最近、いわゆる「デカップリング論」が成り立たないと主張するエコノミストが増えているが、その多くは「デカップリング論」の本来の意味を取り違えた議論になっている。

本来、デカップリングは過去と比べて新興国経済と米国経済の連動性が弱まっているという意味であるのに、デカップリングを否定するエコノミストは、なぜか、現在の時点で米国との経済関係があるから、新興国も米国経済減速の影響を免れないと主張しているのだ。あらゆる国は、多かれ少なかれ米国との経済的なつがなりをもっているのだから、そんなことはあえて声を大にして主張するようなことではなく、誰でも分かる当たり前の話である。

そうではなくて、デカップリング論は、新興国が(貿易関係の多極化などによって)過去に比べて米国経済との連動性を弱めているので、米国経済減速の影響は過去に比べて軽微だといっているのである。

たとえば、貿易関係ひとつをとってみても、新興国の米国向け輸出依存度が過去に比べて低下しているのだから、デカップリングは既成の事実として明らかに成立している。だから、米国経済の減速の程度が過去と比べて同じであれば、そこから新興国が受ける影響は過去に比べて軽微になる。

米国経済の減速あるいはリセッションの程度が大きくなれば、それはリセッションの程度と、新興国の米国離れの程度の比較ということになり、前者が後者を上回れば、新興国経済も過去に比べて減速の程度が大きくなる。しかし、それはデカップリングが成立しているかどうかという話ではなく、デカップリングは成立していても、米国のリセッションが過去に比べて深刻であるために、その影響が強く現れるということだ。

デカップリングを主張する人が「動態的」な話をしているのに対して(もちろん動態的な話が正しい意味でのデカップリングである)、デカップリングを否定する人は「静態的」な話をしているので、両者の話はまったくといっていいほどにかみ合っていない。


某週刊誌のタイトルに「デカップリング論のまやかし」とか「デカップリング論のウソ」とか出ているが、私から言わせてもらえば、静態的な話に終始する「カップリング論」こそ、まやかしである。

「デカップリング論」の是非については、上記の話も含めて、私の著作のなかで詳しく触れるつもりだ。