介護まめ家の冒険

岐阜県羽島市の宅老所デイサービス介護まめ家の架空の日常を綴ります。


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朝一番に、キコさんを迎えに行くことが多い。

 

今朝もそうだった。

 

玄関から「おはようございまーす」と声をかけると、奥からお嫁さんが「ありがとうございまーす」と返してくれる。

 

ガラガラとダイニングの引き戸が開き、お嫁さんが椅子に座っているキコさんの両手をとり、自分の体重を後ろにかけて、グイっと引っ張ってキコさんを立たせるのが見える。

 

キコさんは、立位がますます後ろ体重になって、転倒が増えた。

 

中々立とうという気になってくれないし、デイのお迎えという時間が限られた場面では、グイっと引っ張るしかないのだ。

 

それを眺めながら僕は、お嫁さん、それを迷いなくやれるようになったんだなぁ、と思った。

 

 

 

 

 

玄関に両手引きで誘導されたキコさんに、お嫁さんが問う。

 

「上着着ていく?外は寒いよ」

 

キコさんは、アハハと笑って、はっきりした返事をしない。

 

今朝は本当に寒かった。

 

上着は着ていくべきだ。

 

お嫁さんは、キコさんの右腕をジャケットの袖に通す。

 

そして、左の袖を左肩に掛け、キコさんが右手でそれをもったところで、クルッと向きを変えて、床に置いてある荷物をまとめる。

 

その間にキコさんは、必死になって左の袖に腕を通している。

 

着こみ過ぎていて、腕がなかなか通らない。

 

お嫁さんは、それを見て、介助してキコさんの左腕を通して、ジャケットを着させた。

 

 

 

 

お嫁さんは、初めからこういうことができたわけじゃない。

 

どこまで義母の言うことを汲み、どの時点でどの程度強引に対処するか。

 

デイサービスのスタッフという外部の人間が見ている前では、さらにそれは判断を迷うことかもしれない。

 

その判断は、刻々と変わるキコさんの状態に沿って変わらざるを得ない。

 

お嫁さんが出来るようになったことは、「どのようにお義母さんに対処すればベターか」ということを決めることではなく、自分自身で判断することに自信をもつことだろうと思う。

 

どのように対処するかは、刻々と変わるのだから。

 

 

 

 

介護職員なら、キコさんが左腕を袖に通そうとする前に、「できる?」「だいじょうぶ?」「よいしょ!」などといらぬことを言いたがる場面だ。

 

お嫁さんはそっと身体の向きを変えて視線を外して、キコさんの自然な動きを邪魔しないことを心がけていることが分かる。

 

お嫁さんにはその瞬間に「荷物をまとめる」という用事があり、それに専念することで、キコさんのその時やるべきことは「ジャケットを着る」ということだと、キコさんに空気で伝える。

 

キコさんは既にジャケットを着るモードに自然に導かれて、それに専念する。

 

僕は、これを「生活支援」というのだろうと思う。

 

見事だ。

 

 

 

 

最近、或る偏屈な介護仲間と話したことが、ずっと頭に残っている。

 

彼は、スタッフ・ミーティングをしない、と言った。

 

何故なら、情報の過剰さがスタッフの自然な動きを阻害し、「生活」という自然さを邪魔するからだ。

 

彼が言ったことを僕なりに翻訳するとこういうことだと思った。

 

スタッフの自然な動きとは何か。

 

スタッフと言っている時点でそれは自然ではない。

 

人間として自然な動きということだ。

 

それは彼によると、転びそうになった人に思わず手を出してしまうこと、そういうことが自然なことであり、当たり前のことだろう、と。

 

ミーティングとは、台本を組むことだ。

 

マニュアルも技術も知識も同じ。

 

資格も介護保険も同じ。

 

そういった作為を一切省いて、ひとの自然さに任せる。

 

 

 

 

とはいえ、専門的な介護の知識や技術が全く必要ないかというと、そういう訳にはいかない。

 

彼はそれを、「専門的に担当するスタッフ」を自分の他にもう一人置いて、食事やトイレや入浴などの「介助業務」と呼べることは、二人ですべてやる。

 

その二人は、「自然さ」を作為的に作ることができるという意味でも、専門的なスタッフなのだろうし、深いところで二人がつながっている同士でなくてはいけない。

 

その他のスタッフは、ただそこに居る人として、いる。

 

 

 

 

そうするには、大きなスケールでは不可能だ。

 

ただそこに居る人が、転びそうになった人に思わず差し出した手が届く範囲に居なければならない。

 

二人の「専門的スタッフ」ができる介助量でなければならない。

 

定員10名の彼のデイサービスは、そうした事情で、実質定員は7名なんだそうだ。

 

 

 

 

 

僕は、これは小規模ケアの一つの究極的な考え方なのかもしれないと思う。

 

もちろん、彼の言うことを、「自然さ」と言いながらやはりそれも「作為」なのではないかといちゃもんをつけることは出来るだろう。

 

僕はそれよりも、彼のストイックさ、正直さに心を惹かれる。

 

その考え方の前では、「できる?」「だいじょうぶ?」「よいしょ!」ですら、自然なことなんじゃないか。

 

介助としての適切さよりも、例え利用者にとって都合が悪くたって、「自然さ」を優先させることが、本当の「生活支援」なのではないか。

 

偶然が呼び込むなにがしかを「福」と捉えることこそ、自然なことなのではないか。

 

