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◆朝日新聞の詐術批判:「落ちこぼれゼロ法」の不評から橋下流教育政策の批判は演繹できない
本日、2012年3月4日、朝日新聞は全8段の半分をさいて「橋下流教育政策に先行-学校に競争 米改革不評」「学習内容に偏り 教師は疲弊」という記事を掲載していました。要は、子供達の自主性よりも子供達の基礎学力の充実を目指した、ブッシュ政権の所謂「落ちこぼれゼロ法:No Child Left Behind Act」(2002-2003)がアメリカでは評判が良くないというもの。蓋し、噴き飯ものの記事だと思います。

なぜならば、(ⅰ)同法はその立法趣旨に書かれている如く、「今後12年間ですべての生徒が100%読み書きできるようにすること」を目標としていることに明らかなように、(実質的に、英語の母語話者ではないヒスパニック系の子供達のみならず)多くの子供達が読み書き算盤ができないアメリカ社会で、将来の「人材=労働力」のボトムアップを狙ったものであること。

加之、(ⅱ)アメリカでは、合衆国連邦憲法上、連邦政府にそもそもコースト・ツー・コーストの教育内容を定めその教育内容を具現するための人事・予算を采配する権限は与えられておらず、よって、同法のスキームは、(ⅱa)各州に「あらゆるグループの生徒が当該の州の学習標準に順当に毎年前進していることを示すよう義務ずけること」、そのために、(ⅱb)各州が「2005年秋までにすべての教室に良質な教師を配備すること」、(ⅱc)これらの目標を達成するべく学校には補助金(Title I)を配布し、2年連続して目標を達成できなかった学校は補助金の対象から外す。かつ、(ⅱd)この謂わば「落第した学校」の近傍の地域の子供達には他の学校に通う交通費等を支給し、更には、3年~5年連続で「落第した学校」は州政府の管轄下に移し、チャータースクール化、若しくは、バウチャー制度での代替を含め抜本的な改善ステージに移行させる、というもの。

而して、(ⅲ)現下のアメリカでの「落ちこぼれゼロ法:No Child Left Behind Act」の核心は、(ⅲa)税金の無駄遣いではないか(教育とは、自己責任の原則の下、各家庭がその自己負担で行うべきものではないか)ということであり、毫も、(ⅲb)「落ちこぼれゼロ法:No Child Left Behind Act」施行以前の「子供達の自主性」と「現場教師の自由裁量」に回帰すべきだというものなどでは断じてないからです。

寧ろ、(ⅳ)アメリカでは、この「落ちこぼれゼロ法:No Child Left Behind Act」の施行によって(就中、(ⅱa)の学力調査とその結果の公表の制度化によって、我が国では石原都知事が教育改革に踏み出す前の、例えば、葛西南高校の如き都立の問題高校の生徒達もかくばかりの)アメリカの子供達の凄まじい学力のあり様が白日の下に曝されることになり、「教育水準の低い家庭のそんな子供達の面倒まで税金で見るのは勘弁」という認識が確定したこと。

よって、(ⅴ)我が子の教育を重視する家庭の多くは(それは「the 99%」とは言わないけれど、「落ちこぼれゼロ法:No Child Left Behind Act」の廃棄と代替案の論議をフォローする限り、間違いなくアメリカの有権者国民の過半を超える家庭でしょう!)、「ゆとり教育」的なものではなく、要は、すべての子供を平等にではなく、その家庭に教育力のある、かつ、意欲と資質のある子供達にきちんとした基礎学力を身につけさせる教育制度を、すなわち、「橋下流教育政策」的な教育を希求しているとさえ言えるのですから。


海馬之玄関amebaブログ いずれにせよ、多くの子供達が、文字通り、「読み書き算盤」ができないアメリカの事例を橋下氏が論じている教育改革と同一に論じるのは、故意とすれば詐欺であり、過失とすれば、日米の比較教育論のイロハの知識さえ欠いた杜撰な主張である。そう言う他はない。と、そう私は考えます。


