時折、悲鳴と、それを必死になだめる抑えた声が、交互に聞こえる入浴を終えて、シコさんは、少し混乱気味で浴室を出た。
二人で入浴介助した、そのひとりが、シコさんを奥の和室に誘導する。
混乱が治まるまで、シコさんはなるべく誰とも接しない方がいい。
渇いたのどを潤して、入浴の疲れと共に、少し眠って休んだ方がいい。
シコさんが落ち着けるように、ベッドで添い寝するようにオオノさんが横になった時、シコさんはするりとベッドを抜け出した。
おそらく、オオノさんにうまく誘導されていることに違和感を感じたのだろう。
オオノさんがその動きについていけない隙に、シコさんは、そそくさと部屋を出た。
部屋をひとつ挟んでそれを見ていた僕が次に見たのは、手をやや強引に引っ張られて、和室に逆戻りしたシコさんだった。
手を取っていたのは、アカリさん。
それは、珍しい光景だった。
シコさんが、スタッフの手を強く引っ張って歩き回る姿はいつものことだが、引っ張られているシコさんは、珍しい。
アカリさんが、怒っているのが、分かる。
おそらく、入浴の苛立ちを整理しきれないまま、和室を飛び出したシコさんは、そこにいた無防備なアカリさんに、反射的に手を出したのだろう。
少なくとも、そこにいたのがお年寄りでなくてよかったと思いながらも、僕は心配になって、和室のふすま近くに寄った。
「私は怒ってます。
何故、ひとの見ていないところで、ひとが見ていないと思って、私を叩くんですか。
叩いたじゃないですか。
どうしてですか」
それは、抑えた声ではあったが、感情は抑えきれない怒りが感じられた。
アカリさんには、あれはそう2年前に、仙人に飛びつかれた時のように、もしかしたら、か弱く見える自分が狙われたかもしれないという憤りがあったのかもしれない。
シコさんにそんなことができるのだろうか?
できるできないで言えば、できるだろう。
むしろ、するだろう。
その時、シコさんにそういう判断があったかどうかまでは分からないけれど。
アカリさんに問い詰められて、シコさんが逆に語気を強めて、言う。
「やってない!知らない!」
それはおそらく、噓じゃない。
シコさんは意識してアカリさんを叩いたわけではないだろうし、叩いたという意識はないだろうし、あったとしても忘れているだろう。
残っているのは、イライラが残る自分の気持ちだけだ。
それを、アカリさんだって分かっている。
けれど、だとしても、その時の気持ちをどうやって整理したらいいのだろうか。
分からない、忘れた、意識していない、だからと言って、やったことの責任の少しも、シコさんは負うべきではないのだろうか。
負わすべきではないのだろうか。
シコさんは、アカリさんからふいっと逃げるように歩き出す。
「まだ、話は終わってません」
アカリさんの呼び止めに、シコさんが応じるわけはない。
そのシコさんをちょうど受け止めたのは、オオノさん。
オオノさんは、シコさんをなだめるようにして、和室に二人きりになり、しばらくして二人はまたベッドで横になった。
やっと、シコさんは、少し落ち着いたようだった。
アカリさんは、すぐ大声を出して大騒ぎにして場面転換を図ろうとする僕のような下品なやり方は、しない。
僕の下品な、強引につじつま合わせをするようなやり方は、そのつじつま合わせにひとつに、自分のやるせなさを少し発散する目論見があることを、否定できない。
シコさんの暴力は、叩くつねる噛みつく、が本当のところではない。
上品ぶった、介護職ぶった自分の、晒したくない個人的な部分を、強引に引きずりだす、そのことだ。
感情をかき乱される、そのことだ。
仕事だなんてことで、やってられないんだ。
仕事と割り切らなきゃ、やってられないんだ。
そうやって、引き裂かれるんだ。
そこが、本当につらいところだ。
整理できない自分の感情を、何の解決もないまま、放り投げられたまま。
仙人の事件があった時、まだ介護の仕事に本腰を入れる決心がついていなかったアカリさんに、僕は言った。
こういうことは、これからもきっとある。
もしそれが嫌なら、この仕事を辞めたらいい。
仙人の事件をきっかけに、アカリさんは、この仕事をちゃんとやろうと決心した。
そして、僕が言ったように、そういうことが、やっぱり、ある。
アカリさんは、きっと覚えているだろう。
そして、整理できないことを、整理できないまま、放り投げておかなきゃいけないことも。
とても難しいことだ。
けれど、ひとが生きるってことは、そんなにちゃんと整理できることばかりじゃない。
シコさんが生きることも大変だ。
僕らだって、誰だって、きっと大変だ。
うまく物事が、収まっていくことなんか、ないと思った方がいいかもしれない。
シコさんと生きていくということは、そういうことだし、それは、そもそも生きていくっていうことは、そういうことだ、ということだ。
ということに、していこうじゃないか。
僕だって、ひとに言えるほど、何も整理できちゃいない。
何にも収まっていかない。
面白いじゃないか。
そうでなくちゃ。
なあ、面白いじゃないか。