お年寄りの不利益を排除することが「利用者本位」ではなく、不利益だとしても自然であることを受け入れることが本当の「利用者本位」であり、それはもう、利用者本位でないことこそ利用者本位なのだ、ともうわけが分からないことになる。

 

いや、全然よく分かるよ。

 

 

 

 

一昨年の春、福岡の「よりあいの森」の見学ツアーに参加した。

 

僕は、別に「よりあい」さんに特別な質の高い介護を期待していたわけではないし、そんなものはないだろうと分かっていた。

 

そんなもの、必要ないだろうと。

 

正直、そこで暮らしている方々と触れ合うような時間は、苦痛だったな。

 

ひとの生活のなかに、集団がどかどかと無遠慮に入っていくことが我慢できないし、その一員に自分がいるということは、もっと我慢できない。

 

 

 

 

そこで僕が目を引かれたことは、介護用品と言えるものが、ほとんど目につかなかったことだ。

 

お年寄りに合わせた高さのテーブルや椅子、のような。

 

そういった、お年寄りに都合のいいもの、は極力排されているんじゃないかと感じた。

 

その代わりに、古ぼけたソファーや低いテーブルが、普通にあった。

 

食事の場面でさえ。

 

 

 

 

お年寄りの体格に合わせたテーブルやいすを用意することは、介護の基本だ。

 

同時にそれは、お年寄りを「介護される人」という役柄に限定するリスクが伴う。

 

自立とは、既製品に自分を合わせるその能力のことだ、という言い方も一つあると思う。

 

誰が、オーダーメイドに囲まれて暮らしているというのだ。

 

それは、とても不自然なことだ。

 

お年寄りに合わせたイスやテーブルが揃った空間が、不自然に見えるのはそのためだ。

 

 

 

 

キコさんのお嫁さんが、以前より強引にキコさんの手を引っ張り立たせるようになったのは、お嫁さんの朝の事情もあれば、キコさんが以前の様に不機嫌に反応しなくなったこともあれば、例えデイのスタッフが見ている前であっても、それくらいの強引さはあってしかるべきだという気持ちの折り合いがついたこともあるだろうと思う。

 

同時に、以前と同じように、キコさんの意に沿わないことはやりたくないという意志が、キコさんの自然な動きを導く自然な所作に表れている。

 

 

 

 

キコさんにとって不本意なことだってあるだろう。

 

けれど、椅子やテーブルがお年寄りに合わせてくれるばかりでは、やっぱり不自然だ。

 

お年寄りが、自分にそぐわない設備に対して、何とか合わせようとする、そのチャンスを奪っていいものじゃない。

 

だってどう見たって自然なことは、既製品に自分を合わせて、それを自分のモノにするという、その試みの方だと思えるからだ。

 

 

 

 

不本意だって、お年寄りの「本位」の一つに違いない、と言ったら、言い過ぎかしら。

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まめ家でネズミの気配がし始めたのは、半年くらい前だったろうか。

 

壁の向こうでゴソゴソ、時にはドンドン、物音がするようになった。

 

ゴキブリさんは、もちろん何度も見たことがある。

 

けれど、ネズミさんを見たことはない。

 

特に、野生のは。

 

なんとなく、檻の中で輪っかに乗ってぐるぐると回るネズミさんを想像していたのだ。

 

トムとジェリーを想像していたのだ。

 

しかし、現実のネズミは、そんな愛らしいものではなかった。

 

キッチンで芋やお米や、時には柿が食い散らかされるようになった。

 

ネズミといえば、バイキンの塊、みたいなイメージであって、多くの人が集まるまめ家でそれは、最もいてほしくないやつだ。

 

 

 

 

ある夜遅く、事務所にいた僕は、キッチンで物音がするのに気がついた。

 

ジェリーが食い物を荒らしている、間違いなく。

 

僕はそ〜っとキッチンに入った。

 

手には、ゴキブリ用の殺虫剤。

 

やつに少しでもダメージを与えられそうな兵器は、これしかなかった。

 

ジェリーは警戒心が強く頭がいいらしい。

 

僕の足音に、ピタリと物音を消した。

 

食器棚の陰にいる。

 

それを察知した僕は、殺虫剤のスプレーを食器棚と冷蔵庫の隙間に噴射した。

 

反応はない。

 

もう一度噴射すると、ジェリーが突然飛び出して来た。

 

僕は思わず、うぎゃぎゃ〜!と大声がでてしまった。

 

我ながら情けなかった。

 

 

 

 

勝手口の土間に逃げ込んだジェリーは、おそらく洗濯用のハンガーの束の中にいる。

 

それが分かっても、怖くて近づけない。

 

少し距離を置いて、再び殺虫剤を吹きかけると、やつは飛び出して来た。

 

それはそれはすばしっこい。

 

おまけに、僕は腰が引けている。

 

僕がまたしても、うぎゃぎゃ〜!とビビっているすきに、やつはキッチンを駆け抜けて、廊下の直角のカーブをドリフトしながら曲がって、姿を消した。

 

 

 

 

ジェリーによる被害が目立つようになった。

 

ほぼ毎朝、やつの被害を確認するようになった。

 

米はプラスチックのボックスに入れられ、お菓子箱は丈夫な袋に入れられ、口はしっかり紐で縛られるようになった。

 

おかげで被害は減ったが、根本的な解決が必要だった。

 

夜遅くになると、やつの気配を感じるし、時には昼間でさえ、壁の向こうでやつの動く音が聞こえた。

 