換言すれば、朝日新聞のこの記事は、それが「ゆとり教育」的ものからの脱却を目指した「落ちこぼれゼロ法:No Child Left Behind Act」が現下のアメリカの社会で厳しく批判されていることを正しく報じているものの、その批判の核心が実際には「ゆとり教育」的ものや「国家が子供達の学力に責任を持つという社会主義的な立法目的」に対する、自己責任の原則を奉じる保守主義からの批判である点を故意か過失か看過していること。







加之、(そのアメリカ社会ではほとんど全く影響力のない、「子供達の自主性」と「教員の自由裁量」を金科玉条といまだに考えるリベラル左派のコメントを紹介して)、あたかも、「落ちこぼれゼロ法:No Child Left Behind Act」への批判が「ゆとり教育」的ものへの回帰の萌芽でもあるかのように報じている点で噴き飯ものの記事にすぎない。

と、そう私は考えます。畢竟、この朝日新聞の杜撰な記事の如く、左翼・リベラル派からの橋下流教育政策への批判は今後も繰り返されることでしょう。他方、民主党政権による教育破壊政策は現在進行形の事態でもある。而して、おそらく、(国民から評判の悪い「ゆとり教育」という名称は流石に用いないでしょうが、基本的には、そう、「饅頭のあんこ」の部分としては)彼等、左翼・リベラル派がその政策の復活を狙っているであろうあの「ゆとり教育」を今反芻しておくことは満更意味がないことではないの、鴨。以下はその反芻の嚆矢です。


本稿の結論を先に述べておけば、蓋し、ゆとり教育路線の前提には3個の誤算があった。これらの誤算ゆえにゆとり教育は、実は、一部保守改革派も支持する雄大な構想を持ちながらも「砂上の楼閣」に終ったとそう私は考えています。



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◆子供達の学業負荷の誤認
ゆとり教育路線の誤算の一つは子供達の学業負担の認識です。中教審第1次答申『21世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第1次答申)』(1996年7月)はこう述べています。


現在の子供たちは、(中略)学校での生活、塾や自宅での勉強にかなりの時間をとられ、睡眠時間が必ずしも十分でないなど、[ゆとり]のない忙しい生活を送っている」、と。所謂<荒れる学校>の時代に作成された臨教審答申から10年を経て作成されたというのに、「受験のために子供達は余裕のない生活を送っている、と。


正に、ステレオタイプ。このような都市伝説ばりのイメージでしか子供達を認識できていない答申作成者の知的感受性の貧しさに民間の教育部門で世過ぎ身過ぎしてきた私は唖然とするしかありません。


ゆとり教育路線を完結させた2002年学習指導要領の導入実施直前に公表された、2001年12月のOECDの調査結果を持つまでもなく、東京大学や京都大学の研究グループの手になる中高生の学校外での勉強時間調査や受験/浪人生活に対する意識調査は2002年以前にも少なからず発表されていました。要は、文部省(現文部科学省)が言うほど、まして、日教組や進歩的教育評論家達が宣伝するほど今の子供達は(実は、昔の子供達も)学業や受験のためにゆとりのない生活を送っているわけではないし、大多数の子供達は受験自体をポジティブに受け止めているのです。


つまり、ゆとり教育路線は実はそれほど勉強もしていなかった子供達に、わざわざ、「勉強しなくてもいいよ」というメッセージを発信した明後日な政策だったわけです。



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◆トロイの木馬としてのゆとり教育イデオロギー
中教審答申『21世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第2次答申)』(1997年6月)はこう述べています。


子どもたちは、[ゆとり]の中で、学校・家庭・地域社会それぞれの場において、様々な生活体験や自然体験、さらには社会体験やボランティア体験などの豊かな体験を積み重ね、様々な人々と交流していく。そして、子どもたちは、そうした実際の体験や人々との交わりを糧として、試行錯誤を繰り返しながら、個性の萌芽とも言うべき興味・関心を触発され、生活や社会、自然の在り方を学んだり、人間としての在り方や生き方をじっくりと内省する。


