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支那が中華主義を放棄することはあり得るのか? 私はその成否は詳らかにし得ませんが、もし、支那が中華主義を放棄し得るとすれば、それは中華主義を止揚した通常のナショナリズムを支那がその社会統合の<政治的神話>に据えることに成功した場合であろうと考えています。


いずれにせよ、現下、支那は世界最大の不安定要因。空母建造に端的な、世界第2位の経済力にものを言わせたその止まるところを知らない軍拡推進、そして、凄まじい環境破壊。他方、チベットや東トルキスタンにおける「民族浄化」的な人権侵害は個別支那だけの問題にとどまらない。


要するに、世界人口の20%近くを占めるこの人口大国の内部に組み込まれた経済格差と少数民族統合を巡る不安定要素、すなわち、1978年に始まる改革開放路線の下、経済発展著しい沿岸部と取り残された内陸部との並存、漢民族とそれ以外の民族との間、および、共産党のメンバーとそれ以外との間に生じている格差の固定化と拡大を鑑みるならば、「支那問題」の深刻さは自明。    


而して、これらのことを反芻するとき、また、軍艦と人民元を駆って世界中で繰り広げている喧嘩上等の資源争奪等々を想起すれば、「支那=世界最大の不安定要因」であることは誰も否定はできないことではないでしょうか。


私は、しかし、支那を巡る諸問題は個々に分離したものではなく、ある一つの軸に沿って整序可能ではないかと考えています。而して、その軸が「中華主義」であり、一個の主権国家たる支那が「中華主義」を社会統合のための理念に据えていること自体が孕んでいる矛盾です。蓋し、


世界と日本にとっての支那問題の源泉は「中華主義の主権国家」という

支那の自己規定性に埋め込まれた<矛盾>に起因する、と。


ならば、支那が「中華主義の国=中国」という自己規定を漸次「主権国家=支那」に移行させるのなら、<中国>という現象の帯びる脅威も逓減するだろう。否、「逓減」という表現が誤解を招くようであれば、「支那の脅威は減少することはないとしても、その脅威の予測可能性は格段に透明性を増すのではないか」と私は考えるのです。而して、現在進行形のチベットでの抗議行動への残忍な鎮圧、まだ記憶に新しい北京オリンピックの聖火リレーを巡り世界各地で惹起した混乱などは、実は、支那が「中華主義」を止揚して「中国→支那」への移行をなしつつあることの徴候だったの、鴨。


尚、「近代主権国家」「国民国家」「民族国家」成立以降の現在においては、その国家が社会主義国であるか資本主義国でるかにかかわらず、または、その政権が左翼政権であれ社会民主主義の政権であれ、あるいは、保守主義を信奉する政権であれ、好むと好まざるとにかかわらず、すべての国のすべての政権は<ナショナリズム>をその基軸に据えざるを得ないこと。このことに関しては、就中、その<ナショナリズム>と保守主義とのアンビバレントで重層的な関係性のあり方を巡る私の基本的な考えについては、とりあえず下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。


・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html


・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11137340302.html


・保守主義-保守主義の憲法観
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144611678.html


・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11145893374.html




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◆中華主義
ここで言う「中華主義」とは「夕飯はいつも西日暮里の餃子の王将で酢豚定食だ」とか、「コスプレは彼氏の要望でいつもチャイナドレス」とかいうライフスタイルのことではありません。また、「中華主義」の「中華」とは「世界の中心の国」という意味ではなく(文字通り、城壁で囲まれた限定的空間に成立する世界の一部分たる「国」ではなく)、それは世界そのもの。つまり、中華主義は、元来、(世界の一領域において、外に対しては独立の内においては最高の政治的権威であり政治社会である)「近代主権国家-近代民族国家」と整合的な理念ではなく、諸民族や諸国家を部分としてその内に包摂する<宇宙>や<帝国>として「中華=支那」を捉える世界観であり、而して、中華主義は<宇宙論>なのです(★)(★)。


★註:帝国と国家
「帝国」と「宇宙」の理解については、長尾龍一『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』(講談社学術文庫・1994年9月)を参照ください。長尾氏曰く、


「「近代主権国家」以前のユーラシア大陸においては、「国家」(states)ではなく、「帝国」(empires)が支配していた。(中略)帝国の中に住む大多数の人々にとっては、帝国は世界そのものであり、皇帝は天や神に命を享けて、世界全体の秩序に責任を持つ者であった」(pp.3-4)。「世界の部分秩序である国家を、『主権』という、唯一神の『全能』の類比概念によって性格づける国家論は、基本的に誤った思想であり、また帝国の『主権国家』への分裂は、世界秩序に責任をもつ政治主体の消去をもたらした、人類史上最大の誤りではないのか」(pp.6-7)、と。