 

 

 

どうやったらやつを捕らえ、退治することができるだろう。

 

インターネットで調べてみると、直にネズミの姿を見るようでは、素人の手に負える段階ではない、と書いてあった。

 

まめ家は、完全にやつの縄張りと化してしまったようだ。

 

それでも諦めきれず、ネズミが嫌がる超音波を出すマシンを取り付け、ゴキブリホイホイのもっとひどいやつを設置し、毒エサを仕掛けた。

効果は全くなかった。

 

 

 

 

残念なことに、本当にもう僕らのような素人が太刀打ちできる段階ではないらしい。

 

去年末、ネズミ駆除の業者を頼んで、見積もりを出してもらうことにした。

 

業者のお兄さんは、屋根裏にまで上がって、ネズミのフンのある場所を追い、ジェリーの行動経路を割り出した。

 

駆除の方法は、被害を実際に出しているネズミを退治することと、新たなネズミが侵入する穴をふさぐことだという。

 

経費は、10万円近くかかるとのこと。

 

まめ家は借家なので、大家さんと相談して、年明けにも駆除を実行に移そうということになった。

 

 

 

 

意外なことが分かった。

 

ジェリーは、外から直接キッチンに侵入しているわけではなさそうだということだ。

 

それが分かったのは、ある朝キッチンの扉の向こうに、細かい引っ掻いたカスのようなものがみつかったからだ。

 

たまたま、キッチンにつながる引き戸が全てきっちりと閉められていて、侵入を試みたジェリーが断念した跡のようだった。

 

さすがに、やつには引き戸を開ける力はない。

 

そうなのだ。

 

やつが外から侵入できるのは、どうも押入れのどこかの壁の隙間だけで、キッチンへは、廊下やリビングを通って来ているらしいのだ。

 

もしそうなら、扉をきっちり締めておけば、やつはキッチンに侵入することができないはずだ。

 

その日以降、ジェリーによる被害は見られなくなった。

 

 

 

 

年が明けて、事務所で僕が発見したのは、僕が無造作に置いたカップヌードルの容器が破かれ、麺が食い荒らされた跡だった。

 

僕は、カップラーメンを食べる習慣がなく、たまたま買い置いたものをずっと放ったらかしにしていたのだった。

 

キッチンの被害は避けられるようにはなったが、まめ家がやつのテリトリーであることには変わりがない。

 

根本的な解決が必要だった。

 

 

 

 

それから数日後、ジェリーの亡骸が、発見された。

 

第一発見者は、僕だった。

 

けれど、僕にはどうすることもできないので、女性スタッフに処理を頼んだ。

 

ゴキブリでさえ無理という女性は多いが、爬虫類が好きという女性もいる。

 

助かった。

 

 

 

 

ネズミさんは、大食なのだそうだ。

 

ほんの数日ひもじいだけで餓死してしまうんだそうだ。

 

ジェリーは、キッチンへの経路を断たれ、ひもじくてひもじくて、今まで見向きもしなかった毒エサに、つい手を出してしまったんじゃないだろうか。

 

 

 

 

ジェリーはどうも、子ネズミのようだった。

 

ならば、親ネズミや親戚ネズミがいるかもしれない。

 

彼らの繁殖力はすごいらしいから。

 

それでも、ジェリーの死以来、ネズミの気配を感じることはない。

 

もし、ジェリー君が単独行動だったというなら、これから僕らがすべきことは、夜はしっかりキッチンの扉を閉めておくことと、キッチン以外には食べ物を置かないことだ。

 

そうすれば、新たなネズミさんたちがまめ家を格好の餌場として発見することもなかろう。

 

とりあえず僕は、ネズミ退治プロジェクトは、終了したということにしようと思う。

 

なんてったって、10万円の出費は、まめ家にとって大きすぎるから。

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シゲさんを夕方自宅に送り、(息子の)お嫁さんが出迎えてくれる時、僕はいつも一つエピソードを話すことにしている。


 


今日も、シゲさんが車を降りて、ゆーっくりとした歩を玄関に向かって進めている時、お嫁さんが玄関を開けて出迎えてくれた。


 


「寒いですねー」とありきたりな挨拶をした後、僕はこんな話をした。


 


僕「今日の昼食の後、僕はあるおばあさんに添い寝してたんです。おばあさん、落ち着かなくて、少し寝て欲しくって。


 


しばらくしたら、シゲさんが昼寝を終えて、ベッドから出てきたんですが、その足音に、ビックリしたんです。ドスン・・・・・・ドスンって。


 


和室の畳だったから余計に響いたのかもしれません。


 


その時思ったんです。


 


シゲさんが日頃よく言う、長生きはしんどいです、は、これなんだ、って。


 


今まで気付かなかったんです。そんな足音がするなんて」


 


お嫁さん「そうなんですよ。おじいさんは1階に寝てて、私は2階に寝てるでしょ?


