私とプロレス 中井祐樹さんの場合「第2回 愛と憎悪の果てにシューターとなったプロレス少年」 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ

 ジャスト日本です。


有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。



 

 

 今回、のゲストは、「伝説の格闘家」日本ブラジリアン柔術協会会長・中井祐樹さんです。






(画像は本人提供です) 


中井祐樹(なかいゆうき)

1970年8月18日生まれ。北海道浜益郡浜益村(現石狩市浜益区)出身。高校時代にレスリング、北海道大学在学中に高専柔道の流れを汲む七帝柔道を学び、4年時には七帝戦で団体優勝に輝く。その後同大中退後、上京し修斗に入門。93年4月にプロデビュー。94年11月、第3代ウェルター級チャンピオンとなった。95年4月、バーリ・トゥード・ジャパンオープン95に出場。決勝まで進み、ヒクソン・グレイシーに敗れるも準優勝。しかし一回戦のジェラルド・ゴルドー戦で受けたサミングで右目を失明、王座を返上した。その後しばらくは選手活動を停止していたが96年に柔術家として現役に復帰、日本におけるブラジリアン柔術の先駆者となる。98年パンアメリカン柔術選手権茶帯フェザー級優勝などアメリカ・ブラジルで実績を残す。99年7月の世界柔術選手権より黒帯に昇格し、99年10月のブラジル選手権では黒帯フェザー級で銅メダルを獲得した。97年12月、自らの理想を追求するためパラエストラ東京を開設。現在、日本ブラジリアン柔術連盟会長。著書に「中井祐樹の新バイタル柔術」(日貿出版社)や「希望の格闘技」(イースト・プレス)や「本当の強さとは何か」(増田俊也氏との共著、新潮社)、DVDは「中井祐樹メソッド 必修!柔術トレーニング」(BABジャパン)や「中井祐樹 はじめようブラジリアン柔術」(クエスト)他多数。


以下もろもろ情報です。

twitter https://twitter.com/yuki_nakai1970


instagram https://www.instagram.com/ynakai1970/?hl=ja


facebook https://m.facebook.com/profile.php?__user=100002784381086


主宰道場・パラエストラ東京の公式ホームページはこちらです。

パラエストラ東京news(日本語)

http://blog.livedoor.jp/paraestra_tokyo

クラス時間割

http://www.paraestra.com/images/class20130215.jpg

PARAESTRA TOKYO

News (English) http://blog.livedoor.jp/para_tyo_e_news/

公式サイト Official Web (日本語 Japanese)

http://www.paraestra.com




中井さんといえば、1990年代のプロ格時代を見届けてきた我々世代にとってはヒーローであり、サムライ。 

修斗ウェルター級王者として無敵の強さを誇り、バーリトゥードジャパン1995で、ジェラルド・ゴルドー、クイレグ・ピットマンという怪物格闘家相手に勝利、決勝でヒクソン・グレイシーに敗れるもゴルドー戦で右目を失明する事故がありながら見事に準優勝。プロレスファン、格闘技ファンから絶賛された彼はまさに「伝説の格闘家」。

その後、右目失明が原因で総合格闘技から引退し、柔術家として復帰を果たし、日本にブラジリアン柔術を普及させた「日本柔術の父」。

彼が創設した柔術道場パラエストラは、本部や支部も含めると青木真也選手、扇久保博正選手、斎藤裕選手、平良達郎選手など、有名格闘家を数多く輩出し、指導者としても高く評価されています。まさに「格闘技界の名伯楽」。

中井さんがいたからこそ、日本格闘技界はここまで発展したといっても過言ではありません。
 
そんな中井さんは格闘技に目覚める前は熱烈なプロレス少年でした。今回は、日本格闘技界の伝説である中井さんのプロレス話をお聞きしたいとインタビューさせていただきました。




是非ご覧ください!





