海馬之玄関amebaブログ



◎国家と憲法の論理的な存在位相
公共的な言説空間で生産的議論(反証可能性を備えた論駁と応戦)を遂行したいのならば、現行憲法にビルトインされた国民主権原理の意味内容は、実定憲法の条項と憲法慣習、「国民主権」「国民」「国家」、あるいは、「基本的人権」「民主主義」「憲法」という言葉の論理的意味、そして、これらの言葉に各々憑依する「事物の本性=概念の経験分析」から、価値に関係づけられた事実判断導を通して間主観的に把握されるしかない。
これが前項で提示した私の方法論的立場でした。では、「国家」と「憲法」はどのよう論理的な関係にあるか。国民主権に抵触しない外国人地方選挙権なるものの内容を論理的に確定すべく、「国民主権」を枠づけるこれらの言葉の意味を吟味検討しておきます。


百地論稿にはこう書かれていました。「参政権は、国家の存立を前提とし、国家の構成員にのみ保障された権利(後国家的権利)である。・・・それゆえ、観念上「国家以前の権利(前国家的権利)」と考えることの可能な精神的自由権(思想・表現の自由等)とは性質を異にする」(ibid., pp.99-100)、と。外国人地方選挙権を基本的人権とは考えない私見からは、ここに引用した主張は本稿の理路とは直接の関係はありません。ただ、基本的人権と国家の論理的関係の究明は、憲法と国家の概念、および、憲法と国家の事物の本性を言語化する上では格好の補助線だと思います。


蓋し、百地論稿が紹介する通説は次のような社会思想史認識の産物であろうと思います。すなわち、


(α)近代の黎明期、その段階で社会的桎梏となり果てていた教会・ギルド・地方領主等々の(国家と個人の間の)中間団体を主権国家の実力によって粉砕する社会的要請が高まった。しかし、(β)あらゆる中間団体が粉砕された後、今度は「リバイアサン」になりかねない主権国家が個人の人権を脅かすことは必至、よって、中間団体を粉砕する実力と権威を主権国家に付与しつつ、また、国防と社会秩序維持の機能を主権国家に担わせながらも、他方、国家の恣意的な権力行使から人権を守るロジックと制度が希求された。


而して、(γ)国家権力の存在理由を基本的人権の守護に限定し、かつ、その権力支配の正当性を「支配と被支配の自同性=国民主権」に置くことを明記した「近代的意味の憲法=近代立憲主義を採用した憲法」に沿った主権国家の体制が模索され、すなわち、立憲主義が近代主権国家の憲法論的枠組みとなった、と。


このような国家と憲法を巡る<物語>からは、確かに、規範論理的には、精神的自由権は「前国家的権利=自然権」として「国家に先行する」こと(国家権力の正当性を基本的人権が基礎づけること)、他方、国家の意志形成に参画する権利として、国家の存在を論理的に前提とせざるを得ない参政権が「後国家的権利」と位置づけられることは理解できるということ(★)。


しかし、私はこの国家と憲法の<物語>には二つの疑義がある(尚、近代主権国家と立憲主義、人権と近代主権国家の関連については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです)。



・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65245046.html


そして、その「瓦解」の前哨的思索としての


・戦後民主主義的国家論の打破(上)~(下)

 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-5.html




第一に、ここで言う「前後関係」を、国家と憲法の規範的な存在位相(授権-被授権の関係)と捉えるのならば、参政権も基本的人権である限り国家に先行すると考えるべきであり、他方、「前後関係」を国家と憲法の論理的な存在位相と捉えるならば、憲法よりもそれに拘束される国家の方が先行するはずであること。


而して、外国人地方選挙権を巡る論点が参政権の権利行使主体の範囲確定である以上、ここで問題にされる「前後関係」は規範的な存在位相でしかありえず、畢竟、そこでは参政権と精神的自由は同列の権利と解すべきだと思います。蓋し、参政権が「後国家的権利」であるから、それは外国人には認められないという帰結は自明のものではないということです。


そして、この帰結が「国民主権」の概念ともその事物の本性とも相容れないとすれば、背理法的に言えば、「切り札としての人権」という基本的人権理解、すなわち、「基本的人権=前国家的権利=自然権」という前提自体が誤謬を含んでいるの、鴨。そう私は考えます。


第二に、社会学的観察からだけではなく、規範論理的観察からも国家権力の正当性の根拠は基本的人権のみならず、それと別系統の、当該の国家社会の社会統合イデオロギーをも含む。これは、基本的人権なるものがその正当性根拠を自然権的な普遍性に求めざるを得ないのに対して、あらゆる「近代主権国家=民族国家」の憲法が例外なくその「歴史的-文化的」の特殊性にその国家のアイデンティティ、すなわち、社会統合のための<政治的神話>の根拠を置いていることからも自明でしょう。ならば、価値相対主義的を基盤とする法哲学の立場からは、基本的人権の価値と社会統合のための<政治的神話>は共に実定憲法に埋め込まれた法内在的正義であり、権力支配の効力根拠であってそれらの間に優劣の差はない(どちらかがどちらかに授権するという関係にはない)ことになる(★)。


要は、先に紹介した樋口さんの文化帝国主義が炸裂する独善的な言説に明らかな如く、普遍性を詐称する基本的人権のみを国家権力の正当化要因とするのは、フランス憲法思想に泉源する、<西洋の没落>の趨勢がいよいよ顕著な現下の人類史においてはアウトオブファッションとさえ言える、世界的に見れば極めてマイナーでローカルな憲法思想にすぎない。


