鹿ヶ谷に暗躍する者達 | 辻村寿和Collection「寿三郎」創作人形の世界

辻村寿和Collection「寿三郎」創作人形の世界

創作人形作家辻村寿三郎の作品を皆様にご紹介いたします。

本日ご紹介の作品は4月23日から目黒雅叙園で展示いたします。
お近くの皆様是非お出かけください。

後白河法皇
ジュサブロー館の創作日記
2009年制作

平安時代末期の第77代天皇。

諱は雅仁(まさひと)鳥羽天皇の第四皇子。

幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるが、そのたびに復権を果たした。

政治的には定見がなくその時の情勢に翻弄された印象が強い
仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。
和歌は不得手だったが今様を愛好して「梁塵秘抄」を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。

写真をクリックすると大きいサイズで見ることが出来ます。
細かいディテールをご覧ください。

撮影 Canon EOS 5D Mark II
EF100mm F2.8 マクロ USM

俊寬僧都
ジュサブロー館の創作日記
2009年制作

平安時代後期の真言宗の僧。村上源氏の出身。

後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあった。

1177年、藤原成親・西光らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた。

だが、密告により陰謀は露見し、俊寛は藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流された。

「平家物語」によると、鬼界ヶ島に流された後の俊寛ら三人は望郷の日々を過ごし、
成経と康頼は千本の卒塔婆を作り海に流すことを発心するが、俊寛はこれに加わらなかった。

やがて、一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着く。

これに心を打たれた平清盛は、高倉天皇の中宮となっている娘の徳子の安産祈願の恩赦を行う。

1178年に恩赦船が鬼界ヶ島にやって来るが成経と康頼のみが赦されており、
俊寛は謀議の張本者という理由から赦されず島に一人とり残された。

俊寛は絶望して悲嘆に暮れる。
翌1179年、俊寛の侍童だった有王が鬼界ヶ島を訪れ、変わり果てた姿の俊寛と再会した。

有王から娘の手紙を受け取った俊寛は死を決意して、食を断ち自害した。

有王は鬼界ヶ島より俊寛の灰骨を京へ持ち帰った。

多田行綱
ジュサブロー館の創作日記
2009年制作

平安時代末期の武将。摂津源氏の流れを汲む多田源氏の源頼盛の長男。

清盛の西八条邸を訪れて平氏打倒の謀議を密告した。

西光
ジュサブロー館の創作日記
2009年制作

平安時代後期の官人・僧。後白河院の近臣。

阿波国の豪族麻植為光の子で、中納言藤原家成の養子。

俗名は藤原師光(ふじわら の もろみつ)。

藤原通憲(信西)乳母の子と言われる。
もとは阿波国の在庁官人であったが、藤原家成の養子、乳兄弟とされる信西の家来となり、左衛門尉に昇る。

平治の乱で信西が死ぬと出家して西光と名乗る。

のち後白河法皇に仕え、「第一の近臣」と呼ばれた。

西光は藤原成親・俊寛・多田行綱らの平氏打倒の陰謀に加わり、鹿ヶ谷の山荘での密議の首謀者となる。

1177年、比叡山との紛争の最中に多田行綱が鹿ヶ谷での陰謀を平清盛に密告。

西光は後白河法皇のもとに逃れようとするが捕縛される。

清盛は西光の顔を踏みつけ責めるが、西光は逆に平氏を罵った。

怒った清盛は西光を拷問の末、五条西朱雀で斬首させた。

平康頼
ジュサブロー館の創作日記
2009年制作

平安時代の武士。左大史・中原頼季(なかはらのよりすえ)の子。

後白河院の近習として北面に仕える。平判官入道と称された。


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撮影 Canon EOS 5D Mark II
EF100mm F2.8 マクロ USM