織田信長の弟に、13歳違いの長益という人物がおりました。彼は
1547年から1621年までの74年間生きているので、当時として
は、そこそこの長生きでしょう。
その原因は、信長と違って、ほとんど戦をしなかったから。織田方
の武将として出陣するのは、1582年の甲州攻めだけ。後は出家
して有楽と名乗り、茶道の道に邁進しました。
千利休に指導を受け、それをもとに「有楽流」という流派まで開いて
いるのだから、なかなかのものです。
一流の茶人となったおかげで、豊臣秀吉にも徳川家康にも、厚遇
されています。
姪の淀の後見にも当たっているため、秀吉の死後は、秀頼と淀に
対して、家康と和議を結ぶように、説得もしています。
そんな有楽ですが、家康から江戸に屋敷を与えられました。その
場所が、今の有楽町に当たるとされています。それには、異論が
かなりあるようですが、とにかくそういう言い伝えが残っていること
は確かでして、「有楽町」という名前はこの人から取ってつけたも
のであることも、事実なのです。
この人の「有楽」は、読み方が「ゆうらく」でなく「うらく」でした。しかし、
その趣味人的な自由さ、臨機応変の柔らかさはいかにも平和的な
こと。そして、「うらく」より「ゆうらく」のが響きとしてもおしゃれでこの
人らしい上、町の名前にもふさわしい。
ということで、漢字はそのまま。読み方だけを変えて「有楽町(ゆう
らくちょう)」としたそうです。
今では、兄と違ってこの人の名はマイナー。「有楽町」という町名
の方が、はるかに有名になっていますね。