私とプロレス 中井祐樹さんの場合「第1回 僕はずっと馬場・鶴田派です」 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 

 今回、のゲストは、「伝説の格闘家」日本ブラジリアン柔術協会会長・中井祐樹さんです。






(画像は本人提供です) 


中井祐樹(なかいゆうき)

1970年8月18日生まれ。北海道浜益郡浜益村(現石狩市浜益区)出身。高校時代にレスリング、北海道大学在学中に高専柔道の流れを汲む七帝柔道を学び、4年時には七帝戦で団体優勝に輝く。その後同大中退後、上京し修斗に入門。93年4月にプロデビュー。94年11月、第3代ウェルター級チャンピオンとなった。95年4月、バーリ・トゥード・ジャパンオープン95に出場。決勝まで進み、ヒクソン・グレイシーに敗れるも準優勝。しかし一回戦のジェラルド・ゴルドー戦で受けたサミングで右目を失明、王座を返上した。その後しばらくは選手活動を停止していたが96年に柔術家として現役に復帰、日本におけるブラジリアン柔術の先駆者となる。98年パンアメリカン柔術選手権茶帯フェザー級優勝などアメリカ・ブラジルで実績を残す。99年7月の世界柔術選手権より黒帯に昇格し、99年10月のブラジル選手権では黒帯フェザー級で銅メダルを獲得した。97年12月、自らの理想を追求するためパラエストラ東京を開設。現在、日本ブラジリアン柔術連盟会長。著書に「中井祐樹の新バイタル柔術」(日貿出版社)や「希望の格闘技」(イースト・プレス)や「本当の強さとは何か」(増田俊也氏との共著、新潮社)、DVDは「中井祐樹メソッド 必修!柔術トレーニング」(BABジャパン)や「中井祐樹 はじめようブラジリアン柔術」(クエスト)他多数。


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公式サイト Official Web (日本語 Japanese)

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中井さんといえば、1990年代のプロ格時代を見届けてきた我々世代にとってはヒーローであり、サムライ。 

修斗ウェルター級王者として無敵の強さを誇り、バーリトゥードジャパン1995で、ジェラルド・ゴルドー、クイレグ・ピットマンという怪物格闘家相手に勝利、決勝でヒクソン・グレイシーに敗れるもゴルドー戦で右目を失明する事故がありながら見事に準優勝。プロレスファン、格闘技ファンから絶賛された彼はまさに「伝説の格闘家」。

その後、右目失明が原因で総合格闘技から引退し、柔術家として復帰を果たし、日本にブラジリアン柔術を普及させた「日本柔術の父」。

彼が創設した柔術道場パラエストラは、本部や支部も含めると青木真也選手、扇久保博正選手、斎藤裕選手、平良達郎選手など、有名格闘家を数多く輩出し、指導者としても高く評価されています。まさに「格闘技界の名伯楽」。

中井さんがいたからこそ、日本格闘技界はここまで発展したといっても過言ではありません。
 
そんな中井さんは格闘技に目覚める前は熱烈なプロレス少年でした。今回は、日本格闘技界の伝説である中井さんのプロレス話をお聞きしたいとインタビューさせていただきました。



是非ご覧ください!


私とプロレス 中井祐樹さんの場合「第1回 僕はずっと馬場・鶴田派です」


 中井さんがプロレスを好きになったきっかけとは?

 
──中井さん、このような企画にご協力いただきありがとうございます! 今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。

中井さん よろしくお願いします!

──まずは中井さんがプロレスを好きになったきっかけを教えてください。
 
中井さん 僕のじいちゃんとばあちゃんがプロレスやボクシングをよく見ていて、部屋にいって見たりとか、兄貴もプロレスが大好きでした。一番古い記憶としては、1976年6月26日新日本・日本武道館大会のアントニオ猪木VSモハメド・アリの『格闘技世界一決定戦』で、二人が入場するシーンはかすかに覚えています。

──世紀の一戦じゃないですか。

中井さん 僕は1970年生まれなので当時6歳で、猪木VSアリの試合内容は全然覚えていないんですけど、完全に覚えているのは1977年12月15日全日本・蔵前国技館大会の『世界オープンタッグ選手権大会』ザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク)VSアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークです。

──こちらもプロレス史に残る名勝負ですね。

中井さん そうですよね。この試合をクリスマスケーキを食べていて、ケーキを食べるフォークでブッチャーがテリーを刺していたというのは鮮明に覚えています(笑)。

──それは凄惨なクリスマスですね(笑)。ちなみに試合はいかがでしたか?

