アメリカ軍の沖縄戦における戦闘神経症 | 戦車兵のブログ

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昨日、6月23日は沖縄戦の組織的戦闘が終わった日であった。

 

米軍は硫黄島や沖縄を攻略した。

 

それは日本本土へ近づくにつれ大きな損害を受けることとなり、日本軍の抵抗は激しさを増していた。

 

そして米兵は日本軍との戦いで身も心も傷ついていった。

 

 

 

 

沖縄でアメリカ軍を苦しめたのは、戦闘による戦死傷だけではなく、今までにない膨大な数の兵士に生じた戦闘神経症であった。

 

 

 5月末までに、アメリカ軍の戦闘によらない死傷者が、海兵隊で6,315名、陸軍で7,762名合計14,077名発生しているが、この内の多くが戦闘神経症による傷病兵であった。

 

そして、沖縄戦終結時点では26,211名に膨れ上がっていた。

 

 

症状としては、軽いものでは感覚麻痩を呈する者が多く、さらに運動麻痩や涕泣、無言、無表情といったものであったが、パニック障害、精神錯乱を起こすものもいた。中には大小便でズボンを汚したり、機関銃を乱射する等の異常行動もみられたという。

 

 

戦闘神経症患者はこれら症状により「生ける死者」とも呼ばれていた。

 

 

 

沖縄戦での戦闘神経症発生比率は7.8%と、ヨーロッパ戦線(1944年)の5.2%、太平洋戦線(1944年)の4.8%と比較してかなりの高率となっているが、その理由としてアメリカ陸軍は「最大要因は日本軍の集中砲撃である、それはアメリカ軍が今まで経験したこともない物凄い量であった。この他には日本軍による狂信的で絶え間ない肉弾攻撃もあった」と分析している。

 

 

 

アメリカ軍は、戦闘神経症対策として多くの精神科医を沖縄に送り込み、大規模な野戦病院も準備したが、その野戦病院は常に3,000名〜4,000名の戦闘神経症患者が詰め込まれていた。

 

 

 

野戦病院の治療により、沖縄戦初期の5月8日までは68.2%の患者が原隊復帰を果たしているが、戦闘が激しくなるにつれて復帰率は下がり、末期の6月28日には非戦闘任務復帰者も含めて復帰率は38.2%に落ち込んでいる。

 

 

復帰出来なかった兵士はグアム島かアメリカ本土に後送されたが、そこでも完治せず終戦後も症状に苦しんだ兵士も多かった。

 

 

戦後に追跡調査できた患者の内で2,500名が「現実と分離したまま」の生活を送っていたという調査結果もある。

 

また未だに症状を訴える元兵士も存在している。

 

 

沖縄戦での大損害を参考にした被害想定は、アメリカにおけるアジア史の権威イアン・ガウ教授のように「沖縄戦はアメリカ軍と日本軍の交戦の中でもっとも苛烈なものであった、沖縄の占領に莫大な人的、物的代価を払ったことが、原子爆弾の使用に関する決定に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもない事である。アメリカの指導者たちは、アメリカ軍が日本本土に接近するにつれて人的損失が激増する事に疑問をもってはいなかった。沖縄での経験から、アメリカの指導者たちは日本本土侵攻の代価は高すぎて払えない事を確信していたのである。」とアメリカによる日本への原子爆弾投下の判断の大きな要因となったと指摘されることも多い。

 

 

 

 

米兵の死傷者は日本に近づくにつれ増えたが、心を病んだ米兵はまた違った恐怖をアメリカに植えつけただろう。

 

米軍にとって日本への原爆投下は切実な願いとなっていった。

 

日本軍将兵が激しく米軍と戦い、祖国の愛する者のために身を挺して戦ったことが原爆投下に繋がるとは皮肉なことであった。

 

 

歴史とはそういう悲しい真実がある。