宮沢賢治の命日 | 戦車兵のブログ

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9月21日は宮沢賢治の命日である。

 

小学生の頃から宮沢賢治が好きで、その作品は随分読んだ。

 

童話より詩が好きであった。

 

最近「永訣の朝」という詩を改めて読んだ、人生を少し年を経たせいかとても心に沁みた。

 

中学生の頃にはこんなにも沁みる詩とは思わずただただ悲しい詩だとしか思わなかった。

 

私は宮沢賢治の詩の中では特に「稲作挿話」が好きだ。

 

 

稲作挿話


宮澤賢治


あすこの田はねえ
あの種類では
窒素が余り多過ぎるから
もうきつぱりと灌水(みず)を切つてね
三番除草はしないんだ

……一しんに畔を走つて来て
青田のなかに汗拭くその子……

燐酸がまだ残つてゐない?
みんな使つた?
それではもしもこの天候が
これから五日続いたら
あの枝垂れ葉をねえ
斯ういふ風な枝垂(しだ)れ葉(ば)をねえ
むしつて除つてしまふんだ

……せわしくうなづき汗拭くその子
冬講習に来たときは
一年はたらいたあとゝは云へ
まだかゞやかなりんごのわらひを持つてゐた
今日はもう日と汗にやけ
幾夜の不眠にやつれてゐる……

それからいゝかい
今月末にあの稲が
君の胸より延びたらねえ
ちようどシヤツの上のぼたんを定規にしてねえ
葉尖(はさき)をとつてしまふんだ

……汗だけでない
涙も拭いてゐるんだな……

君が自分で設計した
あの田もすつかり見て来たよ
陸羽百三十二号のはうね
あれはずゐぶん上手に行つた
肥えも少しもむらがないし
いかにも強く育つてゐる
硫安だつてきみが自分で播いたらう

みんながいろいろ云ふだらうが
あつちは少しも心配ない
反当三石二斗なら
もう決まつたと云つていゝ
しつかりやるんだよ



これからの本当の勉強はねえ
テニスをしながら商売の先生から
義理で教はることでないんだ

きみのやうにさ
吹雪やわづかの仕事のひまで
泣きながら
からだに刻んで行く勉強が
まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
どこまでのびるかわからない

それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ
ぢやさようなら
……雲からも風からも
透明なエネルギーが
そのこどもにそゝぎくだれ……

 

             (稲作挿話)

 

 

 

 

「これからの本当の勉強はねえ
テニスをしながら商売の先生から
義理で教はることでないんだ」

 

この詩の中で学ぶというものの本質をとらえた良い一節だ。

 

「きみのやうにさ
吹雪やわづかの仕事のひまで
泣きながら
からだに刻んで行く勉強が
まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
どこまでのびるかわからない

それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ」

 

そういう学問こそが本当の勉強なんだと若いころからこの「稲作挿話」の詩を心の励みにしてきた。

 

学ぶ場や師がいなければ独学でやってきた、だから学歴なんて関係ないし実学としてやってきた。

 

戦史の勉強は今の日本ではきちんと学べないからね。

 

宮澤 賢治、1896年(明治29年)8月27日 - 1933年(昭和8年)9月21日)は、日本の詩人、童話作家。

 

仏教(法華経)信仰と農民生活に根ざした創作を行った。

 

作品中に登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、イーハトヴあるいはイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)と名付けたことで知られる。

 

彼の作品は生前ほとんど一般には知られず無名に近く、没後、草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていった。

 

そうした経緯もあって日本には広く愛好者が存在する。

 

 

「永訣の朝」は妹トシの最期を詠っている。

 

妹のトシは1898年11月5日生 - 1922年11月27日没(享年24)の短い人生であった。

 

子供の頃から成績優秀で、岩手県立花巻高等女学校でも4年間首席、卒業式では総代として答辞を務める。

 

卒業後、東京の日本女子大学校家政学部予科に入学する。

 

女学校卒業前に音楽教師との恋の噂の記事が地元の新聞に掲載されたことに傷つき、実家を離れる進学が許可されたのではないかと言われる。

 

女子大卒業前に入院するが、卒業を認められる。

 

体調が回復してから母校の花巻女学校教諭心得として英語と家事を担当するが、翌年喀血、以後は療養生活を送る。

 

1922年11月27日午後8時30分死去。

 

24歳だった。

 

賢治は押入れに顔を入れて「とし子、とし子」と号泣、亡骸の乱れた髪を火箸で梳いた。

 

『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』を書く。

 

29日の葬儀は真宗大谷派の寺で行われたため賢治は出席せず、出棺の時に現れて棺を担ぎ、持参した丸い缶にトシの遺骨半分を入れた。

 

この遺骨は後に国柱会本部に納めた。

 

 

宮沢賢治の最期は1933年(昭和8年)9月17日から19日まで鳥谷ヶ崎(とやがさき)神社のお祭りが行われ、賢治は門口に椅子を出して座り、神輿や山車を見物した。

 

翌日の朝、昨夜賢治が門口にいるのを見た農民が相談に来た。

 

話をした後、賢治は呼吸が苦しくなり、往診した医者から急性肺炎の兆しと診断される。

 

その夜、別の農民が稲作や肥料の相談にやって来る。

 

賢治は着物を着換え1時間ほど丁寧に相談に乗った後、すぐ二階の病室に運ばれた。

 

心配した清六が付き添って一緒に寝たが、賢治は「この原稿はみなおまえにやるから、もし小さな本屋からでも出したいところがあったら出してもいい」と話した。

 

 9月21日、午前11時半、突然「南無妙法蓮華経」と唱題する声が聞こえたので家族が急いで二階の病室に行ってみると、賢治は喀血して真っ青な顔になっていた。

 

政次郎が「何か言っておくことはないか」と尋ねると、賢治は「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください」「私の一生の仕事はこのお経をあなたの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい正しい道に入られますようにということを書いておいてください」と語った。

 

政次郎が「おまえもなかなかえらい」と答えて階下に降りると、賢治は清六に「おれもとうとうおとうさんにほめられたものな」と言った。

 

病室に残ったイチが賢治に水を飲ませ、体を拭いてやると「ああいい気持ちだ」と繰り返し、午後1時半、呼吸が変わり潮がひくように息を引き取った。

 

没時年齢は満37歳。

 

葬儀は宮沢家の菩提寺で営まれた。

 

18年後の1951年(昭和26年)、宮沢家は日蓮宗に改宗し、墓所は花巻市の身照寺に移された。

 

また国柱会から法名「真金院三不日賢善男子」が贈られた。

 

東京都江戸川区の国柱会には賢治の遺骨の一部が納められている。