中井さん 実は最近、G+でブッチャー&シークVSファンクスの試合映像を見直したんですけど、記憶とかなり展開が違ってました。でも、今見ても衝撃ですよ。僕は仮面ライダーやウルトラマンで育った世代で、彼らがヒーローでした。1977年に小学校に入学すると、仮面ライダーとウルトラマンがパッと終わっちゃうんです。二大ヒーローシリーズが終わって、次に始めるのが1979年のアニメ版ウルトラマンやスカイライダーで、そのころになると特撮じゃなくて実物のヒーローに憧れるようになって、それがジャイアント馬場さんとジャンボ鶴田さんなんです。

──そうだったんですね。

中井さん だから趣向もバーチャルからリアリティーに変わったのかなと自己分析してます。これまで歩んできた人生からすると考えられないかもしれませんが、僕はずっと馬場・鶴田派で、全日本プロレスが好きなんですよ。申し訳ないですけど、新日本は苦手でした。これは実家の北海道浜益村(現・北海道石狩市)では電波の関係上、札幌テレビ(日本テレビ系)はよく映るんですよ。でも北海道文化放送(フジテレビ系)と北海道テレビ(テレビ朝日系)の映りが悪くてザラザラしていて見づらい(笑)。だからそういった事情で二局の番組はあまり見たくないんです。


カラフルで鮮明な全日本の方が好きでした


──そういった当時の電波状況もあったのですね。

中井さん 新日本を見るとみんな黒タイツの選手ばかりで、対する全日本はカラフルなコスチューム姿の選手が多いですよね。僕はカラフルで鮮明な全日本の方が好きになっていきました。

──全日本では黒タイツの選手は少なかったですよね。

中井さん その通りです。あとこれも僕の好みの話で申し訳ないのですが、アントニオ猪木さんが得意じゃなくて。「なぜ猪木さんが苦手なのか?」という理由がなかなか説明できないんですよ。猪木さんがそういう人じゃないかもしれませんけど、「俺、強いだろう」という印象があって、強さを追及していたり、シリアス100%な感じが当時はあまり好きじゃなかったかもしれません。

──なるほど。1970年代~1980年代で全日本にハマっていく人はそのような理由が多いですね。猪木さんが嫌になって、全日本ファンになっていくケースはあります。学生時代の三沢光晴さんは新日本について「新日本はなんか作り過ぎているという感じがしてね。俺が一番、うちが一番、とか言うやつって嫌なんですよ」と語ってましたよ。

中井さん まさしくそれですよ!! 僕には馬場さんと鶴田さんが柔らかな雰囲気があって、穏和でいい人に見えたんです。だから馬場・鶴田派で全日本ファンだったんですけど、人生の進路は強さを追い求める新日本方面だった(笑)。

──ハハハ(笑)。その辺は矛盾もあったりするわけですね。

中井さん やっぱり猪木さんの異種格闘技戦を持ち出さないと世間との論争には勝てないんですよ。プロレスの強さに関しては、「猪木さんは試合で柔道や空手にも勝っているぞ」と結果があるので、論争の拠り所にしてました。でも猪木さんが好きか嫌いかは別の話で、そういうアンビバレンツ(正反対な感情を同時に持つ心理状態)な気持ちがずっとありました。


──この論争で馬場さんで分かりやすく説明するのはなかなか難しいんですよね。

中井さん そうなんですよ!後に柳澤健さんの本とか読むと、「馬場・鶴田は決定的に人気がなかった」「全日本は人気なかった」と書いていて、「そうだったかな?」と疑問でした。僕が馬場さんと鶴田さんが好き過ぎるから、全日本が人気がないという感覚がないんですよ。確かにファンクスやマスカラス・ブラザーズを応援している人は多くて、馬場さんと鶴田さんを応援していた人は周りに少なかった気がしますけど、でも僕は馬場さんと鶴田さんが好きだから、それでいいんです。だから疎外感とかないですね。だって馬場さんと鶴田さんが1978年の『世界最強タッグ決定リーグ戦』の最終戦でファンクスと45分時間切れ引き分けで優勝した時も、勝ったわけじゃないのでめっちゃカッコ悪いかもしれない。でも僕はそれでよかった。馬場&鶴田VSファンクスの45分が楽しめたんですよ。馬場さんがテリーにコブラツイストをしながら、ずっと肘や拳でグリグリ脇腹に当てるシーンがすぐく長くて、あれに興奮してました(笑)。


──素晴らしいですね!