私とプロレス 中井祐樹さんの場合「第2回 愛と憎悪の果てにシューターとなったプロレス少年」




 中学時代に熱中した「疑似UWF」


──私のプロレス仲間である漫画家のPEN D.A.F(ペンダフ)さんから聞いたのですが、『真夜中のハーリー&レイス』(ラジオ日本)にゲスト出演された中井さんが学生時代に友達とプロレス興行を全試合、ガチンコでやって、みんな疲弊しまくって、興行の大変さを知ったというエピソードが語ったとのことですが、これは本当ですか?

中井さん 本当です(笑)。これは中学生の頃なので、UWFの時代です。僕を含めて5人くらいで、1人余って全身の試合が組めないということがあったりするけど、色々な組み合わせを考えてシリーズをやってましたね(笑)。東京ではきっとこんなことが行われているかもしれないと、クルック・ヘッドシザースや三角絞めとか今までのプロレスでは見られなかったサブミッションに重点を置いたプロレスが「新時代のプロレス」に見えたんですよ。週刊ゴングを見て技を学んだり、そこに昔のクラシカルなプロレスやメキシコのジャベ(関節技)も勉強して、UWFとか少し違う独自路線を求めたことがありました。

──おおお!まだプロレスで行われていない境地を新たに開拓をされていったのですね。

中井さん 今はまだあまり知られていない格闘技の中からヒントを得ようとしてオリジナル技を研究したり。だから中学生の時は「疑似UWF」をやってました(笑)。


──ハハハ(笑)。「疑似UWF」ですか!

中井さん 僕はサッカー部だったので、サッカーのすね当てにウレタンを入れて、自作のレガースを作って相手に蹴ると、1~2分くらいで簡単に勝っちゃうんですよ(笑)。これを25分とか闘う東京のプロレスラーは凄いなと。でも僕らは25分の熱戦をやりたいから、極めたりするのを引き延ばしたりして、なんとか「25分50秒、変形裸絞めで中井が勝利」という感じで、プロレス熱戦譜のような感じでノートに書いたりしてました。


脳内では世界中のタイトルを獲得して最強のプロレスラーになろうと考えていた


──中井さんは実戦でやられてますけど、これを脳内で空想マッチメイクをやる人もいますからね(笑)。

中井さん ハハハ(笑)。僕は中学生の時はバスとか使わずに歩いて登校と下校をしていたので、その歩いている間に「海外のどこに遠征しようか」「どこに武者修行すればいいのか」とか脳内に描いて、世界中のタイトルを獲得して最強のプロレスラーになろうと思ってました。

──素晴らしいです!ちなみに脳内では武者修行先はどこを考えていましたか?

中井さん ヨーロッパかアメリカを考えてました。なんかヨーロッパで修行した方がレスリングがうまくなるのかなというイメージはありました。そんなことを考える時間が当時の僕にはあったんですよ。

──ものすごく有意義な時間を過ごされたんですね。プロレス脳を鍛えるのは脳内でプロレスについて考えて空想することは必要な儀式だと思います。

中井さん そうですよね。



──今の時代は、空想していたことがすぐに現実化してしまうんですよ。


中井さん はい。今は映像で全部見れちゃうので、自分の中で咀嚼する時間がないんですよ。


──咀嚼する前に、料理が出されますからね。

中井さん ハハハ(笑)。色々なことを妄想したり、考えたりする時間がたくさんあったので、田舎者でよかったのかもしれません。

──プロレス脳を学生時代に養ったからこそ、後々のプロとしての行動に活きてきたりしますよね。

中井さん そうなんですよ。僕は『ゴング』、『プロレス』、『デラックスプロレス』も全部購読していて、地元の浜益村の書店で取り寄せてました。だからプロレス発売日が待ち遠しくて、「『ゴング』が入りました」という連絡があった日にはたまらなかったですよ(笑)。プロレス雑誌は隅から隅まで読んでました。色々な世界観や言葉もプロレス雑誌から学んで、プロレス的考え方を培ったのでこれは一生、抜けきれないですね(笑)。

──プロレス雑誌で、伏魔殿や刹那という単語や四字熟語を覚えたりとか(笑)。


中井さん ハハハ(笑)。我々の教科書ですよ、プロレス雑誌は。


中井さんがプロレスラーにならなかった理由



──ありがとうございます!元々、NWA世界王者になりたかった中井さんはプロレスラーにはならず、レスリングと高専柔道で強さを磨き、最終的に総合格闘技・修斗を目指された理由についてお聞かせください。