 


すごく聞こえます。それくらいの音です。


 


それで、おじいさんの調子が分かるんです。


 


今日は重いなぁ、とか、むしろ軽い日の方が心配になります。調子悪いのかなぁって」


 


僕「調子が分かる!それはすごい。


 


それで、僕、思ったんです。


 


この一歩一歩は、たやすい一歩一歩じゃないぞ、って。


 


まさに、長生きはしんどい、その一歩一歩だって。


 


シゲさんの歩くのを見てただけじゃわからなかった、実感として。


 


今頃、気づきました」


 


お嫁さん「それでも、年々、重くなってますね。仕方がないですね」


 


数か月前、シゲさんが自宅で夜間、ポータブルトイレで失敗して転倒して入院したことがあった。


 


幸い、骨折を免れて、しばらくして退院することができた。


 


その退院カンファレンスに参加したお嫁さんは、シゲさんの歩行の不安定さを心配した医療者に、


 


「でも、おじいさんが、人の手を借りずに歩きたいって言うのですから、歩かせてあげたいと思っています」


 


と言った。


 


文字通り、亀の歩みほどのスピードで、二本の杖を使って、たどたどしく歩くシゲさんの、それを、そのように言った。


 


立派だった。


 


それはつまり、シゲさんに今度何かあるとしたら、それは高い確率で転倒することであり、それが分かっているけれど、でも、そうさせてあげたい、ということだ。


 


それはつまり、まめ家においても、その通りということだ。


 


それにしても、シゲさんの一歩一歩が、それほどの、一歩一歩だったとは。


 


「今頃気づいてごめんなさいね」


 


玄関に入って靴を脱いでいるシゲさんに声をかけた。


 


耳の遠いシゲさんには聞こえない。


 


かわりにお嫁さんが、「そんなそんな」と笑ってくれた。


 


僕らは、お嫁さんと一緒に、シゲさんのたやすくない一歩一歩を見届けなければならない。


 


それは、シゲさんの一歩一歩に比べれば、たやすいことのように思える。

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「ちょっと出ていないので、マグミット、のんでます」

お嫁さんは、キコさんの手を引っ張って玄関に向かいながら、言った。

「了解です」

出ていないのは、便だ。

出ていないので、便をやわらかくして、排便を促す薬を飲んだ。

ので、まめ家さんでも、様子を見てね、という意味だ。

キコさんは、夜中に排便することが多い。

ひとり離れで夜過ごすキコさんは、うまくポータブルトイレでできたとしても、それを触ってしまう。

なんとか、日中に排便してほしい。

さりげなく事情を伝えてくれたお嫁さんの願いを受け取って、「まめ家で出るといいなぁ」と言葉を返しながら、キコさんを玄関先で迎えた。

玄関の段の上に、デイのためのバッグと一緒に、新聞紙で包まれたラグビーボールくらいのものがある。

玄関下に、いくつかの白菜が置いてあったので、新聞紙の中身がわかる。

「貰い物なんです。まめ家でも貰ってください」

「いつもありがとうございます。遠慮なくいただきます」

玄関から、車庫に停めてあるまめ家の送迎車に向かって歩き始めたキコさんにそれを見せて、「また貰っちゃった。いつもありがとうねぇ」と声をかける。

キコさんは、ウフフと笑った。

キコさんは、ことの事情を理解していないだろうが、立ち上がりにくいところをグイッと引っ張られ立ち上がらされて、連れてこられた不機嫌さが、消えていた。

「江南のおばさんに貰ったんです。おばあさん(キコさん)の義理の妹さんですが、妹さんもおじいさんおばあさんを見送った経験があるから、(介護)大変でしょ?わかるわぁって言ってくれて」

江南とは、愛知県の北西部にある市だ。

ここから、そう遠くない。

そんな、キコさんの義理の妹さんから届いた白菜を、まめ家はおすそ分けして貰ったのだ。

スーパーで売っている、名前も想いも引き剥がされて、代わりに値札をつけられた白菜とは、わけが違う。

キコさんを想う妹さんの人柄が張り付き、それに慰めされて、もうちょっと頑張ってみようと心が落ち着いたお嫁さんの気持ちが張り付いた白菜だ。

「ただの白菜じゃない。物語のある白菜ですね。心していただきます」

僕がそう声をかけると、「おばあさん(キコさん)は、妹さんの顔見ても分からなくて、申し訳ないんだけど」と言って、微笑んだ。

いつもよりスムーズに車に乗り込んだキコさんと共に、まめ家に向かって走り出した。
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よっちゃんも、まめ家では古株になった。

 

もう六年半も通ってくれている。

 

利用が始まった頃は、70歳代半ばで、利用者のなかでは若い方だった。

 

精神的な弱さで混乱が極まって、まめ家の利用が始まり、すぐに普通のおばさんに戻ったので、身のこなしも、身ぎれいさも、彼女がいわゆる要介護者に見えない理由だった。

 

それでも、要介護1を認定調査のたびに維持できているのは、精神的な混乱を間近で見た家族やケアマネさんの、頑張りだろう。

 

***

 

ある朝、よっちゃんを自宅に迎えに行く。

 

玄関を出て、よっちゃんは扉の錠をかける。

 

そのカギが、カギ穴にうまく差し込めない。

 

よっちゃんのすぐ後ろでその姿を見ていた僕には、カギがまっすぐにカギ穴に差し込まれていないことが、わかる。

 

何度もカギ穴の周りでカギを滑らせては、差し込めない様子を見ながら、僕は黙って見ている。

 

見ていないふりをして、見ている。

 

そして、苛立っている自分に気がつく。

 

別に、次のお迎えの時間に遅れるという事情があるわけではない。

 

もう、カギはカギ穴に入りそうなのだから、焦る必要はない。

 

そのうち入るだろうし、入らなければ、僕が入れればいい。

 

時間なんてかかるわけがない。

 

それでも、僕は苛立っている自分に、気がついた。

 

***

 

