その夜、町外れの家にイチが戻ると、
ヴァールや村の男達は、もうすでに夕食を終え、
寛いだ調子で、ビールを飲んでいた。
「イチ、遅かったじゃないか。心配したんだよ」
一番奥にいたヴァールのおばさんが、イチに駆け寄り、
ぽっちゃりした手で心配そうにイチの顔を撫でた。
イチはくすぐったそうに笑いながら、謝った。
「すいません。通りにある食堂で、絵を描いていたんです」
「食堂?『緑の乙女亭』の事か?」
村の男の一人が、ビールジョッキから口を離して言った。
「みどりのおとめてい?」
イチはそのロマンティックな言葉を、不思議そうに聞き返した。
ヴァールのおばさんが、ぽっちゃりした腰に両手を当てていった。
「食堂の名前だよ。大きな通り沿いにある、町で一番大きな食堂だろ。
店員が大勢いて、綺麗な娘さんがいる」
イチはうなずいた。
「確かにそんな店でしたよ。エームっていう綺麗な子がいて」
「ああ、じゃあそうだよ。そこが『緑の乙女』だよ。
あそこにはね、緑色の目をした女の子の、からくり人形があるんだよ。
店の名前はそこからついたらしいよ」
イチは納得して、うなずいた。
「そういえば、あの人形は緑の目をしてましたね」
「え!?」
椅子に座っていた男達が、一斉に立ち上がった。
驚くイチに、一番年をとった男が聞いた。
「今日、からくり人形が店に出たのか?」
戸惑いながらイチは答えた。
「はい。町中から人が来て、大騒ぎになってました」
皆、一斉にため息をつき、椅子に座った。
「また見逃したなあ」
男達は、しょんぼりと呟いた。
ヴァールのおばさんの嘆きは酷かった。
両手で自分の頭を何度も叩きながら、ぐるぐる部屋中をまわりだした。
「ああ、失敗したよ。
今日、あたしは『緑の乙女』にビスケットを買いに行くつもりだったんだよ。
みんな、あそこのビスケット好きだから、久しぶりに食べさせてあげようと思ってさ。
でも、ちょっと足が痛かったものだから、明日にしようと思って行くのやめたんだよ。
なんであたしは行くのをやめたんだろうねえ。
今日行ってれば、からくり人形を見られたのに。
あの緑の目の可愛い子が、あたしに向かって抱っこしてほしそうに
両手を広げるのを、また見たかったよ」
イチは気の毒そうな顔をして、鞄から茶色い紙に包まれたものを取り出すと、
おばさんに差し出した。
「緑の乙女亭のビスケットなら、ここにありますよ。
おみやげに持って帰れって言われて」
ヴァールのおばさんは驚いたように包みを受け取った。
「あら、ありがとうイチ。それにしても、随分沢山あるんだね。
おみやげって言ってたけど、誰がくれたんだい?」
「『緑の乙女亭』のご主人ですよ。
明日から、あそこの娘さん達の絵を描く事になりました」
「まあ!町に着いたその日に、仕事を見つけてくるなんて!
さすがイチだよ。良かったねえ!」
ヴァールのおばさんは、嬉しそうに叫ぶと、イチに抱きついた。