中井さん プロレスラーになろうと思ったときになぜか僕は大好きな全日本ではなく、新日本でデビューしたいと思ったんですよ。新日本は実力主義で練習もきつそうですし、強くなるだろうなと。感覚的にプロレスラーになるなら新日本を選んだのかもしれません。

──そうだったんですね。

中井さん UWFが生まれてからはこの団体でプロレスラーになろうと思ってました。調べると新日本には入門テストの条件として身長制限(180cm以上)があったんですけど、UWFには身長制限がなかったんです。僕は身長が大きくなかったので、「これはUWFしかない」と思って、そこから自分でプロレス団体を作って、「擬似UWF」をやってました。


新日本UWFも違う、プロレスを愛した分、憎しみも深くなっていく…。



──ちなみに中井さんの人生を変えたUWFとはどのような存在でしたか?

中井さん その時点での現状のプロレスの原点回帰をすることによってリアルファイトとして世間に胸を張って語れるプロレスでした。「あくまでその時点」の話ですが、それで中学を出たらすぐUWFに入ってプロレスラーになろうと考えたんです。進路相談でもその旨を伝えたんですけど、「ちょっと待て」という話になりレスリング部のあって、先生方が納得する進学校で高校生活を送ることになったんです。


──高校に入って、将来プロレスラーになる準備の一環としてレスリング部に入ったということですね。

中井さん はい。UWFでプロレスラーになるためにはレスリングでもっと強くなろうと。UWFが出現すると、新日本や猪木さんは視界に入らなくなるのですがレスリングに挫折して、北海道大学に進学後に柔道部(寝技中心の高専柔道の流れを汲む七帝柔道)に入るんです。でも大学では学問上の迷いが出てきた時に、「総合格闘技・修斗(シューティング)がプロ化」というニュースを知ってから、修斗に入ってプロ格闘家になろうと決意しました。元々修斗が競技化したときはアマチュアでやっていくと表明していたんですけど、プロ化するということで「これで飯が食える!」と思ったんですよ。

──修斗にたどり着くまで結構、紆余曲折があるんですね。

中井さん 新日本を脱皮してUWFに憧れたものの柔道部員になると、「UWFも真剣勝負じゃないぞ。違うよな」という気持ちが強くなったんです。ガチンコのプロレスをやりたかったのかもしれない。でもそれは叶わない。ならば完全なリアルファイトである修斗に至ったということですね。今ではプロレスに対してはリスペクトの気持ちが強いのですが、プロレスを愛した分、憎しみも深くなっていきました。若気の至りかもしれませんが、プロレスを信じていた分、UWFでも違ったときの反動が凄くて、心から落胆してましたね。


プロレスと決別して、修斗でプロシューターとなる。今思うと総合格闘技が僕が思い描いたプロレスだった


──プロレスに対して愛憎がご自身に渦巻いていたわけですか。それだけ純粋にプロレスを見ていたという現れですよ。

中井さん UWFに挫折して、プロ修斗を目指してから30年以上経ちますけど、今改めて考えると総合格闘技(MMA)が僕が思い描いていたプロレスだったんだと思います。

──今のお話を聞いて感じたのですが、中井さんは見る側視点とやる側視点をスイッチされていたのかもしれませんね。プロレスを見る側だと全日本で、その想いは変わらないんですか?

