期待外れのシン・ゴジラ~そして未完の大器は素浪人となった~/高野拳磁【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第168回 期待外れのシン・ゴジラ~そして未完の大器は素浪人となった~/高野拳磁(高野俊二)
 

 
「自分の団体というパンドラの箱を開けたら何もなかったよ!会社やってどうする!就職してどうする!仕事してどうする!どうする!どうする!どうする!世の中どうするばっかりだ!」
 
ある日、彼はマイクでこう叫んでいた。
 
「リングは盗まれ事務所も閉鎖、みっともなくて情けねえよ。だがよ、俺は飼い犬にはならねえ!」
 
こちらもかつて彼がリング上でマイクで叫んでいた内容だ。
 
人は彼を"野良犬"と呼んだ。
日本のインディー界で一部で圧倒的に支持を受けたいわば"場末のカリスマ"。地下社会で光っていた彼は実は日本プロレス界史上最大級の素材を持つプロレスラー。もしかしたら、道を逸れず、もっと努力をしたら時代を作り、天下を獲る"帝王"になっていたかもしれない。
 
そんな彼は長年、"未完の大器"と呼ばれていた。
だが、大器は覚醒することなくやがて彼はフェードアウトしていった。
 
男の名は高野拳磁(高野俊二)。
200cm 130kgの巨体と恵まれた身体能力とパワーとプロレスセンスで、次代を担う怪物として期待されてきた。
 
今回は"未完の大器"が歩んだ波乱のレスラー人生を追う。
 
高野拳磁は1964年2月16日福岡県北九州市に生まれた。
本名は高野俊二。
兄は新日本プロレスやSWSで活躍した"褐色の弾丸"ジョージ高野だ。

栄光なき逸材のしくじり放浪記/ジョージ高野(ザ・コブラ)【俺達のプロレスラーDX】

父は山口・岩国基地に所属していた米海軍中佐で、隊内でボクシング王者だった。
学生時代から喧嘩に明け暮れた彼は中学卒業と同時に上京し、1981年春に、兄のジョージが所属する新日本プロレスに入門する。
 
1981年12月8日に蔵前国技館大会で本名の高野俊二でプロデビューし、なんと先輩の新倉史祐を相手に1分30秒で勝利を収めた。17歳の大型新人によるデビュー戦での勝利、ビッグマッチでのデビュー戦という破格の待遇を受けた俊二は会社から大いなる期待がかけられる次代のエース候補だった。
 
一時期、「日本人初のボクシング世界ヘビー級王者」を誕生させるという協栄ジムと新日本のプロジェクトによって、プロボクシングに転向するも、紆余曲折の末、このプランは頓挫し、俊二はプロレスに戻ることになる。
 
プロレスに戻った彼はカナダ・カルガリーに武者修行に向かう。
1984年、離脱者が相次いだ新日本プロレスに"期待の新星"として帰国し、メインイベントやセミファイナルに名を連ねるようになった。
 
ハイアングルかつダイナミックなドロップキックは「人間バズーカ砲」と呼ばれ、彼の代名詞となった。今の時代で例えると、"レインメーカー"オカダ・カズチカのドロップキックに重さを強調したものが高野のドロップキックだった。
 
マシン軍団が新日本で暴れまわる中で、正規軍の鉄砲玉として立ち向かったのが赤いショートタイツの俊二だった。
だが外国人レスラー相手に、マシン軍団の前にやられ続ける役割、しかも試合内容にも波があり、師匠・アントニオ猪木がリングに飛び込んで活を入れるほどだった。ただ"キングコング"ブルーザー・ブロディは俊二の体格と身体能力を高く買っていたという。
 
1985年、俊二はスーパー・ストロング・マシンとヒロ斎藤と共に新日本を離脱し、フリーランスの選手たちのプロダクション「カルガリー・ハリケーンズ」を結成した。仕掛け人は元新日本の重役でジャパン・プロレスの大塚直樹氏だった。当時ジャパン・プロレスは全日本プロレスと業務提携をしていた。
 
