皆様こんばんわ、ただいま群馬県の
日本絹の里にて「辻村寿三郎人形展 VOL.Ⅸ」が開催中です。
2月の5日から大分県の中津というところで
辻村寿三郎の人形展を開催します、
会場は中津家具という家具屋さんのショールームです。
大分県中津市諸町1859-1
TEL 0979-22-2585
結構広いので作品点数も多く70点以上の展示となります。
2月の5日から大分県の中津というところで
辻村寿三郎の人形展を開催します、
会場は中津家具という家具屋さんのショールームです。
大分県中津市諸町1859-1
TEL 0979-22-2585
結構広いので作品点数も多く70点以上の展示となります。
本日は昨日に引き続き展示作品の中から「保元の乱」に関わる人物を紹介致します。
藤原璋子
2008年制作
撮影 Canon EOS 5D Mark II
EF24-105mm F4L IS USM
藤原通憲(信西)と藤原頼長
2008年制作
撮影 Canon EOS 5D Mark II
EF24-105mm F4L IS USM
写真をクリックすると大きいサイズで見ることが出来ます。
細かいディテールをご覧ください。
藤原璋子
第74代鳥羽天皇の中宮、第75代崇徳・第77代後白河両天皇の母。
藤原璋子
第74代鳥羽天皇の中宮、第75代崇徳・第77代後白河両天皇の母。
保元の乱を詳しく調べると、数々の皮肉が折り重なっていることがわかる。
白河上皇が院政を敷き、政治の実権を握っていた時代、
鳥羽法皇の中宮で、兄の崇徳上皇、弟の後白河天皇のふたりの母であり
白河上皇の後ろ盾を持つ藤原璋子が一番の権勢を誇っていた。
しかし兄の崇徳上皇は実は璋子と白河上皇の子であるとされ
鳥羽法皇は崇徳天皇のことを「叔父子」と呼び、
弟の雅仁(後白河)ばかりをかわいがったといわれる。
保元の乱の直前、鳥羽法皇は鳥羽殿安楽寿院にて息をひきとるが、
父の危篤を聞いて駆けつけた崇徳上皇は面会できずに門前払いされた。
崇徳上皇は弟である後白河天皇との間柄もうまくいかなくなってゆく。
藤原得子
白河上皇の後ろ盾を持つ藤原璋子が一番の権勢を誇っていた。
しかし兄の崇徳上皇は実は璋子と白河上皇の子であるとされ
鳥羽法皇は崇徳天皇のことを「叔父子」と呼び、
弟の雅仁(後白河)ばかりをかわいがったといわれる。
保元の乱の直前、鳥羽法皇は鳥羽殿安楽寿院にて息をひきとるが、
父の危篤を聞いて駆けつけた崇徳上皇は面会できずに門前払いされた。
崇徳上皇は弟である後白河天皇との間柄もうまくいかなくなってゆく。
藤原得子
2008年制作
撮影 Canon EOS 5D Mark II
EF24-105mm F4L IS USM
EF24-105mm F4L IS USM
しかし1129年に白河法皇が崩御すると、同じ鳥羽上皇の皇后であり、
近衛天皇の母である藤原得子が美福門院の院号を宣下され、次第に台頭するようになる。
鳥羽上皇は白河の子である崇徳に無理矢理譲位を迫り、僅か2歳で近衛天皇を即位させてしまう。
崇徳は次代の皇位継承が自身の皇子である重仁親王であることもありこのときはおとなしく引き下がった。
近衛天皇の母である藤原得子が美福門院の院号を宣下され、次第に台頭するようになる。
鳥羽上皇は白河の子である崇徳に無理矢理譲位を迫り、僅か2歳で近衛天皇を即位させてしまう。
崇徳は次代の皇位継承が自身の皇子である重仁親王であることもありこのときはおとなしく引き下がった。
しかし近衛天皇は非常に病弱で、17歳で眼の病がもとで亡くなってしまう。
皇位継承の順位からすれば、崇徳上皇の皇子である重仁親王が次の天皇に即位するはずであり、
朝廷内でもそのような流れだったが、近衛天皇の死が崇徳上皇や
皇位継承の順位からすれば、崇徳上皇の皇子である重仁親王が次の天皇に即位するはずであり、