中井さん 変わらないです。

──でも自分がプロレスをやる側になるなら、全日本じゃなくて新日本やUWFであり、最終的にはどちらからも気持ちが離れて、最終的に修斗でプロシューターとなったのかなと。

中井さん そこは僕という人物を読み解く鍵かもしれませんね。

──プロレスラーの成り立ちとして、ファン時代に好きだったものを追いかける人もいれば、見る側としてはこの団体を応援していたけど、実際にプロレスラーになろうと思ったのは別の団体とか、色々な形があると思いますので、そのお気持ちはよくわかりますよ。

中井さん ありがとうございます。それで大学を中退してすべてを捨てて上京して修斗に入ったのですが、プロ格闘家になってもなかなか生活はできませんでした。


修斗が手掛ける壮大な実験に参加して、色々なものをひっくり返して革命を起こしてやろうと思っていた


──新日本にはヘビー級とジュニアヘビー級、UWFに至っては階級がありませんでした。修斗は階級制なので、より体格とか関係なく自分の強さを証明することができますよね。

中井さん その通りです。でも思ったより現実は厳しかったです。組み技はやってましたけど、打撃は初体験だったので、「これは難しいな」と感じてました。




──具体的にどの部分が大変でしたか?

中井さん やっぱり打撃の筋肉と組み技の筋肉は全然違うので、総合格闘技の場合はそれを同時にやっていかないといけないわけですよ。総合格闘技はいくつかの違うスポーツが一緒になったジャンルだと思うんです。打撃と組み技では疲れ方や筋肉の使い方や作り方も違っていて、そこに独自の技術がある。総合格闘技をマスターするにはあまりにも技術が膨大すぎて身につくのかなと感じてました。

──総合格闘技(MMA)はトライアスロンに近いですよね。

中井さん そうですよね。総合格闘技は難しいなと思っていた一方で、「このスポーツは出来立てだよな。ならば先駆者になるために絶対にやり遂げないといけない」という感じで修斗に取り組んでました。上京するまでは、脳内で総合格闘技はこんな感じかなと組み立てていたのですが、やり方が全然違う。足関節技も修斗時代に学びました。

 

──総合格闘技(MMA)はトライアスロンに近いですよね。ちなみに中井さん以外に修斗に入られた方はどのような理由だったと思われますか?

中井さん 関東近辺に住んでいた人は色々な情報を得ていて、UWFだけじゃなくて、キックボクシングとかさまざまな格闘技大会を見る機会があるんですよ。僕の周りの皆さんは修斗に入門したという感じの人が多くて、今思うと割と習ったことを試合をやるという感覚だったのかなと。でも僕は違う。新日本、UWFから地続きで繋がっていて、格闘技団体・修斗が手掛ける壮大な実験に参加するために来たという気持ちが強くて、色々なものをひっくり返して、革命を起こしてやろうと思ってましたよ。


猪木さん、ゴッチさん、藤原さんから受け継がれたUWFの分家である修斗の実験で、超最先端にアップデートしたかった


──それは大胆ですね!

中井さん だからUWFが僕の人生を変えて、「違うな」と思って心の中で決別しているんですけど、修斗でやっている実験はUWFの分家だと思っていて、アントニオ猪木さん、カール・ゴッチさん、藤原喜明さんから受け継がれたものがUWFにはきっちり流れていて、僕はそれを超最先端なものにアップデートをするという革命家になりたかったのかもしれません。でもその根底にはプロレスがあって、僕の中でこうあってほしかったプロレスを修斗でやろうと思ってました。僕がやりたかったプロレスが修斗にあったということです。

──おっしゃっていることはよくわかります。ちなみに中井さんは修斗時代にプロレスはご覧になられてましたか?

中井さん テレビで放送されているものを少しは見たかもしれませんけど、修斗になってからほぼほど見れなくなりましたね。U系団体もちらちら目に入ったりしますけど、「やっぱり俺たちと考えているものとは違うな」と。あと修斗とリングス、修斗とパンクラスとかもあんまり関係がよくなかったですから。個人的にはU系団体は打破する対象でしたね。今は前田日明さん、高田延彦さん、鈴木みのるは仕事仲間です!