中井さん 馬場さんと鶴田さんで展開するすべてのプロレスが好きだったんです。ただ理由はシンプルに馬場さんと鶴田さん、全日本が僕の好みにマッチしたのかなと思います。


初めてのプロレス観戦


──では初めてプロレスを試合会場で観戦したのはいつ頃ですか?

中井さん 1981年7月11日・全日本『サマーアクションシリーズ』北海道江別市民体育館大会です。このシリーズが新日本にいた悪役レスラーのタイガー・ジェット・シンが開幕戦のメインに乱入し急遽数日だけシリーズに参戦して江別大会は参加しなかったんです。しかもシリーズ途中でディック・スレーターが帰国してしまうんですよ。(スレーターは1981年2月に交通事故に遭い、平衡感覚を失う後遺症が出た為、7月22日から欠場し治療の為24日に帰国している)

──「全日本次代の外国人エース候補」スレーターの運命を変えた交通事故でしたね。

中井さん 最終戦(7月30日・後楽園ホール)でスレーターとインタータッグに挑戦する予定だったビル・ロビンソンは、自身のパートナーに天龍源一郎さんを指名してタイトルに挑戦したんですよ。

──ありましたね!

中井さん 天龍さんのブレイクにきっかけになったシリーズの途中で開催されたのが江別大会で、キラー・トーア・カマタ&グレート・マーシャルボーグというコンビも参加してましたね。その大会のメインが鶴田&天龍VSロビンソン&スレーターなんです。結構いいカードでした。プロレス初観戦でロビンソンの試合を見ているし、後にロビンソン本人にお会いした時に「会場でロビンソンの試合を見たことがありますよ」と話したことがありますよ。本当は札幌中島体育センター大会に行きたかったんですけど、日程が合わなくて、江別大会が初観戦になりました。

──実際に会場でプロレスを観戦された感想はいかがでしたか?

中井さん 意外とリングが小さいなと思いました。あと選手が試合前に体育館のフロアにある座るところでくつろいでいて、トランプとかやっていたのは覚えています。意外とリラックスしてましたね。


「世界の巨人」ジャイアント馬場さんの凄さと魅力


──全日本らしい話です。新日本の選手は試合前に練習とかアップする方が多いんですけど(笑)。ではここで中井さんの好きなプロレスラーであるジャイアント馬場さんの凄さと魅力についてお聞かせください。

中井さん 馬場さん、そして全日本は世界と繋がっている感があったんです。NWAと繋がっていて馬場さんはNWA世界ヘビー王座を三回獲得していて、しかも一時期はNWA第一副会長という要職にもついていました。今は総合格闘技だとUFCという世界最高峰の舞台がありますけど、世界に繋がっていて、そこを追いかける世界観というのが僕の中にはあって。馬場さんのリング上での実力とリング外の政治力とかも含めて、プロレスの王道を歩んでいる感じが好きでしたし、それが馬場さんの凄さと魅力だと思います。

──同感です。

中井さん 選手として馬場さんが凄かったのは世界三大タイトル(NWA、WWWF、WWA)に挑戦したアメリカ時代だったことは後から知りましたが、世界と繋がっていて堂々としている馬場さんがとにかく好きでした。だから全日本には多くの外国人レスラーが来日して豪華なシリーズになるじゃないですか。後年、PRIDEやDREAMで世界のファイターが大挙参戦していたゴージャス感はあの頃の全日本らしくて好きでしたね。

──馬場さんの試合は見ていてどのように感じましたか?

中井さん 今思うと馬場さんが全盛期を過ぎていたのですが、スタン・ハンセンが全日本に移籍して、馬場さんとPWF戦を闘ったときは「馬場復活」と言われて動きも早くなったり、健在ぶりは出てましたね。『チャンピオン・カーニバル』を何度も制したとか実績が凄いんですけど、動きがスローとか色々と言っている人は当時からいました。でも馬場さんにはランニング・ネックブリーカードロップという『水戸黄門』の印籠のようなはっきりした決め技があったのがデカかったですよね。


物心がついたときから馬場さんと鶴田さんが好きでした


──その通りですね。

中井さん あと今の言い方をすると、馬場さんはプロレスがうまかったと思います。鶴田さんが何度も馬場さんと対戦しても一度も勝てないから、「やっぱり馬場さんは強いんだな」と感じてました。とにかく馬場さんと鶴田さんが好きでした。それがすべてですよ。


──馬場さんと鶴田さんへの愛はものすごく伝わります!