朝廷内でもそのような流れだったが、近衛天皇の死が崇徳上皇や
藤原忠実・頼長父子の呪詛によるものとの噂が流れ、
鳥羽法皇は自分の第四皇子である雅仁親王(後白河天皇)を即位させてしまう。
これによりに崇徳と後白河の兄弟の対立が決定的となり、
1156年に保元の乱が勃発するのである。
これによりに崇徳と後白河の兄弟の対立が決定的となり、
1156年に保元の乱が勃発するのである。
藤原通憲(信西)と藤原頼長
2009年制作
撮影 Canon EOS 5D Mark II
EF24-105mm F4L IS USM
藤原摂関家の内紛も、その対立の構造は同じく兄弟の争いであった。
対立する兄の関白忠通と弟の左大臣藤原頼長の父は、前摂政の藤原忠実であり、
忠実は長子の忠通よりも、学者肌の頼長を偏愛していた。
ついには、藤原家の氏長者の資格を頼長に移してしまう。
これにより藤原摂関家は二分され、忠通は後白河に、頼長は崇徳側についた。
忠通のもとには藤原通憲(信西)が参謀として加わっていた。
信西は近衛天皇が崩御すると、幸運にも妻朝子が乳母となっていた
EF24-105mm F4L IS USM
藤原摂関家の内紛も、その対立の構造は同じく兄弟の争いであった。
対立する兄の関白忠通と弟の左大臣藤原頼長の父は、前摂政の藤原忠実であり、
忠実は長子の忠通よりも、学者肌の頼長を偏愛していた。
ついには、藤原家の氏長者の資格を頼長に移してしまう。
これにより藤原摂関家は二分され、忠通は後白河に、頼長は崇徳側についた。
忠通のもとには藤原通憲(信西)が参謀として加わっていた。
信西は近衛天皇が崩御すると、幸運にも妻朝子が乳母となっていた
雅仁親王が後白河天皇として即位し、急速に台頭するようになる、
近衛天皇の死が崇徳上皇や藤原忠実・頼長父子の呪詛によるものとの噂
を流したのは、この信西であるという説もある。
信西・頼長と後白河
近衛天皇の死が崇徳上皇や藤原忠実・頼長父子の呪詛によるものとの噂
を流したのは、この信西であるという説もある。
信西・頼長と後白河
2009年制作
撮影 Canon EOS 5D Mark II
EF24-105mm F4L IS USM
信西は保元の乱が起こると、源義朝の夜襲の献策を積極採用して
EF24-105mm F4L IS USM
信西は保元の乱が起こると、源義朝の夜襲の献策を積極採用して
崇徳上皇、左大臣藤原頼長を破り、後白河天皇方に勝利をもたらした。
崇徳上皇側の藤原頼長は源為朝に同じ策を取るように進言されるが
崇徳上皇側の藤原頼長は源為朝に同じ策を取るように進言されるが
「夜討は卑怯である」とこれを退けてしまう。
義朝と為朝の兄弟がそれぞれ対立した立場の中で
まったく同じ進言をしているのがもう一つの皮肉である。
片方はそれを採用し、もう片方は採用しなかった、
そしてそれがその勝敗の大きな分かれ目になったのである。
源為朝
義朝と為朝の兄弟がそれぞれ対立した立場の中で
まったく同じ進言をしているのがもう一つの皮肉である。
片方はそれを採用し、もう片方は採用しなかった、
そしてそれがその勝敗の大きな分かれ目になったのである。
源為朝
2008年制作
撮影 Canon EOS 5D Mark II
EF24-105mm F4L IS USM
このように保元の乱は崇徳と後白河の兄弟、
忠通と頼長の兄弟、義朝と為朝の兄弟が
それぞれ対立するという哀しい歴史があったのである。
EF24-105mm F4L IS USM
このように保元の乱は崇徳と後白河の兄弟、
忠通と頼長の兄弟、義朝と為朝の兄弟が
それぞれ対立するという哀しい歴史があったのである。
大分県の皆様、是非お出かけ下さい!
中津家具ショールームにて2月5日~3月6日まで
中津家具ショールームにて2月5日~3月6日まで