「新格闘プロレス」木川田潤戦について


──そこから中井さんは新格闘プロレス1994年3月11日・後楽園ホール大会に参戦して、木川田潤さんと対戦して、27秒ヒールホールドで秒殺しています。実際にプロレスのリングに上がったわけですが、この試合について語ってください。

中井さん 修斗のリングでシューターを作ったけど、やってくれる選手が少なくて、これは新格闘プロレスの選手を修斗のルールに出してくれるということで進行していった話だったと思います。当時の修斗を統括していた佐山聡先生も色々と模索されていた時期かなと。木川田さんが85kgぐらいあって、体重差があるから誰も対戦相手に名乗りでなかったので、「やりますよ」と手を挙げました。僕は体重が70kgくらいだったので、85kgまでの選手なら問題なしと考えてました。プロレスラーになりたいと思っていた僕にとっては木川田戦は大きなチャレンジだったのでワクワクしていたのを覚えています。


──以前、私は『まるスポ』さんという別団体で、新格闘プロレスに参戦していた元プロボクサーの新宿鮫(大角比呂詩)さんにインタビューさせていただいたことがあって、中井VS木川田についてお聞きしたことがあって、「修斗はプロレスを利用して恥を掻かせてやろうという感じがひしひしと伝わってきて、なんか違うなと。朝日昇なんかバックヤードで片っぱしからメンチ切りまくってましたから」と語っていたんですよ。




中井さん そうだったんですね。僕の中で木川田戦は「ここでやってやろう!」と気持ちがありましたね。


修斗創始者・佐山聡さんの新日本参戦


──あと新日本プロレス・1994年5月1日福岡ドーム大会で修斗創始者の佐山聡さんが参戦して、獣神サンダー・ライガーさんとエキシビションマッチで対戦されましたよね。佐山さんの新日本参戦についてどのように思われていましたか?

中井さん 修斗の台所事情は分かりませんけど、これは佐山先生にとって新しい営業開拓の一環で、修斗の集客や発展のためにはプロレスファンも取り込まないといけないとお考えになったのかもしれません。だからといって佐山先生がプロレスに戻るわけじゃないし、やむを得ないと思ってました。かつて佐山先生が否定したプロレスのリングにエキシビションマッチながらやっていくというのは佐山先生にしかできない営業手段ですよ。そういう意味では間違ってることではないのですが、当時は複雑に思われている先輩が多かったですよ。

──修斗の皆さんは佐山さんの新日本参戦はあまりいいように思ってなかったんじゃないですか。

中井さん そうですね。僕はドライに捉えてましたけど、先輩方はプロレスを交わることに複雑な感情を抱いていたのかなと思います。

──私個人としては、中井さんが新格闘プロレスで木川田さんと闘ってくれたのは大きくて、後に『VALE TUDO JAPAN OPEN 1995』で活躍された時に、木川田さんに勝った選手だという認識があったんです。そこはありがたくて、もし木川田さんと闘ってなければ中井さんの存在を事前に認識できなかったのかもしれません。

中井さん 今思うと、木川田戦は次の舞台に向けたいいステップになった気がします。

──ちなみに新格闘プロレスは中井さんと木川田さんが闘った1994年に崩壊しています。団体の歴史も1年しかなかったんです。そして、新格闘プロレスの末期の1994年11月に松阪市総合体育館で全試合を「有刺鉄線金網デスマッチ」で行う特別興行を開催しているんです。

中井さん えええ!!そうなんですか!それは知らなかったですけど新格闘プロレス、凄いですね!

中井さんの人生を変えてしまった伝説のVTJ1995

──1995年4月20日・日本武道館で行われた『VALE TUDO JAPAN OPEN 1995』(後のVTJ)にて中井さんはトーナメントに参戦。一回戦でプロレスや格闘技団体で活躍していた「喧嘩屋」ジェラルド・ゴルドー戦で、ゴルドーの反則攻撃により中井さんは右目の視力を失いますが、見事にヒールホールドで一本勝ち。準決勝もアメリカの巨漢プロレスラー「サージャント」クレイグ・ピットマンから腕ひしぎ十字固めで勝利を収めます。そして決勝では「400戦無敗の男」ヒクソン・グレイシーと激闘を繰り広げるも、敗退。70kgの中井さんが100kgオーバーの怪物ファイターを次々と撃破していく様は日本格闘技界における伝説の大活躍として後世に語り継がれていきました。中井さんにとって人生のターニングポイントとなったこの大会について振り返っていただいてよろしいですか。


