富山県農協労が行っている東日本大震災の被災地ボランティアの第6便が、9月1日~2日にかけて実施された。前回に引き続き私も参加をした。その時のよもやま話を記していきたい。



前回は準備段階から苗の手配などあれやこれやをしていたが、今回は参加の意思表示をしたのみで、準備にはほとんど加わらなかった。であるから、気楽な参加になるかと思えた。


さて、話は8月29日に遡る。この日富山県農協労では学習会が行われていた。学習会が始まる前のちょっとした時間に、篠島書記長に「学習会終了後、すぐ帰る」旨を伝えた。この日JAうおづ西部支店では、依願退職する女性(どんな女性かは「秋風・第3弾」か「東京出張」を参照されたし)の送別会が行われることになっていた。彼女は第1便の時にボランティアにも参加していて、篠島書記長も知っていたからだ。

篠島書記長が絶句した・・・その後この話をした川岸委員長も彼女を惜しんだ。

退職する際に他のJAからも惜しまれる存在が、これまでJAうおづにどれだけいただろう?


話が脱線した。この会議前に今回のボランティアの資料が渡された。ボランティア先は前回同様に南三陸町。宿泊先は今回石巻となっていた。 参加者名簿を見る。

「うわあ、今回は総勢22名か。多いなー」

なんて最初は思っていたのだが、よく見ると・・・

名簿には富山県内の東部にあるJAの所属者から順番に書いてある。1番として書いてあるのが私で、2番がJAあおばの中崎中央執行委員(以下、前回同様にザッキーと表記)だ。3番目はもうJAいみず野になっている。ということは・・・新川地区のJAからの参加は私だけ。富山県東部に広げてもザッキーと2人だ。書記局2名を除いた各JAからの参加者20名のうち、18名が県西部。しかもJAいなばなんて浅井副委員長など8名が参加している。

正直言って、ちょっと寂しく、情けなくなりました。



当日(9月1日)、一行は朝5時に富山を出発する。私は途中の魚津ICで拾ってもらうことになっていた。4時35分に家を出、魚津ICに向かった。いくら自分は5時15分ぐらいでも大丈夫だといっても、みんなが5時に動くんだから、5時前に動くのは当然でしょう。


トラックでザッキーが現れた。助手席に乗りこむ。ザッキーによると、みんなより早めに出てきたらしい。そのまま北陸自動車道を東進する。荷物が前回(第5便)よりも軽いことがあり、110km位の速度で進んだ。

米山を過ぎたあたりから快晴になってきた。どうやら暑くなりそうだ。この青空はどこまで続いているだろうか。

いろんな話をしながらザッキーと過ごした。ザッキーは最多参加者でもあるので、やはり自分のJAからの参加者が少ないことを気にしているようだった。

途中で位置確認の電話が篠島氏より入った。

「長岡JCT」

と答えると

「ザッキー飛ばしすぎ」

と返答が。この段階で篠島氏の運転するマイクロバスは米山IC付近だったそうだ。


黒埼PAで合流、朝食をとった。ここでトラックの運転が書記局の山本中央執行委員に換わった。山本氏の出身支部はJAアルプスになるので、ザッキーや私と同様県東部の人間。やはり自分の出身支部からの参加が少ないことを嘆くことになった。

会話の中で

「でも、新川地区ではまだうおづが1番協力的ですよ。第1便から女の子が来てたじゃないですか」

「彼女やめちゃったんだよね」

山本氏も彼女を惜しんだ。私は、ボランティア活動における富山県農協労内でのJAうおづの立場は、全て彼女で構築されたことであることを理解した。つくづく惜しい人が去ったものだ。


トラックは新潟中央JCTより磐越自動車道に入った。福島県に入ると曇り空になった。郡山JCTより東北自動車道に入る。山本氏とは阪神タイガースの話をしたりした。そして休憩箇所の安達太良SA着。

個人的に曇っていて安達太良山が見えないのが不満だった。


安達太良SAからは私の運転となる。だからこの時間帯はあまり記憶がない。とにかく菅生PAまで走った。


菅生PAでちょっと早い昼食。私は蕎麦を食べたのだが、今回は多くが牛タンを食べた。牛タンが出来上がるのに時間がかかり、出発が遅くなった。


再び山本氏と運転を交代する。仙台南ICより仙台南部道路、仙台東部道路、三陸自動車道と走り桃生津山ICより一般道に降りた。


(続く)