ちなみに当初はマシンとヒロの二人だけで行動するつもりだったというが、ある日ヒロ斎藤の家に俊二が突然やってきたのだという。
 
「ちわーっす!」
 
こう言って現れた俊二にマシンがこう聞いた。
 
「お前、何しに来たんだよ」
 
「新日本を辞めてきました」
 
マシンとヒロは内心こう思ったという。
 
「えーっ!誘っていないよ!」
 
しかし、マシンは俊二の心情を察していた。
 
「やっぱり俺たちは一緒にカルガリーにやっていて、面倒を見てやったこともあるし、そういうのが俊二の頭にはあったんだろうね。あいつも日本に戻されて正規軍に入って、"夢が見えない"という思いがあったんじゃないかな」
 
ちなみに俊二は新日本離脱について後にこう振り返っている。
 
「せっかく上の人や会社の人に両手をつかんでもらって支えてもらったのに、自分からその手をふりほどいちゃったんです。バカだったんですね…」
 
マシン、ヒロ、俊二の共通項は三人ともカナダ・カルガリーで武者修行経験があるということだ。カルガリーで結びついた三人の男達が日本プロレス界をひっかけまわすというのがこのユニットのコンセプトだった。個人の希望やオファーに応じて、選手をさまざまな団体に派遣し、芸能活動やグッズの権利などもマメージメントしていくという人材派遣事務所だった。
 
しかし、現実は厳しかった。
 
新日離脱→全日へ即参戦、とならなかったのは、ジャイアント馬場が、離脱を仕掛けたジャパンプロレスの大塚直樹より何も聞かされておらず、新日およびテレビ朝日との契約期間が残っていた彼らの起用を渋ったことによる。 また、全日参戦までの間、当時早乙女愛が所属していた芸能事務所とマネジメント契約を結び、『タモリ倶楽部』や『冗談画報』などのテレビ番組に積極的に出演していたが、全日参戦による全日および日本テレビとの契約により、その関係は途切れる。その関係で『全日本プロレス中継』ではハリケーンズの試合が1986年3月まで中継されず、同年4月の正式参戦(正式参戦初戦は4月1日の「'86チャンピオン・カーニバル」第4戦リージョンプラザ上越大会)からとなった.
(中略)
現在の様々な団体に出場するプロレスチームの先駆者とも言える存在だが、元々団体ではなく、ユニットのため、興行を行える力もなく、また、3人共当時は若手レスラーだったため、全日内での発言力も弱く、2年間の活動の後、チームは解散し、マシンとヒロはリキプロ軍団と合流した上で新日へ復帰、俊二は全日へ入団する。
【カルガリー・ハリケーンズ/wikipedia】
 
だがこのカルガリー・ハリケーンズ時代を糧にしていたのが俊二だった。1986年にアメリカ遠征に旅立った。AWAを主戦場とし、覆面レスラーのスーパー・ニンジャを名乗り、"獄門鬼"マサ斎藤のパートナーとなる。
 
ニック・ボックウィンクル、レイ・スティーブンス、カート・ヘニング、レオン・ホワイト(ベイダー)、スコット・ホール…。
 
当時のAWAのトップレスラーとヒールとして対戦することで経験値を上げていった俊二。彼にとってアメリカでの生活は日本でトップを取るための準備期間だった。
 
「レスラー高野俊二を完成品にするための総仕上げ」
 
ちなみにNWA傘下のPNWに参戦するとNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を獲得している。これがプロレス人生初のタイトルだった。
 
「俺はレスラーになったことを誇りにしています。こんなデカい体に生んでくれた両親に深く感謝しています。今は、言葉がうまく通じない分、一日中、自分自身との対話を繰り返しています」
 
彼は大志を抱いていた。
絶対、ビッグになると…。
 
1988年2月に俊二は全日本プロレスの一員として凱旋帰国を果たす。初陣はジャイアント馬場とのタッグ戦だった。黒のフード付きのガウン姿に新たなスターの風格の片鱗が見えた。
 