中井さん VTJに関しては、1994年に第1回が開催されて日本人はトーナメント一回戦で全滅して、「次やるなら中井しかいないだろう」という空気になっていました。僕自身もそのつもりだったし、修斗内でも同様でした。満を持してトーナメントに出て、ヒクソンには決勝戦で敗れて、あと右目の視力を失い、総合格闘技ができなくなりました。あらゆることがあの日を境に変わっていきました。

──トーナメント1回戦のジェラルド・ゴルドー(オランダ/196cm 98kg/空手・サバット)でした。この試合でゴルドーがレフェリーの制止を無視して中井さんに故意のサミングを仕掛けたことによって、中井さんは右目を失明することになりました。この件につて覚えていることがあって、VTJの三年後の『格闘技通信』の中井さんのインタビューで初めて「ゴルドー戦で右目を失明しました」という衝撃のカミングアウトをされました。その中でゴルドーの行為を「こんなことは格闘技の試合では起こらない。あくまでもハプニングで、例えるとテニスの試合でピストルで打ち込まれるほど、本来の格闘技の試合ではあり得ないことです」と語っていたのが印象的でした。

中井さん 当時はマスコミを含めてバーリ・トゥードに対して反対論が根強くて、「こんな野蛮なことを見せられない」という論調でした。右目を失明した直後に事実を発表することは「団体や総合格闘技のためによくないので伏せてほしい」ということだったので、沈黙することにしました。でも周りやマスコミから「次の試合はいつですか?」と聞かれると、うまく誤魔化してかわしてました。総合格闘技ができないかわりに柔術の試合をリングでさせてもらいましたけど、その事情や理由は言えなくて、「色々なことにチャレンジします」とよく答えてました。

──私は70kgという階級で中井さんが最強の格闘家になる世界線が見たかったんですけど、その一方でVTJで刹那のごとく光輝いたから、もう総合格闘技では闘えなかったからこそ、中井さんの名前は伝説になったのかなという複雑な気持ちがありますよ。


中井さん 当時は総合格闘技で中量級ファイターがスーパースターになることなんて考えられなかった時代です。僕らの後の世代は中量級や軽量級でも総合格闘技の日本人スター選手が次々と登場しました。佐藤ルミナ、宇野薫、桜井”マッハ”速人、五味隆典、須藤元気、山本”KID”徳郁、川尻達也、青木真也、北岡悟…。無理やり階級を変えなくても、自分の体格に合った階級のまま世に出ることができる道標に僕はなれたと思っています。だから無茶をしてトーナメントでヘビー級の選手と対戦したことも意義がありましたね。


ジェラルド・ゴルドーへの想い


──それは間違いないですよ。では今の中井さんが感じているジェラルド・ゴルドーへの思いを率直にお聞かせください。

中井さん 僕にとってはプロレスラーでした。プロレスもやっていた、という意味においても。猪木さん、その前は前田さんとの試合やリングスで猛威を振るっていて。彼らプロレスラーとの比較からも負けるわけにはいかなかったですね。ゴルドーさん御本人はフランクで至って良い人なんだと思います。場内のムードも考えて僕をいたぶったのでしょう。


トーナメント一回戦でプリンス・トンガVS中井祐樹が組まれる予定だった!?


──ありがとうございます。トーナメント準決勝のクレイグ・ピットマン(アメリカ/183cm120kg/WCWプロレス・レスリング)戦では約50kgの体重差を克服して腕十字で一本勝ちをされました。ちなみに聞いた話では元々、WCW代表はピットマンじゃなかったそうですが、本当ですか?

中井さん 本当です。確かプリンス・トンガ(キング・ハク/WCWではミング)が参戦する予定でした。トーナメント一回戦でトンガと闘うかもしれないと言われました。トンガが実はガチンコが強いということで、選出されたようです。全日本大好き人間からすると、「チャンピオン・カーニバルに出ていたプリンス・トンガと闘える!」と血が騒ぎました(笑)。恐らくトンガが出れなくなって、代わりのガチ要因がピットマンだったということでしょうね。

──そうだったんですね。プリンス・トンガVS中井祐樹はファンタジー溢れるカードですよ!

