七夕に | 浄土真宗・真宗大谷派 浄照寺のブログ

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新潟県にある390年続く浄土真宗(真宗大谷派)のお寺『浄照寺』のブログです。
法話のことから日々のこと、ただの思いつき?なことまで色々と書き綴っています。
副住職の小林智光が投稿しています。

久しぶりの投稿です。
ご無沙汰しまくりですΣ(゚д゚lll)

先日、息子を保育園までお迎えに行った時のこと。
保育園の玄関には大きな笹が飾ってありました。
そう、七夕です。
そして小さな笹が何本か置いてあり、「ご自由にお持ちください」と書いてありました。
七夕はご存知の通り、笹にお願い事を書いて飾ります。
元々は中国の故事だったものが日本に輸入され、牽牛と織姫の話が織姫と彦星になり、日本に定着して今日に至ってるようです。
短冊にお願い事を書くのはどうやら江戸時代頃から始まってるみたいです。

んー、日本の風習って大体そうですよね。お盆しかり。

そして浄土真宗ではご存知の通り、お願い事をするとかいうのは『迷い』とされ、あまりやりません。そして阿弥陀仏以外の神仏に頼ったり願うような事は本来の姿では無いとされます。

話は変わり、私は子供の頃に神社に行った事がほとんどありませんでした。
隣町の神社では元旦になると露店が出て、祈願の人々で溢れ、露店が出て、もの凄い賑わいです。
小学校低学年のころ、父(住職)に

『◯◯神社の露店に行きたい。綿あめ食べたい』と言ったら
『寺の人間が何を考えてるんだ。ダメだ』
と一喝されました。

まぁ寺の息子が元旦に神社をウロウロしてたら気まずいのは幼い僕でも分かりました。幼いながら、今流行りの忖度もしていた訳です。

しかし、『寺の人間なのに』という所がどうも解せませんでした。

同様に、七夕の飾りを息子がやりたいと言った時、持ち帰ってお願い事を書きたいと言った時にどうしようかと思ったのですが、まぁとりあえずやってみようかと小さな笹を持ち帰りました。

七夕の短冊などは浄土真宗の人間はしてはならないのでしょうか。

よく、『親鸞聖人は雑行を捨てたのだから』『阿弥陀仏以外の神仏をアテにして右往左往する人間を悲しまれているのだ』と言って、そういう風習を一切やらない、という方がおられます。

確かに親鸞聖人は教行信証の「化身土巻」に「雑行を捨て本願に帰す」と示されました。それは本願以外に救われる道は無い、阿弥陀仏だけを頼るいうことです。
そう書かれるということは雑行を捨てられなかった親鸞聖人がおられた訳です。いうまでもなく、比叡山時代や千部経読誦は本願他力の念仏の生き方ではないかもしれません。

しかし、親鸞聖人は『雑行を捨てられない自分』をも捨て去ったのでしょうか。そういう自分を無かったことにされたのでしょうか。
むしろ自分を捨てられない人間の気持ちがよくお分かりの方でなかったのではないかと思うのです。

だからあまり世間の習俗を鼻で笑ったり、見下すのではなく、親しみを持っていくことも大切ではないか。
『神祇不拝』と『神祇不敬』は違うのではないかとも感じます。


ちなみに息子が短冊に書いたのは『しんかんせんのうんてんしゅ』でした。

おい!それはお願い事じゃなく、進路希望だろうっwと。