すぐによっちゃんは、カギを差し込むことを諦め、カギ自体が間違っているのだろうかと、束になっているカギから別の物を選び、でも、いや、これは違う、とやっぱり元のカギを握り直す。

 

すぐに諦めるところが、よっちゃんの悪いところなのだ。

 

よっちゃんは、ものをなくす名人なのだが、バッグをちゃんと探せばすぐそこにあるものを、焦ってしまって、もうバッグにはそれがないという結論になってしまう。

 

探す範囲だけがやたらと広がって、いつまでたっても見つからない。

 

いやいや、ちゃんとバッグを見てみた?ほら、バッグの底にあるじゃない。

 

そんなことが、よくある。

 

カギだって、それが正しいカギかどうかを疑う前に、しっかり真っすぐ入れ直す確認をしてみたらいい。

 

それで入らないなら、カギ自体が違うということになる。

 

そもそも、いつも使っているカギなのだ。よっちゃんだって、見たら分かるのだ。

 

そういう混乱の仕方がよくある。

 

***

 

何故、カギ穴にカギが入らないのか。

 

目も悪くなったし、指先の感覚も鈍くなった。

 

姿勢が悪くなって、差し込むカギの角度が斜めになるようになった。

 

そういうことだ。

 

老化で、カギを閉める技術が落ちたのだ。

 

それに比べれば、差し込むべきカギ自体を間違うなどという段階は、もっとずっと後なのだ。

 

そんなミスを、今のよっちゃんがそうそうするわけがない。

 

そんなことは、はっきりわかっている。

 

そんな僕には、カギの角度が唯一の問題であることは、明白だ。

 

***

 

なんとか玄関の扉のカギを閉めて、「年は取りたくないわな!」と笑って誤魔化しながら、よっちゃんは、車に乗り込んだ。

 

カギが閉めにくくなるということは、よくあることだ。

 

よっちゃんも今や80歳を超えて、立派な高齢者なのだ。

 

そんなことは、特別なことではない。

 

不思議なのは、その当たり前のことに、僕が苛立っていたことだ。

 

その時思い立ったのは、「家族だったら、これは苛立つだろうな」ということだった。

 

「よっちゃん、しっかりしなよ。カギが斜めになってるじゃん。

そんなことも分からないよっちゃんじゃないでしょ。

何で気がつかないの」

 

僕は家族のような気分で、カギをかけられないよっちゃんを見ていたんだな。

 

そうだよ、よっちゃんもいい年なんだ。

 

要介護1なんだ。

 

それは、苛立つことじゃないだろう。

 

他の利用者がそうしたって、苛立つことなんかないじゃないか。

 

そう思って反省しながら、でもやっぱり釈然としない。

 

じゃあ、なんで俺は苛立ったんだろう?

 

***

 

その時、僕が発見したのは、「要介護高齢者だから仕方がない」という目でよっちゃんを見たくない自分だった。

 

そうやって割り切れば、苛立つ理由はない。

 

けれど、それは、支援する対象として、よっちゃんをみるということだ。

 

そして、そうはしたくない自分が強くいた、ということだ。

 

***

 

最近、まめ家のミーティングで、僕らは何をするためにまめ家にいるのか、というようなことを話し合った。

 

それは、僕の中では、はっきりしていた。

 

そのはっきりしていたことを、はっきりした言葉で、みんなに伝えてみた。

 

「自然に、気持ちよく、自分の力を発揮できるように、支援する」

 

ただこれだけのことをやるために、僕らはいる。

 

トイレ介助やお風呂介助などは、その手段に過ぎない。

 

目的ではない。

 

そのいかなる場面においても、「自然に、気持ちよく、自分の力を発揮できるように、支援する」

 

そのためには、誰かに差し出したその介助の手の平は、どのくらいの高さで、どのくらいに握り方で、どのくらいの引っ張り方なのか。

 

そういうことを、丁寧に考え、やっていこう。

 

***

 

ところで。

 

では、誰に「自然に、気持ちよく、自分の力を発揮できるように、支援する」のか。

 

利用者さん。

 

そりゃそうだよね。

 

でも、お年寄りにそれをするには、僕らはお年寄りに自由を保障しなければいけない。

 

でも、お年寄りにそんな支援をするなら、僕らも自由でなければいけない。

 

お年寄りだけが自由で、他の人たちが自由でない、なんてことが、あり得るわけがない。

 

僕らだけが自由で、他の人たちが自由でない、なんてことでは、僕らは自由になれるわけがない。

 

では、誰に、「自然に、気持ちよく、自分の力を発揮できるように、支援する」のか。

 

うーーーん、みんな?全人類?

 

そうだろうなぁ。いってみれば、全人類と言うしかないんじゃないかな。

 

スタッフ同士だって、同じなんだろう。

 

僕らは、お年寄りにも、僕ら自身にも、言ってみれば全人類にも、そうするしかないんじゃないかな。

 

そうしなければ、利用者に、それをすることは出来ない。

 

それは、支援する人と支援される人の境目はいつも曖昧だということじゃないだろうか。

 

自由な場において、支援だけをされている人がいるわけがない。

 

支援だけをされている人がいて、支援だけをしている人がいたとしても、されているだけに見える人は、したい人のそれを受け入れてあげることで、したい人を支援していることになっている。

 

事実、まめ家ではなっている。そんなことは、いつもかも起こっている。

 

そういう、分かり切ったことを、誤魔化さない。

 

境目の曖昧さを誤魔化さない。

 

そう言うしかないんじゃないか。

 

***

 

よっちゃんは、僕にとって一方的に支援する存在じゃない。

 

そういう存在に押し込めることは出来るだろう。

 

でもそれをしたら、自由でなくなるのは、僕自身なんだ。

 

僕が自由でいたいなら、人の自由も保証するしかない。

 

介護って、人を助けるためにやるなんて偽善じゃない。

 

自分が自由になるためにするものだ。

 

僕がよっちゃんに苛立ったその感覚は、介護職として不適切かもしれないが、人間としては、持っておいた方がいい感覚じゃないかと思うんだけど、どうだろうか。

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「春樹ゃんぷ」とは、なんぞや?