中井さん 僕は馬場さんと鶴田さんを最強の格闘家と思っていたことはなくて、「鶴田最強説」が流れていた時は、UWFに傾倒して、リアリズムを追及してました。でも鶴田さんは別格で、好きという概念も越えた人でした。理由がないけどしょうがないんですよ、物心がついた時から馬場さんと鶴田さんが好きだから。


「若大将」ジャンボ鶴田さんの凄さと魅力


──ありがとうございます。では改めてになりますが、中井さんの好きなプロレスラーであるジャンボ鶴田さんの凄さと魅力について語っていただいてもよろしいですか。

中井さん 僕が特に好きだったのは、一部から「人気がなかった」と言われていた頃の鶴田さんです。絶対エースや怪物じゃなくて、青と赤の☆が入ったタイツを履いていて、「善戦マン」だった頃の鶴田さんが好きでした。ある種の爽やかさがあって、元祖アイドルレスラーだったのかなと思います。コンサートとかやったりとか(笑)。


──ありましたね!

中井さん コンサートで意外な一面を覗かせて、ストイックなところを見せなくて、飄々な感じがして奥ゆかしい。鶴田さんの佇まいが大好きでした。あと母親も鶴田さんが好きで、親子で応援してました。本当は鶴田さんにNWA世界王者になってほしかったですよ。何度も挑戦してもNWAの壁が高くて取れなかった。それが総合格闘技で日本人ファイターがUFCに挑んでいく図式に似ていて。「鶴田さんにNWA世界王者を取ってほしい」と「自分の生徒がUFC世界王者になってほしい」は僕の中ではほぼ同じ感覚なんですよ。

──そうだったんですね。

中井さん これは自虐的な言い方になりますが、プロレスを結局、格闘技として見ていたんです。結果が大事で、鶴田さんのNWA世界王座に挑戦して、反則勝ちでタイトルが取れないとかマジで悔しかった。あくまでもプロレスから格闘技に舞台が移動しただけで、日本人選手が世界を取ってほしいという想いはずっと変わらないんです。


僕はNWA世界王者になりたかった


──形とか表面が変わっているだけで、世界への想いはずっと中井さんの中で続いているんですね。

中井さん そうですね。鶴田さんにはNWA世界王座を取ってほしかったし、僕もNWA世界王者を取りたかったですよ。どうすれば取れるのかも子供の時は考えてました。


──「NWA世界王者の登竜門」と呼ばれているミズーリ州ヘビー王座を取るとかですか?

中井さん ハハハ(笑)。


──ちなみに1984年2月23日全日本・蔵前国技館大会で鶴田さんがニック・ボックウィンクルを破り、日本人初のAWA世界ヘビー級王者となります。この試合はご覧になられましたか?

中井さん はい。久しぶりにゴールデンタイムで特番がやっていて、それをリアルタイムで見ました。鶴田VSニックは好きな試合ですよ。でも鶴田さんがニックに勝ったので、違う世界に行ってしまったという想いがありました。鶴田さんはAWA王者になると海外で防衛戦ツアーに旅立つじゃないですか。あれは結構、理想図のひとつです。世界を取って嬉しんですけど、その一方で遠くに行っちゃった感もあって、ニックにもっと守ってほしかった気もしたんです。


──当時、ニックは3度目のAWA世界王者で、1年4か月王座を守ってました。いわば名王者ですね。

中井さん やっぱりニックは凄くて風格がありました。僕にとって世界王座を何度も獲得したハーリー・レイスとニックの試合を見て育ったので、あの渋さがたまらなかったんですよ。

──ちなみに鶴田さんはリック・マーテルに敗れてAWA世界王座から転落します。そこから鶴田さんは長州力さんや天龍源一郎さんとの対決で、「鶴田最強説」や「鶴田は怪物である」といった評価をされていくじゃないですか。その頃の鶴田さんはどのようにご覧になってましたか?