ここで俊二がどんな技を使うレスラーなのかということを紹介したい。実はこの男、オールマイティなのだ。代名詞はあの"人間バズーカ砲"ドロップキック。その場飛び、ロープに振ってからの一撃、ロープに飛んでからの一撃などバリエーションも豊富。
また豪快なラリアット、ビッグブーツを多用する。
コーナーに振られた時、セカンドロープに飛び乗ってからのクロスボディー、セカンドロープやトップロープからのミサイルキックなど飛び技も得意だ。
綺麗なブリッジで投げるジャーマン・スープレックス・ホールドやフロント・スープレックス、ヘソで投げるバックドロップといった投げ技もある。
また、ミドルキックやハイキックはあの格闘王・前田日明を彷彿させるフォームで放つ。時には大車輪キックも披露したこともある。
特に彼が大事にしたのはブルーザー・ブロディ譲りの攻撃だ。
高々とジャンプして見舞うギロチンドロップ。
破壊力満点のダイビング・ダブル・ニードロップは彼のフィニッシャーだった。
 
乞う彼の技を振り返ってみても、いかに彼が才能に恵まれたプロレスラーだったのかということが分かるだろう。これらの技を2m 130kgの大男がやってのけるのだから…。
 
俊二が凱旋帰国した時の全日本プロレスは天龍源一郎による天龍革命によって活性化されていた時期。俊二は天龍に立ち向かうために二代目タイガーマスクが結成した決起軍の一員となった。
 
二代目タイガーマスク、高野俊二、仲野信市、高木功、田上明の5人によって作られた決起軍で最初に結果を出したのは俊二だった。1988年9月に仲野とのコンビで、天龍同盟に所属しているフットルース(川田利明&サムソン冬木)を破り、アジアタッグ王座を戴冠している。
 
しかし、当時全員20代の"少し早かった超世代軍"1989年に馬場からの「全然決起していない」という鶴の一声で解散した。
 
ただ馬場は俊二に期待をしていたのだろう。
鶴田や谷津嘉章のトリオでメインイベントを出場させたり、鶴田とのコンビで外国人コンビで対戦させたりしている。もしかしたら近い将来、鶴田の正パートナーに俊二を起用して、英才教育をさせようと馬場は考えていたのかもしれない。
 
だが馬場の期待を俊二は結果的に裏切ってしまう。
1990年にメガネスーパーが旗揚げした新団体SWSに移籍する。巨大資本を誇るSWSの大金が魅力的だったのかもしれない。
 
当時のSWSが「金権プロレス」や「練習量が足りないプロレス」、「闘いが見えないプロレス」などと一部で揶揄されたことがあったが、もしかしたら俊二の肉体を見たらそういわれても仕方がないかもしれない。明らかなオーバーウェイトで練習量が足りない、贅肉だらけのブヨブヨな肉体だった。
これはSWSで得た大金を遊びや暴飲暴食につぎ込んだといっても言い過ぎではないだろう。なぜ彼はあの時、業界で有名だった練習嫌いを克服できなかったのだろう…。
 
SWSでの唯一の功績は兄ジョージとの高野兄弟を結成し、タッグ戦線をにぎわせたことだろう。
 
「弟(俊二)はプロレスセンスが有るんだけど、練習嫌い。兄貴(ジョージ)は身体能力抜群でスゲー練習好きなんだけど、残念ながらプロレスセンスが無いんですよね」
 
以前、ジョージ高野を取り上げた時に、コメントをくれたアステカイザーさんの言う通りで、高野兄弟は互いに何かが欠けていた。ジョージにはプロレスセンス、俊二には練習量。この欠点が克服できていれば二人はスーパースターになっていたのかもしれない。
 
1992年SWSは解散。
俊二はジョージと共にケンドー・ナガサキが率いるNOWに参加することを表明するも、プレ旗揚げ戦後に脱退し、1993年PWCという団体を旗揚げする。だが、今度は兄のジョージと仲が悪くなった。結局ジョージはPWCを去り、俊二は独りぼっちとなった。
 