 

それは今のところ、誰にも分かっていないのかもしれない。

 

今から作っていくのかもしれない。

 

今から、関わってくれる人たちと出会って、一緒に作っていくのかもしれない。

 

とりあえず決まっていることは、来年2018年9月1日~2日に行われること。

 

場所は、茨城県のキャンプ場と、社会福祉法人紬会さんの全面的なご協力を得て特別養護老人ホーム玉樹で行われること。

 

実行委員長が、こてっちゃんこと、高橋知宏さんであること。

 

イベントに出演する人も発表にはなっているけれど、その人たちは、講演者というよりも、まず第一に「春樹ゃんぷ」の賛同者であり、イベントの詳細は、決まっていないといっていい。

 

決まっていないのではなくて、これから、賛同者を増やしながら、いろんなことをみんなで決めていくのだ。

 

僕は、実行副委員長の役を任命された。

 

***

 

僕にとって、「こてっちゃん」は大きな存在だ。

 

それは、僕がまめ家を立ち上げる時に、その道を開いてくれた先輩であるというだけではない。

 

僕がまめ家の開所準備をしていた頃、初めて参加したオムツ外し学会で、壇上に上がったこてっちゃんの話は、僕に新しい介護のヒントを授けてくれた。

 

まめ家一周年セミナーの講師を務めてくれたことが、僕がその後、多くの人と会うことができるきっかけになった。

 

そして、こてっちゃん家の活動を停止しなければならなくなった苦難を乗り越え、新しいこてっちゃんとして介護の世界にカムバックした、その姿は、やはりかつて僕に特別な刺激を与えてくれたこてっちゃんそのままだった。

 

僕は、闇雲に彼を持ち上げたいわけではない。

 

彼を「よくできたいい人」だと言いたいわけではない。

 

むしろ、人間臭い、アクの強さを持った人なのだ。

 

とっつきにくいところを持ち合わせた人なのだ。

 

そういう彼だからこそ、僕は今回、実行副委員長の役を有難くお受けすることにした。

 

***

 

こてっちゃんという人は、徒党を組めない人だ。

 

僕はそこもとても好きなところだ。

 

どこかの訳知り顔の人が、「春樹ゃんぷ」に関わる僕らを、「こてっちゃん派」などと言うとしたら、僕としては、言ってもらって構わない。

 

それは、僕が、「徒党の組めないこてっちゃんに派閥など組めるはずがない」ということがよくわかっているからだ。

 

そして、僕こそ、徒党を組めない天邪鬼なのだから。

 

そういう意味で、こてっちゃんという存在は、変なしがらみを越えて、人を結びつけることができる可能性を秘めていると思っている。

 

今のところ、実行委員会の僕らが、自分のやりたい遊びを始めたところだ。

 

だが、「春樹ゃんぷ」の方向性は、参加者を僕らの遊びに利用することではない。

 

賛同者は、「春樹ゃんぷ」で一緒に遊んでくれる仲間であり、一緒に「春樹ゃんぷ」を作っていってくれる仲間だ。

 

キイワードは、自主性、自発性。

 

誰にも頼まれていないことを、楽しいからやりたい。目いっぱい楽しみたい。

 

ただそれだけ。

 

お金がないから、グッズを薄利で売りながら、バーベキューで豚の丸焼きの費用を捻出しよう、そんなささやかな祭りをやろうじゃないか。

 

日々、こてっちゃんとの雑談から、おもろいアイデアが、次から次へと出てくる。

 

そんな遊びに、ちょっと興味を持ってください。

 

すでにFBでは、日々いろんな発信を始めています。

 

よかったら、のぞいてみてください。

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自分で考えて、だとか、思うようにやって、だとか、勝手なことを言う僕らは。

 

よくよく考えて見ると、スタッフとして新しくまめ家の入った人達がまず、やりたいことをやって、と言われて、戸惑うんじゃないか。

 

それを、同じようにお年寄りに求めたって、さ。

 

例えば、ノリさんに、料理を手伝ってもらう。

 

僕「肉じゃがを作りたいんだけど」

 

ノリさん「なら、どんな風にジャガイモを切ったらいい?」

 

僕「逆に、どうやって切るものなの?」

 

ノリさん「お年寄り向けだからってあんまり小さくても、ね」

 

僕「じゃ、ちょっと大きめ?」

 

ノリさん「これくらいがいいんじゃない?」

 

僕「うん。お願いします」

 

トントントン。

 

ノリさんが決めた。

 

僕も決めた。

 

二人で決めたなら、そう間違いはないだろう。

 

自分の食事じゃない。

 

自分のキッチンじゃない。

 

多くの人がいただくものだから、自分の感覚でやっていいものじゃない。

 

責任はそこまで負えない。

 

それが、お年寄りの普通の感覚だろう。

 

