カフカの遺言を守らなかったブロートは裏切り者なのか? | 「絶望名人カフカ」頭木ブログ

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『絶望名人カフカの人生論』『絶望読書』『絶望図書館』、NHK『絶望名言』などの頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)です。
文学紹介者です(文学を論じるのではなく、ただご紹介していきたいと思っています)。
本、映画、音楽、落語、昔話などについて書いていきます。

前回ご紹介した、
「カフカの遺稿 イスラエルの国立図書館に!」
というニュースで、

裁判所は、
遺稿の持ち主であったブロートが、
「ヘブライ大学かテルアビブ市立図書館、
 あるいはイスラエル国内外の公共機関」
に譲渡するよう指示していたと認定しました。

つまり、裁判所は、
ブロートの遺志を尊重したわけです。

「それだったら、
 そもそもカフカはブロートに、
 遺稿を焼却するように遺言したのだから、
 それを尊重すべきでは?」
というような意見が、
Twitter上でもたくさんありましたし、
このブログでも、
「ブロートによって無視されたカフカの遺言について、
 私は少し疑問を持っています」
というご質問をいただきました。

カフカが遺稿の焼却を遺言していたというのは有名で、
それを聞いてカフカを好きになったという人も少なくありません。
でも、実際はどうだったのでしょうか?

今回はこのことについて、
少し書いてみたいと思います。

まず、最初に事実関係を整理しておきますが、
ブロートというのは、
大学生の頃からの
カフカのいちばんの親友です。
カフカは自分の作品をブロートに読ませたり朗読したりしていました。
日記まで読ませています。

カフカはしばしば書かなくなるのですが、
ブロートがそれを励まして、
新聞に記事を書かせたり、
旅行記を書かせたり、
日記を書くようにすすめたり、
いろいろ手を尽くしています。
ブロートがいなければ、
そもそもカフカの作品が生まれていなかった、
あるいはずっと少なかった可能性があります。

ブロートは当時の人気作家でした。
一方、カフカはサラリーマンで、
作家としてはほとんど無名でした。

しかし、ブロートはカフカを尊敬し、
その作品を高く評価して、
なんとかカフカが世に認められるように努力しました。

作家の仲間に、
カフカの作品を読ませたり、
ブロートが朗読して聞かせたりして、
「どう、すごいでしょ!」とすすめていますが、
ほとんどの反応は冷ややかなものでした。

『回想のなかのカフカ』という、
いろんな人がカフカについての思い出を語っている本を読むと、
ブロートがたくさんの作家に、カフカを紹介したり、
その作品をすすめていることがわかります。
そして、相手が価値を認めないと怒っています。

カフカの作品が初めて雑誌に載ったのも、
ブロートの尽力によるものですし、
カフカは生前に7冊の本を出していますが、
これもブロートの尽力によるものです。

新しく出版社を作ったばかりのクルト・ヴォルフという人が、
カフカの本を出しました。
新しい出版社なので、有名な人の本をすぐに出すのは難しく、
新人を見つける必要がありました。
そこに、人気作家であるブロートが、カフカを推薦したわけです。
クルト・ヴォルフという人は、
文学青年で、お金持ちのおぼっちゃんでした。
新しいものを世に出したいと思っていました。
こういう人がいてこそ、
売れない素晴らしい文学が世に出るわけですが、
やっぱりその後、クルト・ヴォルフ社は消滅してしまいます……。

カフカはクルト・ヴォルフについて、
「神はこの青年に、
 美しい妻と、
 数百万マルクの遺産と、
 大きな事業欲と、
 ほんのわずかな経営的才覚を与えた」
と言っています。
自分の本を出すなんて、
経営的な才覚がないと、カフカも思ったようです。

実際、当時、カフカの本は売れませんでした。
800部刷って、3年後にも500部以上残っていたりしたようです。

カフカは自分の本を出すことについて、
どう思っていたのでしょうか?

ブロートはこう書いています。
「フランツはこの懇願(カフカの原稿を本にしたいというブロートの懇願)に対して、
 じつに分裂した態度を示した。
 彼は望んだ──そしてまた望まなかった」

カフカは、
自分がこれまでに書いたものは全部ダメで、
それを本にしてしまうと、
もっといい作品を生み出す妨げになる、
と言っていたようです。

しかし、ブロートに説得されて、
けっきょく本を出すことに同意します。
クルト・ヴォルフに対して、
「出版してくださるよりも
 原稿を送り返してくださるほうが、
 あなたにずっと感謝することになります」
と言ったりはしていますが。

出すとなると、
造本にはとてもこだわりました。
表紙はどうするかとか、
活字の大きさまで指定しています。
(このカフカの造本へのこだわりは、
 作品の本質にもかかわる、
 とても重要なことなので、
 また別の機会に書いてみたいと思います)

最初の本である『観察』が出たときには、
「11冊、アンドレ書店で売れました。
 10冊はぼくが自分で買いました。
 11冊目を買ったのが誰なのか知りたいものです」
と言って微笑んでいたそうです。

そして、父親に1冊、自分で手渡そうとしています。
(父親は「ナイトテーブルの上に置いておいてくれ」とそっけない返事をしました。
 このため、カフカと父親の関係はさらにこじれました)

当時、心から愛していた恋人のフェリーツェにも送っています。
(しかし、フェリーツェの反応も、かんばしいものではなく、
 フェリーツェとの出会いで、名作をどんどん書いていたカフカは、
 このときから、書けなくなってしまいます)

こうした様子からして、
カフカは自分の本が出たことを、
やはり嬉しくも感じていたようです。

また、朗読は好んでいました。
妹たちに自作をよく朗読していましたし、
ブロートなどの友達にも朗読していますし、
朗読会にも出ています。

遺稿の焼却を遺言したことによって、
「作品をまったく発表する気がなかった」
と思っている人もいますが、
それはちょっとちがうのです。

遺言もじつは2つあって、
内容が少しちがっています。

(簡単に書くつもりが、
 つい長くなってしまったので、
 続きはまた書きます)