映画「パパが遺した物語」 平成27年10月3日公開 ★★★☆☆



1989年のニューヨーク。
小説家のジェイク(ラッセル・クロウ)は妻の死で心に傷を抱えながら、男手一つで幼い娘ケイティを育てていた。
さまざまな問題が降り掛かる中で、彼は自分と娘の物語の執筆を進めていた。
25年後、心理学を学ぶケイティ(アマンダ・セイフライド)は、
ある出来事により人を愛せなくなってしまっていた。
そんなある日、父のファンだというキャメロン(アーロン・ポール)と出会う。(シネマ・トゥデイ)

(一般的に)父親の娘に対する愛情はひたすら一途で、娘の方がむしろそれを受け止めきれずに
なんかギクシャクするのだけれど、大人になっていく過程でどこかで必ず分かり合えるチャンスがくる・・・・
というのは、私自身の経験でもあり、夫と娘たちをみていてもいつも思うことで、
このジャンルの映画は最高に共感度高いです。
邦題からは、「問題の多い親子関係だったけれど、父の死後、父の遺した手紙をみつけて誤解が解ける」
みたいな流れかと思っていました。

父ジェイク・デイビスはピューリッツア賞を獲るほどの有名作家だったのですね。意外!

1989年ニューヨーク。
一家で車で移動中に交通事故にあって母パトリシアは亡くなり、
運転していた父もその時のケガが元で脳に障害を受け、
8歳のケイティを妻の姉夫婦にあずけて入院していたのでした。
(ケイティはなぜに無傷?「イフ・アイ・ステイ」のクロエのように、臨死状態で魂なのかと思いました)

7か月後退院してケイティを迎えに行くと、姉のエリザベスとその夫から思いもかけない申し出をされます。
「ケイティはこのままうちで預かり、ジェイクがきちんと社会復帰したら返す」
「うちは裕福だ。治療費でお金も使い果たしたろうから、折角入った私立学校に通わせたい」
「あなたは酷い運転で私の妹を殺したのよ」
「はっきりいえば、うちの養女にしたい」

もちろんジェイクはそれを断りケイティを家に連れ帰り、自分が無報酬で授業をもつことを条件に
既に枠のない公立学校にケイティを転校させます。
病院で書いていた小説「苦いチューリップ」を出版社に持ち込みますが、散々な書評に売れ行きも伸びず、
治ったはずの右手の痙攣も再発し、執筆にも生活にもことかくありさま。
それでもどうしてもケイティを手放したくないジェイクは、無理をおして小説を書き続けます。

映画「シンデレラマン」の中で、ラッセル・クロウは奇跡の復活をとげたボクサーの役だったのですが、
試合ができないほどの重傷を負った彼は、ケガをかくして港湾労働者となり、
家族のために必死で働くシーンでは、涙、涙、でした。

肉体労働もきついけれど、家計は破産状態、幼い娘の世話も必要な状況で
それでも書き続けなければいけない、そしてそれが評価されなければ生きていけない・・・
って、どれだけ大変なことでしょう!
そしてそういうことができてしまう人間の強さに驚きます。

とにかくですね、ケイティ役の子役の女の子があまりに可愛すぎて、反則です!
もうこんな子いたら、誰だって必死になるよな~
7か月もあずかったら返したくなくなるよな~
と納得させられてしまいます。

それにしても、姉夫婦のところには男の子二人いるから、別に養女になんかしなくても、
もうちょっとソフトに世話を申し出たら、険悪にならなかったのにね。

日本だったら、もし有名作家が事故にあって妻を亡くして本人も後遺症に苦しんでいたら
しばらくは過去作も売れるだろうし、新作の出来が多少悪くても、酷評なんてしないで
温かい目で見守ってくれそうなもんですが、アメリカは厳しいですね~

ジェイク頑張れ!!とエールを送っていたら、いきなり場面は25年後に。

ケイティは美しく成長してアマンダ・セイフライドになってました。
この映画、やたら時間軸が動くんですよ。
ケイティが8歳の時でも、事故前に母が生きている時と、亡くなって遺影になった時とが
これ必要?と思うほど小刻みにワープします。

25年後、ケイティは心理学を修めて問題児のケアワーカーをしています。
そうなると、「パパはどうした?」って思いますよね。
ラッセル・クロウの年齢(51歳)だったら、そのままパパ役もできそうですが、
邦題の「遺した」からもう死んでることがネタバレしてるぞ!

