多くの日本人に知られるようになりましたが、
その情報源は、主に幸子夫人や「スギハラ・サバイバー」たちの著作や証言によるものでしたから、
本国の命令に背いてまで、目の前の何千ものユダヤ人に手書きのビザを与えて
収容所送りを阻止した「美談」としてがほとんどでした。

本人は1985年に亡くなっているので、こうなるのも仕方ないのですが、
最近の検証では、彼は「偉大なるヒューマニスト」であると同時に「稀代のインテリジェンス・オフィサー」だった!
ということが次第に分かってきたのです。

この研究の第一人者である白石氏の著作が今回の原作となっているのですが

彼はこの本の中で、「インテリジェンス・オフィサー(諜報外交官)」と言う言葉を何回も使っています。
スパイ行為、謀略とは一線を画した「良質なインテリジェンス活動」だと強調し、
杉原千畝は、先方との信頼関係に基づくギブ&テイクで信頼のおける情報を手に入れていたというのです。
膨大な数のビザを発給したのも、目の前のユダヤ人たちを見捨てられなくて思わずやってしまってことではなく
あくまでも冷静な的確な判断のもとにやったことだと。
多くのユダヤ難民に紛れて、情報提供者や協力者への国外逃亡を手助けしたとも思われますし、
経済活動に優れたユダヤ人を救うことが将来の日本の利益になる、という思いもあったかもしれません。

「日本の切手をあげたことで親しくなったソリー少年のハヌカのパーティに、夫人をともなって訪れた」
というのも、杉原の親しみやすい人柄を表すエピソードして紹介されるのですが、
彼の父が世話しているポーランドからの難民の親子から、「ポーランドでの生の情報を聞き出したい」
という裏の目的が実はあったのではないかと思われます。(これがtake)

この難民の親子にもソリー少年の家族にも、杉原はビザを与え、
彼の得た秘密情報から、もう時間の猶予はなく、すぐに出国することを強くすすめます。(これがgive

ところが、ソリー少年の父が会社をたたむのに時間を要し、時間切れで出国はかなわず、
彼らは捕えられて収容所送りとなります。
その後、ソリー少年は壮絶なホロコーストを生き延び、収容所解放時に彼を助けてくれたのは
米軍日系部隊のクラレンス・マツムラという青年でした。
くしくも二人の日本人に助けられた彼の回想録は、日本でも出版されています。


本の話のついでに、白石仁章さんの著作についてですが、
彼は他にも杉原関連本をたくさん書いていて、おすすめなのが↓の2冊。

右は2011年に出たもので、内容は今年発売の新潮文庫とほぼ同じです。
(プラハ時代に関する章があとから追加されました)
なぜおススメするかというと、新潮文庫の方は図書館でかなりの予約待ちになるけれど
こちらは中身が同じなのに、「けっこうすぐに借りられる」というセコイ理由からです。
もっとおススメしたいのが左の児童書。
子ども向けの伝記は、ひたすら彼の人道的な美徳をたたえるもので、
「不眠不休でひたすらビザを書き続けました」みたいなものがほとんど。
この本に限っては、彼のインテリジェンス・オフィサーとしての面をしっかり紹介しています。

リトアニアの領事館閉鎖後はドイツ領プラハ、
そしてドイツ領ケーニヒスベルクの日本総領事館で働くことになったのが1941年5月。
ここは今はカリーニングラードとよばれ、ロシアの飛び地になっていますが、
ドイツ・ソ連国境に近く、諜報活動をするにはうってつけの場所でした。
彼はここでドイツが不可侵条約を破ってソ連に攻め込む準備をしているという決定的証拠をつかみ
いち早く本国にその情報を送るのですが、日本が何の対応をしないまま、翌月には戦闘状態に。
そしてその半年後には日本も参戦することになってしまうのです。
杉原は6000人のユダヤ人を救っただけでなく、その諜報能力・分析能力で
はるかに多くの日本人の命を救えたかも知れない人物だったのです。

↑児童書なのに、こんなことにもしっかり触れている骨太な内容です。
振り仮名もふってあって、小学校中高学年向けの体裁ですが、むしろ大人の方におススメしたいです。
この本も私は図書館で借りて読みました。


映画のことに触れないまま長文になってしまいましたが、
本作は杉原が外務省に戻る前、満州国外交部にいたときの
北満鉄道譲渡交渉の際のまるでスパイ映画のようなシーンからはじまり
ケーニヒスベルクでの諜報活動にまでちゃんと言及しています。

ユダヤ人を助けた話だけ知りたい人にはずいぶん取っちらかった印象かもしれませんが、
ある程度彼に関する本を読んでいたら、なるほど、と思う個所が多くて、大変興味深かったです。

◎戦後、ユダヤ人たちが外務省に問い合わせても、なかなか杉原にたどりつけなかったのは、
千畝を(発音しづらいから)センポと教えていたから、というのが通説ですが
あそこで対応した役人(滝藤賢一)は彼の直属の上司だったから、(センポでわからなかったんじゃなくて)
実は、杉原の存在を明らかにしたくなかったんじゃないか?

