SNSでコミュニケーションしたつもりにならずに個でかかわる温かさ | ひとしずくの純金

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たったひとつのわたしの生き方を見つける旅

 

 

きっかけがないと

連絡しない友人・知人にも

 

年末年始のご挨拶というのは

理由なく連絡できて、

 

ひょっとしたら、もっと

大切にすべき習慣なのかもしれない、

 

などと今更ながらに

思ったりしています。

 

 

 

個人的には、

季節のご挨拶よりも、

 

お誕生日など

その人ならではの記念日のほうに

関心が高いのですが、

 

 

こういう、

誰もが挨拶を交わすときに

いい意味で便乗するのもアリだなぁ、

 

なんてその良さが分かってきました。

 

そんなお年頃(笑)。

 

 

 

 

午後はディカフェでニコニコ

 

 

 

 

facebookをやっていると、

普段会えない人でも、

 

どんな活動をしているのか、

が ”流れてくる” ので

 

「ふーん、そうなんだ~」

 

と一方的に情報を

受け取ることができます。

 

 

 

コメントをしない限りは

やりとりも発生しないのに、

 

なんとなく

その人の近況を分かったような

気持ちになってしまう。

 

 

 

でも。

 

よく考えたら

SNSで ”流れてくる” 情報というのは

お化粧した外向きの情報。

 

いわば、舞台用の情報、

ですよね。

 

多少の差はあれど

まぁ、似たり寄ったりでしょう(笑)。

 

 

 

それなのに、

そのお化粧された情報に触れて、

 

「ふーん、そうなんだ~」

 

というところで納得して

止まってしまいがち。

 

 

 

それ以上の

コミュニケーションをしなくても、

分かったような気になってしまう。

 

元気なんだなー、

無事にやってるんだなー、

 

と、そこで止まってしまう。

 

 

 

あとから

 

「いやぁ、

あの頃はほんとツラかった」

 

なんて聞くことがあると、

 

 

そうだよな、そうだよね、

この間、何もないわけないよね、

 

落ち着いたから話せる、、、

人ってそういうとこあるよね、

 

と改めて思ったりするのです。

 

 

 

本人が話していないことを

あれこれ想像するのは

ある種、余計なお世話ですが、

 

そういうお化粧された情報に

 

やきもちをやいたり

(すごいと思われたい気持ちに応える)、

 

ハラハラ心配したり

(気にかけてほしい気持ちに応える)、

 

などなど

いちいち反応することはないし、

 

 

また一方で

その情報がその人のすべて、と

思うのも違うというもの。

 

 

 

日常生活の情報伝達、

という意味の

コミュニケーションではなく、

 

個と個がお互いに向けて

メッセージを交換しあうことを

望むのであれば、

 

1対1でやりとりする以上には

ないと思います。

 

 

 

文字のやりとりでも、

 

声のやりとりでも、

 

会って顔を合わせての

やりとりでも、

 

1対1というのは、

複数でやりとりするのとは

 

伝えようとする内容の質が

違いますよね。

 

ましてやSNSで交わされる

複数 対 複数の情報。。。

 

 

 

だから、

ときどき、ふと思い立ったときに

 

思い出した人に

メッセージを送ってみる。

 

電話をしてみる。

 

カードを送ってみる。

 

 

 

個人的にあなたのことを

気にかけています、と伝える。

 

それが、

その人にとって、

大きな救いになることもある。。。

 

 

 

そういうとき、

 

無理に事件を探して

”深く” 打ち明け話をしなくても、

 

なにげない

日常の様子を伝えるだけでも、

 

お互いの気持ちの深さは

通い合うんだと思います。

 

 

 

しばらく連絡していないあの人、

 

どうしているかな、と思うあの人、

 

「特に用事はないけど、

ふと思い出したから」

 

でOKだと思います。

 

 

 

相手はうれしいはずですよ。

 

自分はこの人の心の中に

居場所を与えられているんだな、と。

 

 

 

私もメッセージ送ってみようと思います。

 

 

 

 

カミヤカオリ

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