畢竟、それは、英米流の憲法思想ともドイツ流の憲法思想とも、よって、それら両憲法思想潮流の交点に、而して、現行憲法1条を拳拳服膺するに、「皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」のイデオロギーを基盤として成立している我が国の現行憲法とは無縁の憲法思想である。蓋し、イデオロギー批判の観点からは、普遍的な基本的人権なるものによる国家権力の独占的な正当化は、民主主義の社会思想的基盤である価値相対主義とは相容れないものではないでしょうか。


蓋し、憲法と国家の関係は、社会学的視点だけではなく論理的視点からも、国家が憲法に優先するのであり、他方、規範論理的な視点からは(ケルゼンの「法体系=国家」の同一説とは別の具体的な意味で)国家と憲法は同一の存在である。而して、その同一の「国家=憲法」には、基本的人権と共に、実定憲法に内在する法内在的正義としての社会統合イデオロギーたる<政治的神話=国家のアイデンティティ>が重層的に組み込まれている。


畢竟、「国民主権」とはそのような「国家=憲法」の正当化イデオロギーの一斑に他ならず、「「国家=憲法」に内在する国家のアイデンティティを是認する国民の総意に国家の最終的な政治的意志を決定する権威と権限が帰属する」という理念である。私はそう考えます。


★註:自然法と自然権
人が人であることだけを根拠に普遍的に認められる、かつ、誰からも奪われることのない人間に固有の権利を自然権と言い、その自然権を定める法を自然法と言います。このような「自然法-自然権」の法思想は鬼面人を驚かす類の際物ではなく、ラートブルフが喝破したように、「法哲学は、最初から19世紀の初頭にいたるまで、すべて自然法論であった」(『法哲学』, p.125)のであり、「ある法:law as it is」ではなく「あるべき法:law as it ought to be」を希求する営みが、洋の東西を問わず(韓非子等の法家思想を含む)人類の法思想であったことは間違いないでしょう。


而して、基本的人権を「天賦人権=rights that God gives to us」とも呼ぶのは、「あるべき法=自然法」として基本的人権を理解するということであり、それは、18世紀の「法哲学=法概念論」の残滓と言うべきものだと思います。


自然法(natural law, law of nature)という概念は、現在で言う自然法則(natural law, laws of nature)のアナロジーから生じたと言われています。しかし、その概念に憑依する「事実の本性=法規範の内容を認識するために不可欠な、予め慣習的にある言葉として形態づけらた概念に盛り込まれる経験的素材」から言えば、すなわち、観念の領域では、自然法則の観念が寧ろ自然法のアナロジーによって形成されたと言うべきかもしれません。


重要なことは、ラートブルフが「19世紀の初頭にいたるまで」と限定しているように、近代主権国家誕生の前夜まで、既存のレジュームに対する批判イデオロギーであった「自然法-自然権」の具体的内容(精神的自由権や財産権等々)は、所謂「市民革命」の後、近代主権国家が成立するや否や、その憲法秩序にビルトインされたこと。尾高朝雄先生の言葉を借用すれば、18世紀の「自然法-自然権」の具体的内容が「法超越的正義→法内在的正義」に移行したこと(尾高朝雄『改訂法哲学概論』pp.272-278)。


而して、自然法の歴史を紐解くとき、具体的な規範内容とは別に、現前の実定法秩序を相対化し批判する<論理形式>としての「自然法-自然権」概念を措定することが可能であり、また、井上茂先生が定式化された如く、自然法の存在の是非と「自然法思想は、事実、歴史的に存在した」(『自然法の機能』)ことは別の位相にあると言うべきなのです。


★註:法の効力根拠
「なぜ我々は憲法とそれを枠組みとする憲法秩序に従っているのか/従わなければならないのか」という問いに対する解答体系を「法の効力論」と呼びます。この法の効力根拠に関しては、尾高朝雄先生が定式化しておられる(『実定法秩序論』(1942年, pp.71-87)、『改訂法哲学概論』(1953年, pp.232-239))。すなわち、法の効力とは、


①法の妥当性と法の実効性である
②法の妥当性とは規範意味実現への社会的要求
③法の実効性とは規範意味が事実として実現されていること


注意すべきは、ケルゼンの純粋法学のみならずフッサールの現象学を学んだ尾高先生にとって、法の妥当性とは、「法規範が現実に行なわれねばならないという要求」であり、その本質は、「国民の法意識-法的確信」という社会的実在であること。よって、「法の正統性」と法の妥当性は論理的には無関係ということ。また、後に、尾高先生の高弟である井上茂先生がより明示的に示された如く、法の実効性も法の妥当性も、単なる一法規条項の問題ではなく法体系を単位にその有無強弱が判定されることです。


ならば、憲法無効論なる妄想を奏でている論者が、法の妥当性を「規範意識において、改正なら改正に手続き的な不備がなかったか、内容に逸脱はなかったかということ」(渡部昇一・南出喜久治『日本憲法無効宣言』, p.26)と捉えているのは(もちろん、どの言葉をどのような意味で使おうと論者の勝手ですが)尾高先生の認識とも、また、現代法哲学の地平とも無縁の主張であろうと思います。


尚、日本では、単に、法体系の認識論として取り扱われる向きも無きにしも非ずのケルゼンの「法段階説」も(確かに、法段階説自体は、事実と価値、存在と当為を峻別する新カント派の認識論を基盤としており、「法現象とは法的観点から見られた社会現象に他ならない」という法概念論の帰結ではありますが)、実は、「なぜ国家の「命令=法」に我々は従わなければならないのか/従っているのか」の問いに対する解答でもあるのです。



<続く>