◎昼も夜も腕が折れても書くくらいのつもりで不眠不休で書き続けた・・・・
責任が及ぶのを恐れ、妻にも手伝わせなった・・・
これも間違いではないんでしょうが、実際は、すべて手書きは最初のうちだけで
そのうち、杉原の筆跡に似せたスタンプを押して、ほとんど書かなくて済むようになったみたいです。

↑これが全部手書きver (昭和15年7月)

↑こっちはスタンプver (昭和15年8月)

スタンプが多くなると人にも手伝ってもらえるから、領事館員だけじゃなくて
ボランティアスタッフ(?)の手も借りていたようです。

◎杉原千畝ひとりだけの力で国外に逃れられた、というのはちょっと言い過ぎで
彼の発行できたのは日本の「通過ビザ」でしたから、
在カウナスオランダ領事ヤンの発行した「オランダ領キュラソーにビザなしで渡航できる証明書」、
それに杉原の学校の後輩でもある、ウラジオストック領事代理の根井三郎の力も必要でした。
彼はシベリア鉄道から船に乗り換える際の難民たちのビザのチェックをするのですが
日本の出したビザの信用を失わせることはしないと、彼らに天草号への乗船許可を与えます。
まさにヤン→杉原→根井へと善意のバトンがリレーされていくかのようです。

映画では船が敦賀港に近づくところで終わっていましたが、このあとも、敦賀の人たちが
見慣れないユダヤ人難民にどう接したか?
善意のバトンはちゃんと受け継がれたのだろうか?
このことについてもぜひ伝えて欲しかったと思います。

映画「少年H」の中で、水谷豊演じる洋服屋の父親が、敦賀に来たユダヤ人たちの破れた服を修理する・・・
というシーンがあって、とても印象に残っています。
彼の家はクリスチャンだったから、日本の教会が中心になってお世話をしたんでしょうか?

シリア難民の受け入れ態勢が話題になっている今、日本だって地理的には遠いけれど
難民を受け入れられる精神的な余裕は常に持っていなければと思います。
この部分は絶対に入れて欲しかったのに、とても残念です。

日本映画なので、日本人が観ることを想定して作っているのかと思いましたが
ポーランド人もリトアニア人もドイツ人も、外交官だけではなくて民間人もみんな英語を話している・・・
数か国語も堪能な杉原がヨーロッパで英語だけで対応するというのも不自然です。
(唐沢寿明は、膨大な英語のセリフをとても頑張っていたとは思いますが・・・)
要するに、英語圏で上映することを重要視しているんですかね?

それほど長くない上映時間のなかに、かなりの情報量をつめこんでいるので
「感動して気持ちよく泣きたい」という向きにはおススメはできません。
むしろ「なるほど」と納得する部分が多く、持てる世界史の知識を総動員して、
一生懸命に見て頂きたいと思います。
それにしても、本作のプロモーションではひたすら「泣ける映画」を強調しているので、
これはとてもとても残念なことです。

ちなみに、杉原は1900年生まれなので、年齢計算がとてもしやすいです。
1932年(32歳) 満州国外交部
1936年(36歳) 菊池幸子と結婚
1937年(37歳) フィンランド日本公使館 通訳官
1939年(39歳) リトアニア日本領事館  領事代理
1940年(40歳) プラハ日本総領事館 総領事館代理
1941年(41歳) ケーニヒスベルク日本総領事館 総領事代理
      ルーマニア日本公使館 通訳官
1945年(45歳) 収容所 (ブカレスト→ソ連)
1947年(47歳) 日本に帰国 外務省やめる
1968年~ ユダヤ人たちと再会
1985年 (85歳)イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」(本人行けず)
1686年 (86歳)逝去

86年の生涯というのはけっして短いことはないですが、私たちが気づくより先に亡くなってしまったので
本人の口から真実を聞くことはできません。
ただ杉原千畝が私たちに投げかけてくれたものはあまりに大きく、
こうしてメジャーな映画が作られても、もっと知らない「すごいこと」があるのじゃないか、
と言う気持ちにさせられます。

目の前の不安やとまどいに左右されず、大局を見据えて、的確に判断できる能力というのは
誰にもあるものではありませんが、「人の役にたちたい」という強い思いは私たちも受け継ぎたいと思います。

最後に、映画でも紹介された、杉原と根井がロシア語を学んだハルピン学院のモットー「自治三訣」を。

「人のお世話にならぬよう
人のお世話をするよう
そして報いを求めぬよう」