而して、長尾さんの言うように「近代主権国家」が誤った方途かどうかは別にして、少なくとも、支那が現在「帝国=中国」から「国家=支那」に移行しつつあることは確かだと思います。  



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★註:中韓の「反日」動向は世界標準の規格外
この「中華主義=中華思想」に関して、もう7年近く前に目にしたものだけれど(2005年4月15日)、我が意を得たりの感想を抱いたことを今でもくっきりと覚えている記事があります。読売新聞「読みトーク」に掲載された、筑波大学の古田博司さんのコメント「「反日」拡大 中華思想背景 論争恐れずに」です(以下、引用開始)。


東アジアでは、儒教文化を分有していきた。それは「礼」という行儀作法を共通の規範とするもので、世界の中心にあると自任する中韓から見ると、日本は「礼」も知らない野蛮な国で、教え諭すべき相手と位置づけられる。その論理の中では、戦争に敗れながら、一足先に経済発展した日本は、矛盾した存在となる。

批判の対象としての日本は「道徳性が欠如」しており、道徳的に優位に立つと考える彼らは、日本に対しては何を言っても、何をやってもいいということになる。それが彼らの伝統的な思考パターンだが、今、歴史認識、日本の国連安保理常任理事国入りの動きにかこつけて騒ぎとなっている。(中略)


過去の歴史に対する認識はどこまで行っても平行線だ。謝罪を繰り返しても、足りないと言い続けられるから解決策にならない。(中略)こうした東アジアでの隣国とのつき合い方は、相手の主張をよく聞いて、相手の誤解はただして、主張すべきはきちんと主張することだ。無視することが一番よくない。当然、論争になるだろう。そして結論はでない。その状況が出発点で、互いに前向きな知恵が出る。「和をもって貴しとなす」というのは、日本国内でだけ通用するもので、論争こそがつき合いの始めだ。(以上終了)


同感。蓋し、韓国の植民地支配もなんら国際法に反していたわけでもなく、支那との戦争も国際法的には完全に処理済みであるにもかかわらず、彼等が日本に「謝罪と反省」を言い続ける理由がここに簡潔に指摘されている。要は、中韓は、「中華思想-中華主義」とは無縁の、西洋列強から受けた損害と屈辱は国際法で解決するしかないにしても、「中華主義-中華思想」を分有しているはずの(「承認しているはずの」かな。)日本から受けた損害と屈辱に関しては、「中華主義=中華思想」のパラダイムの中部で解決しなければならないと考えているということ。


日本は(足利義満公の日明貿易の例外を除いて、)菅原道真公(845-930)の建白以来、そう、10世紀前半以降、中華主義のパラダイムから離脱してる。ならば、他国を「野蛮な国」と思うのは自由ではあるけれど、自分の国際関係認識のパラダイムが日本にも適用されると思い込むのは強引というもの。


すなわち、その思い込みなどは、例えば、天津の外語大学で起こった支那人と韓国人による「靖国神社への日本の首相参拝糾弾集会」の際に惹起した、日本人留学生と日本人観光客への暴力沙汰を裁く管轄権や道義的な優越性を日本が持っていると思い込むのと同じくらい馬鹿げたこと、と。そう私は考えています。つまり、「反日」の動向を正当化する中韓の論理は、世界標準の国際認識の規格外のものであると。  

 


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中華主義を奉ずる支那人が抱いてきた世界観は「支那=世界」というものだったのではないか。要は、なにかにつけ「世界一」を自任するフランスやアメリカとは違い、世界中が本来は支那のものであるという感覚。皇帝が南面する中華の都から同心円的に離れるに従い中華の威光は徐々に希薄になりつつも、東夷西戎南蛮北狄の「化外の地」「化外の民」も含め、全世界は、本来、「中華=支那」のもの。




よって、「支那=世界」であり、かつ、支那は「世界=宇宙」を治める「中国=帝国」なのだ、と。このような感覚が中華主義の神髄なのだと思います。


もちろん、現在では中華主義の世界観などは夜郎自大的な田舎者の世界認識にすぎないでしょう。けれども、再度記しますが、重要なことは、中華主義は宇宙の一部分でしかない「国」に付随する「愛国心」や「主権」や「民族」とは本質的に異質なものということ。ならば、畢竟、21世紀の支那問題の核心は支那が自らを「中国=中華」と規定する「近代主権国家」であるという矛盾の中にある。私はそう考えるのです。


「中国」という現象の構図
・中華主義の本質:世界はすべて「中国=帝国」の領土とする宇宙論
・支那の自己規定:中華主義を社会統合の核とする近代主権国家
    



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<続く>