こうした過程を経て、子どもたちは、机上で学んだ知識を生きたものとし、自ら学び、自ら考える力などの[生きる力]を身に付け、豊かな個性をはぐくんでいくのである。こうしたことを踏まえ、これからの教育の在り方を考えると、[ゆとり]の中で[生きる力]をはぐくむことを目指し、個性尊重という基本的な考え方に立って、一人一人の能力・適性に応じた教育を展開していくことが必要であると言うことができる、と。


シュタイナー教育論ばりのヒューマンで麗しい言辞が散りばめられた文章ではありますが、私にはここで答申が言いたかったことは次のポントに尽きていると思います。


今までの全員に同じ教育を与えていたやり方は間違いである。勉強ができる子供、好きな子供には今までどおりの(否、今までよりもレヴェルの高い)教育内容を与えればよいし、将来、勉強では勝負しないというタイプの子供達には読み書き算盤という基礎学力を習得させた後は、教科以外の知識と技術を身につけさせるべきなのだ。ことほど左様に、子供達の個性を涵養し、その個性に合った教育内容を子供達の自主性と主体性を尊重しながら与えるのが正しいこれからの教育である、と。


蓋し、これは「どの子供もどの科目でも100点取れるポテンシャルがある」という戦後民主主義流の平等幻想を打破する、我々保守改革派も一定程度評価するにやぶさかではないイデオロギーではあった。しかし、学校現場・教育現場ではそうは受取らなかった。


もちろん、文部官僚や教育委員会の指導主事が現場に説明していることと現場の了解内容との間に齟齬が生じるのは当然でしょう。けれど、ゆとり教育を破綻させた本質的な問題は、戦後民主主義を信奉する勢力、日教組やリベラル派の強い影響下にある学校現場・教育現場では子供達を差別することは(否、差別意識や差別感を抱かせることさえ)悪であるという文化があったことです。


而して、そこに臨教審から、教育内容を30%削減して完全週5日制の導入、かつ、生徒評価のしずらい絶対評価制度、あるいは、優秀な教師と優秀な生徒の組み合わせに対してのみ有効かもしれない「総合学習」に代表される2002年学習指導要領に結晶したゆとり教育路線が持ち込まれた。


そこで何が起こったか。子供達の学力低下と学習意欲の低下を見る限り、個性を確立するための学力の基礎作りを子供達の自主性と主体性の尊重という免罪符のもと<教育を行わない教育>が実施されたのではなかったか。蓋し、文部官僚をして日教組の平等幻想を一旦撃退せしめた同じイデオロギーが<トロイの木馬>となり文部官僚の目論見を破綻させた。そう私は考えています。



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◆学習意欲の低下と学習基盤の崩壊
人口に膾炙している通り、ゆとり教育破綻の最大の要因は子供達の学習意欲の低下です。蓋し、勉強とは本来「強いて勉める」ことであり、取りあえずは面白くともなんともない事柄を覚え使ってみる中で知識習得の大切さと習得のスキル(「勉強の仕方の勉強」)、加えて、知ることの面白さを実感する営為だと思います。その最初の、取りあえずは面白くともなんともない作業を子供達にさせるものはどんなにシュガーコーティッドされた言辞で呼ぼうが<強制>の契機に他ならない。


実際、ある大手予備校の代表者の方は「子供はテストがなければ絶対に勉強しない」と断言しておられましたが、蓋し、これは真理であろうと思います。而して、強制がなくなり、かつ、学習内容が削減されたことによって、「もっと勉強しよう」という子供達の気持自体が減退するだろうことを文部官僚は全く想定していなかったのかもしれません。


畢竟、学力はどのようにして決定されるか。学習するための教材等々の情報媒体差が無視できるくらい小さいと仮定すれば(日本の義務教育の教科内容については一応そう言えるでしょう)、また、「学習能力」を情報把握・情報の因子間の関連付け・体系的把握・記憶の能力と措定すれば、


学力=学習時間×集中力×学習能力


と私は考えます。而して、学習意欲の減退は、原初的にはこの学習時間・集中力の低減を通して学力低下の要因となる。しかし、これに加えて、学習内容のレヴェルが向上すればするほど(学期・学齢が進めば進むほど)過去に学習した知識内容自体が学習能力の決定要因になるでしょうから、学習意欲の低減は、結局、学力の総ての決定要因を低減させ学力低下を惹起せしめる「負のスパイラル効果」をもたらすのだと思います。