中井さん その頃になると僕が真剣にプロレスを見ていた時代じゃなくて、1984年にUWFが誕生してからは既存のプロレスとは決別していました。だから鶴田さんや全日本とは距離を置いてました。だけど鶴田さんが全日本の絶対エースになっていくのはめちゃくちゃ嬉しかったです。勝手に全日本や鶴田ファンのOBになっていましたけど、「やっとみんなは鶴田さんの凄さに気がついたか」と思いました。


──鶴田さんは天龍さんとの鶴龍対決や超世代軍との抗争で無類なき強さや怪物性がクローズアップされていきますよね。

中井さん そうですよね。UWF好きになって、格闘技に気持ちが移行していたのですが、やっぱり鶴田さんが評価されるのは嬉しいです。

──そういえば大物相手に健闘するも最後は敗れる「善戦マン」というワードも鶴田さんあたりから生まれたような気がします。

中井さん 確かに!「善戦マン」時代の鶴田さんは歯がゆかったんですけど、応援してましたし、好き以外の何物でもなかったです。 


「野性の虎」キム・ドクさんの凄さと魅力


──ありがとうございます。では次に中井さんの好きなプロレスラーであるキム・ドクさんの凄さと魅力について教えていただいてもよろしいですか。

中井さん 鶴田さん絡みになるんですけど、ドクさんはスープレックス合戦ができて、キウイロールという隠し技もあって、大木金太郎さんのコンビも絶妙だったんですよ。デカくて風格もあって絵になるプロレスラーだったと思います。でも後にタイガー戸口に改名して日本陣営に入ったのは残念でした。僕は鶴田さんとドクさんのライバルストーリーが好きでしたから。


──日本陣営に組み込まれると鶴田さんとドクさんが対戦する機会が減りますよね。

中井さん それなんです。1978年9月13日・全日本愛知県体育館(現・ドルフィンズアリーナ)大会で60分時間切れ、さらに延長5分を闘って65分ドローで終わったUNヘビー級戦があって、後にRIZINドルフィンズアリーナ大会で中継の解説を務めた時に、関係者に「この会場で鶴田VSドクが引き分けの名勝負を展開したんですよ」というと、ちょっとひいてましたね(笑)。

──そりゃそうですよ(笑)。愛知県体育館と聞いて、鶴田VSドクが浮かぶのはなかなかのプロレス通ですから。

中井さん ハハハ(笑)。

──ドクさんは鶴田さんとのライバルストーリーが一区切りすると、新日本に移籍してさまざまな団体を転々とされますけど対戦相手に恵まれてなかった印象がありますよね。

中井さん 同感です。新日本ではキラー・カーンさんとタッグチームを組んだのはよかったですけど、あまりいい素材を活かしきれなかったのはただただ残念ですよ。猪木さんや藤波辰巳(現・辰爾)さんに負けたりとか。「さすがに藤波さんには勝ってよ」とは思いましたよ。

──もしドクさんが全日本に残留していたらまた違った風景が見れたかもしれませんね。

中井さん そうかもしれないです。『Gスピリッツ』を読むと色々な事情があったようなのでやむを得ないかなと。とにかく鶴田VSドクは日本人同士による至高の名勝負でした。

──鶴田さんにとって体力、技術、頭脳といったあらゆる側面で競い合えた、刺激を受けた相手がドクさんだったのかもしれませんね。

中井さん はい。デカい日本人同士がシングルマッチをやって60分フルタイムとかあまり聞かないじゃないですか。鶴田VSドクは見ていて退屈しなくて、飽きないんですよ。確か1979年1月29日全日本・大阪府立体育会館大会では馬場さんとブルーザー・ブロディのシングル戦を刺しおいてメインイベントを取っていて、こちらも60分フルタイムドローだったんです。馬場さんも鶴田VSドクを買っていたのかなと。

──スーパーヘビー級の選手同士が互いの体力と技術、闘志をぶつけ合う試合は馬場さんにとっての理想のプロレスなので、鶴田VSドクは馬場さん好みの試合だと思います。

中井さん 僕もそう思います。長州さん、天龍さん、みささんもいいんですけど、やっぱり鶴田さんのライバルといえば、デカさでも負けないドクさんなんですよ。だから鶴田VSドクは全日本を愛していた僕にとって一番熱くなって見てました。

──今の話の延長戦になるんですけど、鶴田さんにとって一番のライバルはブロディだと思っていて、鶴田VSブロディは知力・体力・技術力・心理戦も絡めた巨漢同士のチェスプロレスだったんです。鶴田さんにとってその礎やバックボーンになったのはドクさんとのライバルストーリーだったと思うんです。そしてドクさんも鶴田さんが生涯唯一のライバルだったのかなと。

中井さん 同感です。ドクさんは日本プロレス出身なので、試合の作り方とか相手をリードできる存在なんですよ。藤波さんもそうですけど、日本プロレス出身者の味わいというのがあって、プロレス巧者の方が多い印象があります。誰とやっても手が合ったり、合わせられるし。

──もしかしたら鶴田さんはドクさんのインサイドワークとかを試合を重ねながら吸収していったのかもしれませんね。鶴田さんは全日本の絶対エースになっていくと、試合に懐の深さとか出すようになったので、ドクさんとの対戦は鶴田さんのキャリアにとって大きかったですよね。