食材をむいたり切ったりは、できる。

 

けれど、それをやっていいかどうかは、また、別問題。

 

誰がやってもいいことなら、やれる。

 

誰がやっても同じ事なら、やれる。

 

私だけの特別なやり方は…責任が負えない。

 

 

 

 

ヨッちゃんは、そういう感覚、ノリさんよりずっと強い。

 

ひとり暮らしで、自分で食事を作ることは出来る。

 

けれど、まめ家で食事作りに関わるのは、荷が重い。

 

責任を感じることが、とても苦痛。

 

洗い物ならするよ。

 

洗濯物ならたたむよ。

 

庭の水やりならするよ。

 

そんなことは、誰がやっても同じことだから、私がやることにストレスがない。

 

誰でもできることならやるよ。

 

そして、それらを自主的にやっている。

 

 

 

そのヨッちゃんが、今朝、僕に言った。

 

ヨッちゃん「ちょっとそこの、赤いの、取ってんか」

 

僕「赤いの?ああ、この枕カバー」

 

ヨッちゃん「高くて手が届かんの」

 

僕「ああ、はいはい、これ」

 

ヨッちゃんは、僕の顔を見て、僕が「何に使うの?」という表情をしていることを見て取る。

 

ヨッちゃん「今日、○○さんが来るだろう?ソファーの枕、要るだろう?」

 

つまりこういうことだ。

 

○○さんは、縁側のソファーを定位置にしていて、心臓が度々しんどくなるので、その度に、横になる。

 

その時に使う枕に、カバーを付けておく必要があるでしょ?

 

もうすぐ、○○さんがまめ家に到着する時間だから。

 

 

 

枕にカバーを付けるのは、誰がやっても同じ。

 

別に難しいことじゃない。

 

ヨッちゃんにとって、ストレスのない役目だ。

 

けれど、これって、誰にでもできることなのか?

 

①○○さん用の枕が用意されていないとスタッフに教える

→誰がやっても同じ結果の仕事

 

②枕カバーを付ける

→誰がやっても同じ結果の仕事

 

③○○さんのために、ソファーの場所を開けておく

→誰がやっても同じ結果の仕事

 

どれも、誰がやってもいい仕事であり、ヨッちゃんにとって、やりやすい仕事だ。

 

だからと言って、誰にでもできる仕事とは言えない。

 

この一連の仕事を、完結するのは、結構すごいことだ。

 

ヨッちゃんは、なにも自分で決めてないかもしれない。

 

あらかじめ決まっていることに、助け舟を出したに過ぎない。

 

でも、それらを組み合わせた一連の流れは、自主的な意思に沿ったものだ。

 

これ、結構すごいことなんじゃないかって思う。

 

 

 

 

 

僕は今、セッティングということをよく考える。

 

誰かに直接何かをするのではなく、その誰かが思わず自分で何かをやってしまうような状況を、整えること。

 

ちょっとした僕の動きに、何気なく反応して、動き出す。

 

誰かの靴を揃えているところをその人に見てもらうだけで、靴を履いてさあ、ってことになる。身体が勝手に動き出す。

 

 

 

そういう目に見えるセッティングもある。

 

けれど、一番大切だと思うのは、目に見えないセッティングだ。

 

ヨッちゃんが、○○さんのことを思ってやったことは、それをやれる環境がなければできない。

 

パッと思いつくこと。

 

パッと動き出すこと。

 

思いついたことを、パッと言えること。

 

それを阻害する要因が少しでもあったら、ヨッちゃんは、そういうことを思いつくこともないかもしれない。

 

自主性とは、それが許されて当然というセッティングがあって、発揮できる。

 

それはお年寄りだけじゃない。

 

スタッフだって同じ。

 

誰だって同じ。

 

僕の仕事はますます、目に見えないものになっていると思う今日この頃。

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今夜は何故か、マイルス・デイヴィスが聴きたい。


ポップな、ラウンド・アバウト・ミッドナイトか。違う。


バグズ・グルーヴでもないし、クッキンでもない。


ビッチズ・ブリュウでもアガルタ/パンゲアでも全然ない。


わかってる、照れるな俺、あのモダンジャズ随一の大名盤、カインド・オブ・ブルーに違いないのさ。


照れちゃダメさ。


たったひとりのおばあさまもベッドに横になった。


夜勤中の事務所で、あのベースラインが滑り出す。


先週までは、おばあさん、訳のわからない打ち込み音を繰り返し繰り返し聞かされてた。


あれはね、無事、関東の北のハズレで、ちゃんと鳴ったのさ。


漏れ聞こえるオシャレなジャスで、今夜はゆっくり眠ってくれ。


いや、ジョン・コルトレーンのソロは、やっぱ暑苦しい。


まあ、いいじゃないか。


でも、何故に今夜、マイルス・デイヴィスなんだろ?不思議。

 

 

 

 

新生蜃気楼には、ユニゾンの合唱が必要だった。


サビは必ず合唱。


これは、新生蜃気楼には重要なことだった。


イメージは、「イフ・ザ・キッズ・アー・ユナイテッド」パンクの大名曲だ。


そうだ、新生蜃気楼は、パンクでなければならない。

 