PWCは所属選手の不足と高野自身の素行不良が重なって旗揚げ後数か月で財政難となり、観客数も伸び悩んで興行を打つのもままならない状況になる。約1年後、当時所属していた黒田哲広をはじめとする選手達が離脱(脱走)。一人残った拳磁は、デスマッチ路線に活路を見出そうと将軍KYワカマツ率いる宇宙パワー軍との抗争を開始。宇宙パワーX、同XXと増殖していく宇宙パワー軍を相手に、高野は金村ゆきひろ(現:金村キンタロー)、荒谷信孝(現:荒谷望誉)、松崎和彦らと「地球防衛軍」を結成。有刺鉄線ボードや五寸釘ボードを用いる血みどろの戦いが繰り広げられた。
【高野拳磁/wikipedia】

 
 
人望はない。
人気もない。
金もない。
 
その中で叫んだマイクアピールがきっかけで彼は「野良犬」となった。
ある意味、内面をさらけ出すことで一部のマニアで"カリスマ"のような存在として捉えられるようになった。
インディー団体にゲスト参戦し、CMやバラエティー番組、映画やVシネマにも出演した俊二。格闘バラエティー番組「リングの魂」では「高野拳磁を個室に独りにしたら」という企画が組まれるほどの人気を誇った。ちなみにいつの間にかリングネームは「高野拳磁(たかのけんじ)」に改名していた。
 
"地下インディープロレスのカリスマ"となった拳磁にハマった男がいる。漫画家・杉作J太郎氏だ。J太郎氏が語る高野拳磁はある意味、数々の伝説を残した"トンパチ"の姿だった。
 

「やっぱり彼のマイクとか良かったですものね。流山でさあ、カメラスタッフも入れて試合を撮影したのに、高野はずーっと場外で寝っころがって、うんうん言ってさあ。全然試合しないの。で、リング上は松崎と荒谷さんが血まみれになって。で、試合が終わったら肩を組んで”うん、この若い奴らも頑張ったから!”とか言ってさあ、はらわた煮えくりかえったんですよ。武勇伝はいっぱいあるんですよ。恵比寿のラーメン屋を一軒破壊したし。その時に”俺は新日本の高野だ!”って。違うでしょ(笑)深夜三時ぐらいに電話があるんですよ。”Jさん、今どうしているか解りますか?ロウソクの火を見ているんです。電気を止められて。これから一家で心中するかもしれない”って。そんな事を言われたら、待て!ってなりますよね。それから一時間かけて自転車で高野の家に行かないといけなくなって。家に喰いかけの饅頭が三つあったから、それを持って行くんです。お金だととられちゃうから。家に着いたら大喜びで。饅頭も”お、三つある。これで生きて行けるぞ!”って。そんな訳がないじゃないですか。屋台村だって色々あったんですよ。高野が”俺はジムが欲しかったんだ!これからはここで選手を育てる事ができる”って上機嫌で喋って。向こうに行った隙に、ずーと黙っていたワカマツさんが”んな事言っても、焼きそばで選手は作れません”って(笑)高野は夢ばかりを語るんです。”大きい人だけを呼びたい。ほら、小さい人に仕切られるとムカつくじゃん”とかさあ。あの頃の屋台村は、やっぱり呑気で。高野とワカマツが抗争しても、興行終わりはみんなで一緒に電車で帰るんですよ。道中でワカマツさんが”高野、俺も勉強したいから。頭が良くなるには本を読んだ方がいいって聞いたんだ”って。で、みんなで綱島の古本屋に行くんですよ。そこで高野が”ワカマツさん、この本がおすすめですよ!”って言ってさ。後ろで笑っているんだよ。見たらアムウエイの本で(笑)真面目に読んでるワカマツさんをみながら”クククク!”って。本当に金を払わなかった。屋台村でファンが来ても興行できなかった。説明が”イス屋に金を払わないから”って。そんなの嘘で、会場と揉めたんですよね。西日本プロレスの旗揚げ戦が九州であってさ。高野がら航空券がスタッフ分の三枚も送られてきて、みんなで大驚愕して。高野が奢るなんてって。で向かって、興行終わりで焼肉に行くんですよ。で、高野がありえないぐらいバクバク食べて。で、最後に”あ、ここはワリカンですから”って!くっそー、先にそれを言えって(笑)で、会計の時に席を出たら、周りの客に、若い女の子にキャーキャー言われたんですよ。そうしたら、”あ、Jさん、ここの会計が俺がもつから!”って。なんだよ、それは」
端倉れんげ草/プロフェッショナルレスリング 高野拳磁と冬木FMW時代を語る杉作J太郎】
 