中井さん ハハハ(笑)。ピットマンはレスリング世界大会にも出て、アレクサンダー・カレリンと対戦している実力者でしたから。セコンドにブラッド・レイガンズがついていたので、全日本ファンの僕はまた燃えました(笑)。

──全日本好きからするとレイガンズ先生がいるのは燃えますね!

中井さん その通りです!相手が巨漢だったので、焦らずにじっくりやって、持久戦に持ち込んで、相手がバテたら最後に極めれたらいいなと思ってました。これは試合時間は2時間はかかるなと。何時間闘っていいから、終電になってもやるつもりでした(笑)。

──ハハハ(笑)。最高です!

中井さん 夜遅くなって会場の電気が落ちても闘っていたら、一般紙にニュースとして掲載されるじゃないですか。僕は全日本で散々、60分時間切れドローの試合を見てきているので、長時間は上等です。全日本は60分闘うのが基本ですから(笑)。


「スタン・ハンセンは結構ガチンコに強い」幻の不沈艦VTJ参戦計画!?


──素晴らしいです!それにしても、中井さんがプリンス・トンガと対戦していたら、人生がまた違ったかもしれませんね。彼はストリートファイトでプロレス界最強という都市伝説もありましたから。

中井さん そうですよ。このVTJで佐山先生が「スタン・ハンセンは結構ガチンコが強い」と言っていて、会議でVTJトーナメントにハンセンを呼ぼうという話がありましたよ。さすがに来ないと思いますけど(笑)。


──えええ!それは無茶苦茶な話ですね(笑)。


中井さん だから僕はハンセンと闘うのかなと思い描いていた時期がありましたよ(笑)。トンガとかハンセンとはどうやって闘ったのかなぁ…。

──中井さんはゴルドー戦でヒールホールドで、ピットマン戦で腕十字でタップアウトを奪ってますけど、トンガとハンセンはギブアップしなさそうですよ。

中井さん かなり戦略は難航したでしょうね。二人とも腕っぷしだけじゃなくて、スタミナがありそうですから。でもトンガとハンセンと対戦したかったなぁ~。ちなみにピットマンはVTJで僕と、レスリングでカレリンと、WCWではリック・フレアーやスティングと対戦しているので、かなりレアキャラですよ(笑)。

──その頃のWCWにはハルク・ホーガン、ランディ・サベージもいて、ベイダーやアーン・アンダーソン、スティーブ・オースチンもいて、新日本と業務提携している一方で、UWFインターナショナルとも繋がっていたんですよね。

中井さん なんかWCWをもっと知りたくなりましたよ(笑)。


──いい素材や大物レスラーがいるんですけど、あまり活かしきれていない感が最高に面白いんですよ、WCWは(笑)。

中井さん ハハハ(笑)。

──『WCWワールドワイド』という番組のテレビ収録はフロリダ州オーランドにあるユニバーサルスタジオでやっていて、なにをやっても意味不明に盛り上がる観客がいて、もしピットマンに勝った中井さんがまだ総合の現役ファイターだったら、「クレイグ・ピットマンに勝った日本のサムライ」としてWCWに上がっていたかもしれませんよ(笑)。

中井さん ハハハ(笑)。マジか!!それはワクワクしますよ!


──ありがとうございます。ではトーナメント決勝で対戦したのが「400戦無敗の男」ヒクソン・グレイシー(ブラジル/178cm 84kg/グレイシー柔術)。奇跡の決勝進出を果たした中井さんでしたが、ヒクソンのチョークスリーパーで惜敗しました。ここでVTJについて振り返っていただく締めとしてヒクソンへの想いを語ってください。

中井さん  ヒクソンさんこそあの日、15㎏軽い僕には絶対に負けるわけにはいかなかったでしょうね。あの日以来ずっと一貫して僕に対して紳士的に接してくれています。それが嬉しくて…。ヒクソンさんと闘えて良かったです。

(第2回終了)