中井さん そうだと思います。


1980年前半までの全日本プロレスの凄さと魅力


──続きまして、中井さんの好きなプロレス団体・1980年前半までの全日本プロレスの凄さと魅力についてお聞かせください。

中井さん 猪木さんの異種格闘技戦がピリオドを打って、UWFが出てくるまでの4年間くらいですか。1980年前半の全日本がとにかく好きでした。猪木さんのストロングスタイルや異種格闘技戦からUWFまでの流れは僕の中では繋がっているような気がして、UWFが出現した時は僕の人生を決定づけたんです。でも「プロレスの本流はこうあってほしい」という想いを抱きながら全日本を見てました。世間との論争にはノータッチで、異種格闘技戦路線にも走らないで、プロレスがプロレスとして成り立つ空間が全日本にはありました。

──確かにそうですね!

中井さん もちろん今でも格闘技は偏見で見られている社会ですよ。これは仕方がなくて、やってない人にはなかなか分からない部分もあると思います。でも格闘技はどこかアウトローのスポーツと見られていて、それは大事なんですけど、格闘技が格闘技として成立する世界観が必要で、ファンの皆さんにも安心して楽しんで見てもらえる環境を整備しないといけない。それは1980年前半までの全日本が僕の理想形なんです。僕にはそう見えました。

──なかなか深い話ですね。

中井さん 全日本にはNWAとガッチリと組んでいて、ここで実績を残せばNWA世界王座に届くかもしれないという世界観があって、豪華な外国人レスラーが毎シリーズ来日してきて、日本人や全日本発の外国人スターが対抗する図式が好きでした。

──全日本といえば創設当初からNWAと強固な関係を築いていましたよね。

中井さん あと天龍さんが1980年前半になると「全日本第三の男」としてクローズアップされていくじゃないですか。確か昔はあまり人気がなかったんですよ。ロッキー羽田さんの方がプロレスでの番付が上でした。だから平手の天龍チョップとか、正面飛びドロップキックをやっていた頃から天龍さんの試合は見ていて、足掻いていた頃の天龍さんが好きでした。不器用だけど一生懸命にプロレスをやっている天龍さんが妙に気に入っていました。


──ブレイク前の天龍さんの試合を見ている中井さんの言葉なので説得力あります。

中井さん 髭を生やしていた頃の天龍さんの試合も見ていますよ。ひとりの選手が努力を積み重ねて、人々の支持を集めながらブレイクして、トップレスラーに駆け上がっていく過程を見させていただきました。天龍さんの生き方を通じて、全日本がより好きになりましたね。


『Gスピリッツ』佐藤昭雄さんのインタビューがいつも楽しみで仕方がない


──全日本は鶴田さん以外はぽっと出の選手が少なくて、中堅レスラーだった選手がステップアップしていく過程を見れたのが印象的ですよね。あと中井さんのお話を聞くと、佐藤昭雄さんが全日本のマッチメーカーとして辣腕を振るっていた時代がお好きなのかなと感じました。

中井さん その通りです。もう『Gスピリッツ』の佐藤さんのインタビューが楽しみで仕方がないですから。超面白いですよ!全日本が体制が変わっていくときに佐藤さんが重要な役割を担うことになって、鶴田さんの時代になっていたのも佐藤さんが絡んでいたんですよね。

──しかも佐藤さんは馬場さんの一番弟子で、馬場さんのプロレス哲学を見事に分かりやすく言語化できるのが佐藤さんの凄さですよね。あと佐藤さんに育てられた多くの若手レスラーが大成したんですよ。今、新日本の現場を長年取り仕切っている外道さんは、佐藤さんの弟子である冬木弘道さんの指導を受けている方なので、佐藤さんの孫弟子なんですよ。

中井さん おおお!!そうなんですね!やっぱりいいですね、佐藤さんは!!

──佐藤さんは選手に合うように育て方を使い分けているんですよ。同じ基本動作でも三沢さんには「こう動いたらできる」と感覚で教えて、冬木さんはきちんと理論で説明するとか。素晴らしいマッチメーカーであり、名トレーナーでもあるんです。三沢さんは佐藤さんを「心の師匠」として仰いでましたから。

中井さん 凄いですね!全日本の新時代をつくった重要人物ですね。

──そして佐藤さんも日本プロレス出身ですから。

中井さん 色々と繋がっていきますよね!

(第1回終了)