またPWCで若手を育成していく中で、ビアガーデンでプロレスをするという「闘うビアガーデン」を考案したのが拳磁だった。この企画を継承したのが元PWCの高木三四郎で現在の「ビアガーデンプロレス」に繋がっている。

高木三四郎、NOSAWA論外、MIKAMI、菊タローといった男達は高野拳磁の背中を見て、プロレス界を学んでいった。
 
だがPWCは若手選手達は一斉に離脱し、またも独りぼっちになった。ジャイアント・ゼブラ、ジャイアント・ドス・カラスというマスクマンになるもブレイクせず、ついに彼は素浪人となり、プロレス界から姿を消した。
 
新日本の鬼軍曹・山本小鉄氏は高野拳磁についてこう語る。
 
「小橋健太のような根性があれば、ゆうに前田日明を越える逸材だった」
 
その言葉は偽りでも、大げさでもない。
もし彼が練習とトップになるための努力を怠らなければ、スーパースターになれたかもしれないし、プロレス界の帝王になっていたかもしれない。トップになる、ビッグになるという野心はどこで亡くしたのか、見失ったのか。
そう思うと、"野良犬"となって一部でブレイクした姿は本来の彼のブレイクの仕方とは違ったはずだ。
 
もしかしたらそのことを実はよく分かっていたのは彼自身ではないだろうか。1997年1月4日の東京ドーム大会で、大日本プロレスを中心としたインディー連合が新日本プロレスと対抗戦を行った際、拳磁は出場選手としてリストアップされたが、「自分が新日のリングに上がるのは、相手に失礼だから」と断ったという。
これは今の落ちぶれた姿で新日本に上がりたくないという彼自身のプライドだったのかもしれない。
 
ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田を継ぎ、外国人に体格も見劣りしないスーパーヘビー級の王道のようなプロレスを体現し、まるで映画"シン・ゴジラ"のようにその暴れっぷりが喝采を浴び、メジャー団体を席巻するスーパーモンスターになれたはずなのだ。
 
ちなみに私は彼の全盛期は1988年~1990年の全日本時代だと考えている。もし、あの時、SWSに移籍せず全日本に残っていたら、栄光と伝統の三冠ヘビー級王座に彼の名前は刻まれていたかもしれないし、下手したら「高野拳磁」に改名していないかもしれない。
 
期待外れに終わった未完の大器は"シン・ゴジラ"になれなかった。
才能や体格は満点。それでも努力を継続でき、素行不良を起こさない人間力の欠如がこのような現象が発生したのではないだろうか。
 
2015年、SNS上で高野拳磁の近況が判明する。
現在、彼はアメリカ・カリフォルニアに在住しており、事業家に転身しているという。彼の最近の写真を見ると、そこには黒のサングラスをかけた50歳を越えた高野拳磁がいた。
 
確かに彼はトップを取れなかったし、スーパースターにも、シン・ゴジラにもなれなかった。それでも、何かを期待させてしまう野性的でオシャレでどこかカッコいいオーラを身にまとっていた。人を惹きつけるまるで超一流のロックンローラーのようなオーラは野良犬になっても変わらなかった。
 
ちなみに20年前にあるプロレス雑誌でこんな募集があったという。
 
「渡米費用大募集! シャレにならないくらいのカルト王・高野拳磁のために、どうにか米国行きのチケットを…!我こそ”サイコパス"高野拳磁を救え! 」
 
これは高野拳磁のアメリカ遠征費用をプロレスファンに一部負担してほしいという編集部を経由してのお願い。現在で言うところのクラウドファンディングのようなものだ。(この企画は実現していないと思われる)
 
ちなみにこの費用を負担した有志にはこんな特典があったらしい。
 
「いつの日か、高野拳磁が東京ドームで興業を開催した際には、編集部が責任を持って最前列にご招待します」
 
東京ドームのメインイベントに立つ高野拳磁を私は一度でいいから見てみたかった。例えそれが"怪獣"だったとしても、"野良犬"だったとしても、"素浪人"だったとしても…。