ケイティは12歳の黒人少女ルーシーのカウンセリングをしているのですが、
彼女を通して自分の幼少期を振り返ったりして
現在と25年前を切り替えながら話が進み、「パパはどうなったか」は最後で出てくるのに
「死んでること前提」でなってはやはりマズイと思います。

実は、一見まじめそうな大人のケイティは、重大な問題をかかえています。
すごい美人なのですぐ男が寄ってくるんですが、相手が口説こうとするのを制止して
「デートもファックもOKよ」と、車だろうがトイレだろうが、すぐことに及んでしまいます。
過去のトラウマから、好きでない男とでもSEXしている間だけ心が満たされる、という困った性分。
心理学を研究して、他人のカウンセリングを仕事にしているのに
33歳にもなってこんな尻軽では仕事クビになりそうなもんですが・・・?

そしてある日、父ジェイク・デイビスの大ファンだというキャメロンと言う青年がケイティの前に現れます。
彼の人生を変えた本「父たちと娘たち」のモデルになったのがケイティと知って大興奮です。
二人の距離は縮まり、恋人同士となり、セックス依存症がバレても、キャメロンの心はかわりません。
ある日、両親に紹介したいというキャメロンの言葉に前の日まではOKしていたのに、
直前になって、気が変わって逃げ出してしまいます。

さて25年前に返って、(実際はもっと頻繁に時間が飛んでいます)
デイビス家の経済はさらに困窮し、姉夫婦が親権を争う裁判をふっかけてきたものだから
それに勝つための弁護士費用(着手金だけで25000ドル!)の負担ものしかかってきます。
ジェイクは寝る間も惜しんで書き続け、部屋のなかは荒れ放題。
「なにをやっても金のかかる国に住んでるんだ!」とケイティにも怒鳴るようになります。

現代のシーンでは、ようやく心を開いてくれた少女ルーシーに養父母が決まり、
もう彼女とは会ってはいけないと言われ、大ショック!
「これは私たちが望んでいたことなのよ」と言われても、ルーシーと別れられずにいます。

良好だったキャメロンとの関係も、またケイティの「病気」が再発して、
見知らぬ男を自宅に誘い込んでセックスしちゃったようで、さすがのキャメロンも逃げ出してしまいます。

過去に戻って、ジェイクは夜中に発作を起こし、頭をぶつけて、亡くなります。
そして死後、困窮の中で書いた「父たちと娘たち」がたくさんの賞を獲ります。

現代シーンでも、なんとなくハッピーエンドっぽい感じには仕上がってましたが、
結局父の最後の作品の内容が全く出てこないから、なにがどう結び付くんだか
理解不能でした。
最後の最後でケイティを自堕落の道から救ったのは、ジュークボックスから流れる
(父と幼いころ歌った)カーペンターズの「クロース・トゥ・ミー」でしたね。

この映画、とにかく「泣ける」というのが売りのようですが、あんまり頻繁に場面が変わるので
変に頭を使うから、意外と泣きづらいかもしれません。

私はパパが娘のためになにもかも犠牲にして頑張るところではうるうるしました。
(映画とは関係ないですが)昔私たちの文庫に作家の宮川ひろさんが来て下さった時に
「夫が入院してしまい、働き手を失って極貧状態。
童話を書き始めていたころだったので、夫の看病をしながら、ベッドの横の小さいテーブルで必死に書いた。
書きあがらないと入院費も払えないので必死でした・・・」
と言う話を(ほんの1m位の距離で)お聞きしたことがあります。
そして(タイトル忘れたけれど)その話がとても心温まる話だったので
人間は切羽詰まった極限のなかでも幸せを紡げるんだ!と思ってとても感動しました。

「シンデレラマン」のシーンとかこんな話を思い出しながら、前半はけっこう泣いてたんですが
後半は「この設定はこう変えた方がいいんじゃないの?」とかダメだししながら観ていました。
「幼い時の性的虐待が原因で人を愛せない」というのなら納得するけれど
「セックスでしか寂しさを紛らわせない」なんて異常だし、説得力あるオチもなし。

ひとことでいうなら「脚本がまずい」ということなんでしょうが、
キャストは素晴らしかったです。
ケイティの子役も天使でしたが、アマンダも、あまりに無理やりな役をやりきっていましたよ。
ラヴレース」では伝説の「ディプスロート女優」を体当たり演技で、
ポルノ女優にこんなに共感できるなんておもいませんでした。
それにくらべたら、33歳のケイティには少しも共感できませんでしたが、
男を挑発するところなんて、二重人格なんじゃないかと思うほどでした。

シャネルの広告塔ダイアン・クルーガーが老けメイクをして皺だらけになってるのにも感激。
ほとんどセリフのないルーシーに「ハッシュパピー」の子役を使う贅沢、
ジェーン・フォンダやジャネット・マクティアやオクタビア・スペンサーや・・・
脇役もいちいち名優揃いです。

なので最後まで飽きずに一生懸命観ましたが、「結局なんだったの?」感がつきまとって、
感動作にするにはどう手直しするべきか、観た人たちでいろいろ話し合いたくなってしまいます。