数週間前に、東京での紙芝居大会で会った、はいこんちょ小林氏に、合唱隊への参加を依頼した。


快諾してくれたが、なにせセミナーの主催者だ、当日そんなことして遊んでる暇はなかろう。


この一月に、蜃気楼を長野に呼んでくださった、そり芽安藤さんと、小林氏推薦の神戸の北野さんに、合唱隊蜃気楼ギャングへの参加を依頼したのは、セミナーの数日前だった。


彼らが曲の概要を知る術は、たった一度のタツマロとコレナガのワチャワチャしたリハ音源だけ。


タツマロもまだ、曲がわかってない代物なので、ギャングの面々は、大変厄介な依頼を受けることになった。


しかも、北野さんには、タツマロもコレナガも、会ったことがない。


大変無礼な依頼を快諾してくださったアンドウ蜃気楼とキタノ蜃気楼には、とてもとても感謝する。


しかもしかも、本番当日お二人は、タツマロより曲をちゃんと覚えてきてくれたのだった。


そして、鹿沼までの道中を共にした、岐阜県のデイサービス空(くう)の伊藤君も急遽ギャング入りして、布陣は整った。

 

おかげで、蜃気楼は、SHAM69ばりの、合唱ロックになった。はず。

画像に含まれている可能性があるもの:3人、立ってる(複数の人)

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2016年5月20日夕刻。


なんとか蜃気楼は、栃木県鹿沼市の(はいこんちょ)にたどり着いた!


いやいや、蜃気楼のメンバーであるたつまろの大阪やコレナガの岐阜から物理的に遠い!という話じゃないぜ。


物理的な距離は、なにはともあれ蜃気楼を車につめこんでしまえばなんとかなる。


問題は、その蜃気楼が、形になっていなかったことだ。


でもまぁ、ギリギリ間に合った。


間に合ってなかったが、たどり着いた。

 

最後に出来上がった(呪われ島)のメロディーを、蜃気楼の歌手であるたつまろに伝えたのは、ほんの十日前。


一週間前に、たった一度、音合わせをしただけ。


頼みのベース&ドラムのカラオケがホントに出来上がったのは、鹿沼に向かう前日だった。


間に合ってない。でも、これが今の精一杯。なら、どうにか滑り込んだことにしよう。

 

この三ヶ月、新しい曲を作り詞をまとめ、アレンジを考えることだけにほぼ、時間の全てを費やして来た。仕事を後回しにして。


新生蜃気楼を形にすべく、だれにも頼まれていない、だれにも期待されていないことに、全ての時間を費やして来た。


年度末の、事務仕事のわんさか忙しいなか、週に三回の夜勤をしながら。


いったい拙者は何をしておるのだ?


そう思わないでもなかったが、いや、これがやっぱり楽しかったんだな。

 

今回、はいこんちょセミナーでは、二回のステージのチャンスを、いただいた。


その、一発目、五月二十日の夕方のはいこんちょでのステージを終えた僕に、セミナーの講師である菅原直樹さんが話しかけてきてくださった。


「ちゃんとした世界観を感じました。
ただ、オリジナル曲を書いた、というだけでなく」


表現者として活動されている菅原さんから、嬉しい言葉。


表現として、作品になっていたよ、と言ってもらえたのかしら。 


社交辞令かしら。


でも、例えたったひとりでも、そうしたことを分かってくださる聞き手がいる。


それは、とても嬉しく、翌日のセミナー会場での演奏に向かうモチベーションはグッと上がったのだった。

画像に含まれている可能性があるもの:4人、オンステージ(複数の人)、演奏(複数の人)

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でも、誕生日のお祝いって、無駄にお祝いしちゃうところ、ない?

 

形骸化しちゃうって言うか、足りないと悪い、みたいな。

 

プレゼントも、ケーキも、お花も、ってなりそうな時、あるじゃん?

 

でも、僕が担当する時は、もう最近は、あまり、何もしない。

 

誕生日の当日に、まめ家にいる人たちみんなとツーショット写真を撮って、それを大きな色紙に貼る。

 

今年の誕生日のドキュメントみたいな仕上がりになるよね。

 

それを、一日かけて、皆でつくる、みたいな。

 

 

 

 

ありきたりっちゃあ、ありきたりかもしれない。

 

でもさ、最近、誕生日ってものの、見方が変わったんだよね。

 

つまりさ、これまで、誕生日って、迎えた人をみんなでお祝いして、その人が一日主役になる日だと思っていたんだ。

 

普通、そう考えるよね?

 

でも、最近思うの。

 

お年寄りを見てて、思うの。

 

誕生日って、迎えた人が、皆にお礼を言う日だって。

 

そう気づいたんだよね。

 

皆にお礼を言って回る日なんだよ。

 

お祝いしてくれるから?

 

うーーん、そうかもしれないけど、お祝いしてもらう以前に、お礼を言う日なんだと思う。

 

何にお礼を?

 

言ってしまえば、生きているってことじゃね?

 

お互い様で、ありがとう、じゃね?

 

だから、出来たら、誕生日を迎えた人が、皆のところをまわって、写真を撮るのがいいよね。

 

ずーーっと誕生日の話ばっかになる。

 

それがいいよね。

 

それが、主役、ってことだよね。

 

「今日、私は88歳になりました。

 

今年一年もよろしくお願いします」

 

これが、誕生日じゃないかって。

 

あんまり、接待しない方がいいような気がしてきたよね。

 

誕生日だからって、どこか行くとか、なくてよくない?

 

むしろ、そういうことは、誕生日以外でやるべきで、誕生日はひたすら、お礼を言って回る。

 

皆と一緒にいる。

 

そんな気がするこの頃なんです。

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