ならば、もし、ゆとり教育が子供達の学習意欲を低下させた疫学的にせよある種の相関関係が確認されるのならば、ゆとり教育路線の復活などは断じて許してはならない。而して、苅谷剛彦『「学歴社会」という神話 戦後教育を読み解く』(日本放送出版協会・89頁以下)等々、この相関関係を推測するに足るデータはすでに多数提出されているのです。


補足として、学習内容の減少と学習意欲の低減の関係についての私の仮説をのべておきます。要は、一般に、知識が多ければ多いほど人間は多様なことを考えることができるということです。定量的に言えば、例えば、


7個の単語カードを使って造れる単語列を作るゲームを考えてみてください。7個のカードの並べ方は、7個のカードから1個取る場合、2個取って並べる場合、・・・、7個全部を並べる場合の合計13,699通り。では、3割減される前の(笑い)10個の単語カードではどうだろうか。これも10個から1個取る場合、10個から2個取って並べる場合、・・・・、10個全部を並べる場合の合計となり、9,864,100通りとなる。


計算間違いをしているかもしれませんが(笑)、この比喩で私が主張したいことは明白でしょう。単に知識量が30%減っただけでその運用の可能性は99.86%近く減るということです。逆に、覚える単語を7個からたった3個増やしただけで、その運用の可能性は720倍以上増える。もちろん、これは単なる算術的のお遊びにすぎず、この帰結を一般化できるわけではない。しかし、子供達にとって強いて勉める努力の量が算術的に増えるに従い、この世の森羅万象を自分の頭で理解できる可能性は幾何級数的に増えることの可能性は提示できたのではないかと思います。


他方、定性的に言えば、例えば、「定量的なトレーニング」と学習意欲には緊密な関係がある。ところが、ゆとり教育の中で計算を伴なう定量的な訓練の契機は大幅に削減されました。


具体的には、気圧と温度と容積の関係などは定性的な説明がなされた後は、単に、ボイルの法則や密度/比重を示す公式が紹介されていただけだった。しかし、計算という手を動かした作業によってこそ諸公式の意味はリアリティーをもって理解され、気温や気圧や密度という概念を現実の森羅万象に適応できる応用力が身につくのではないでしょうか。そして、そのようなリアリティーが感じられない状態では学習しようという興味と意欲はかなり制限されたものになるしかないでしょう。閑話休題。


学習する意欲は学習する経験によって増進する。ゆえに、質と量の両面における教科内容の削減も子供達の学習意欲低減の原因の一つでないはずがない。


ならば、ゆとり教育は子供達が「自分の頭で何をどのように考えるか」という<個性>の前提となる<自分の頭>を子供達が形成することを困難にし、かつ、努力することの大切さとある意味での努力することの割のよさを子供達に体得させにくい教育政策だった。それは、子供達の学習意欲の低下と知識という子供達の学習基盤の崩壊をもたらした。このことを、ゆとり教育の導入とその破綻をつぶさに見てきた、現在20歳以上の日本人は忘れるべきではないと思います。


畢竟、学習することによって、加速度的に「自分の頭で疑問を感じ理解できる領域」が広がる感動を子供達に味いもさせず、さりとて、その最初の一歩を得るための<強制>も与えもしない状況を前提にしながら、「学力を低下させるな、学習意欲を低下させるな、子供達を個性的にせよ」と説いていた文部官僚の姿はほとんど喜劇的です。しかし、その喜劇は子供達にとっては人生の悲劇の第一幕であったかもしれない。


ならば、蓋し、<子供達>のためにこそ、朝日新聞を始めとする左翼・リベラル派の狡猾で邪な詐術と目論見を見破り、もって、民主党政権の反動教育政策、就中、ゆとり教育路線の復活を断乎阻止しなければならない。私はそう考えます。


б(≧◇≦)ノ ・・・橋下流教育政策、断固支持!

б(≧◇≦)ノ ・・・日本の子供達のために、共に闘わん!




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